第三篇 夢
『そう、見たんだよ……真夜中の海を彷徨う、女の幽霊をなぁっ!』
五年前の悲惨な事故。その少女の思念体がその場にとどまっていたら。
馬鹿げている。突拍子もない話だと理解している。でも、もしそれが事実ならば……
少女は、真夜中に生きる海の幽霊かもしれない。
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泡沫の人魚姫 第三篇 夢
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「ねーえ、どうしたのよ。急に固まっちゃって」
目の前で体を揺らしながら、彼女は必死に注目を集めようとしている。
「もしかして……やっと信じてくれた?」
少女は整った片眉を少し持ち上げて、テスト解説をする教師のように得意げな表情を浮かべていた。俺は未だに馬鹿げた仮説に思考が囚われ、彼女をまっすぐに見ることもできない。
「あのさ、あんたって……」
「なあに?」
俺の態度の変化に気づいたのか、彼女は姿勢を正して向き直る。静かに無言で、けれども穏やかなまなざしで、俺が話し始めるのを待っていた。俺の重い口がわずかに開き、そこからあり得ない考えが口に出た。
「あんたは、幽霊なのか?」
ただでさえ大きな瞳が、彼女の驚き具合を物語るように零れんばかりに見開かれた。まさか、事実を言い当ててしまったのだろうか。もしこれが心霊現象であるならば、テンプレート通りに呪われるか、殺されるかでもするのだろうか。
「っ、ふふっ、あははっ!」
少女は腹を抱えて笑いだす。夜の海に響く緊張感のない声に、急に現実に引き戻された。
「幽霊って、そんなはずないじゃない! 見ての通り、手も足もあるのよ?」
手のひらのグーパーを繰り返し、四肢の存在を主張し続ける彼女は、正真正銘の生きた人間だった。幽霊などと噂を流した張本人だって、近くで彼女を見たのなら、秒で意見をひっくり返すだろう。しかしそれでも疑問は残るわけで。
「分かった、あんたが幽霊だって馬鹿げた話はやめる。でもさ、それだと朝が来ないってことが説明できないよな」
「しょうがないじゃない、本当だもの」
「……じゃあ、何なんだよ。ただの嘘吐きならいいけど、あんたが言うには今までの記憶も昼間の記憶だってないんだろ? それが普通の人間ってのは、さすがに無理がある」
「……言われてみればそうね。それに、世の中には無自覚な幽霊の方が多そうだわ」
顎に手を当てて考え込む少女は、案外あっさりと意見を受け入れた。もっと食い下がるものだと思っていたから、こちらは肩の力が抜けてしまった。
「幽霊、幽霊ねぇ……私には何か、心残りがあったのかしら?」
「例えば?」
「私が救ってあげた大好きな人が、他の女の子を想ってしまう、とか」
頭にふと、アンデルセンの有名な童話、人魚姫の情景が浮かぶ。
「……人魚姫は未練なく散った方だろ」
「そうね、最後には海の泡となって消えてしまったわ。でも、そうやって消えたのは体だけでしょう? もし、魂が海に溶けずに残っていたら──」
海風が止んだ。青い瞳が凪いでいる。
「なーんて、冗談よ。でも、私が幽霊だって話は完全に否定できないわ。ねえ、幽霊かどうか分かる方法って、何かないものかしら?」
正直、今の俺には彼女の戯言に付き合う理由がない。先ほどは、上浜たちの戯言に踊らされて幽霊なのかと尋ねてしまったが、もしそうだとしても俺に何の影響もない。元々は、この女が海に居ないことを願い、家から出て来たのだ。それがどうして会話を始めているのだろう。
俺は、それなりに知識欲が強い方だと思う。歴史を学べば繋がりが気になるし、数学の法則が見つかった経緯まで知りたくなる方だった。そうでないと、父親にいくら言われたところで勉学が身につくはずもない。自称記憶喪失の少女が告げた、朝が来ないという証言に、俺はほんの少しだけ好奇心を刺激されていたのだ。
ポケットからスマホを取り出し、少女の手に渡す。
「幽霊なら、カメラに映らないってよくあるよな」
「カメラ……この裏についてるのがそうよね。でも、どうやって使うの?」
「今時使い方が分かんないって、老人か幼児くらいだろ」
呆れながらも、画面下のホームボタンを押してやる。特段ロックをかけてないスマホは立ちあがり、海の写真を背景として初期アプリが並んでいた。クラスで流行っている玉っころを引っ張って打つような娯楽アプリは入ってない。彼女にスマホを持たせたまま、画面を軽くタップしてカメラアプリを開く。少女の指が邪魔しているのか、画面は肌の赤一色だった。この少女に任せるのに不安を覚えた俺は、スマホを抜き取ってカメラを構える。
「撮るぞー。3……2……」
「えっ、あっ」
急にカメラを向けられて、彼女は慌ただしく服を整えている。
「1……」
夜を照らすフラッシュの音が響く。写真が撮れると同時に、少女は画面を覗き込もうとこちらに駆けてくる。
「ねえ、どうだった?」
わくわくと好奇心を隠せない様子の少女のため、カメラアプリの左下をタップして撮れたばかりの写真を見せてやる。内容を確認しないまま青い瞳に画面を向けてやると、あろうことか少女は五本指をスマホにつけてわずかに横にスライドさせた。
「わっ、何これ、すごいわっ! 写真がたくさん! 数字のプリントと……海の写真、何かのメモ……それから、あっ可愛い! みかん持って……」
「やめとけ」
少女からスマホを引っぺがし、電源を切る。
「それで、あんたは写ってたのか?」
「ええ、ばっちり!」
満面の笑みで返されたが、議題は振出しに戻った。写真に残るなら、彼女は実体なのだろう。幽霊の仮説からは再び遠のいた。
「ねえ、りく。他には何かない?」
少しは自分で考えろとも思うが、この常識はずれな少女に期待を寄せたところで、まともな案が出てくるとは思えない。
「……あとは、幽霊は人や物に触れない、とか」
「いいわね、試してみる?」
少女は静かに距離を詰めると、半袖が風に揺れる俺の腕へと指を伸ばした。されるがままに細い指先に視線を合わせ、彼女が自分に触れるのを待った。
その刹那、ひどく冷たい冷気が体に走った。後から思い返せば、体温の低い人間ならそれくらいの冷たさだって普通のうちだと思う。けれど、それが記憶の引き金になってしまったのだ。
冷たく、無機質に感じた手のひら。
部屋にこもった消毒液の匂い。
まだ乾かない濡れた髪。
無力感に泣きじゃくる自分の姿。
あの夏の情景が脳裏に蘇る。
彼女の触れた手を反射的に振り払ってしまった。少女の顔を見ることもできずに、胸の前で両手を握りしめる。震える体をどうにか抑えようとしても、思うようには動かない。
「ごめんなさい……」
少女の震えた声が落ちてくる。顔を上げたときには、彼女は後ろを向いていた。茫然と立ち尽くす俺を置き去りにして、少女は岩場の方へと逃げて行った。結局、その背中を追いかけることもできないまま、その日は帰ってすぐに寝た。目を閉じる前、今更ながら彼女はスマホに触れていたことを思い出した。
♢
「えー、またテストぉ?」
クラスで一番騒がしい少年が、教卓に両手を置く担任教師に文句を言っていた。懐かしい、これは昔の夢だろうか。
「はいはい、静かに! これは学校のテストじゃなくて、皆さんの学力を全国単位で調べる特別なテストですよ。この四年二組が選ばれたのは、皆さんがとっても賢いから。だから、学年の代表に選ばれたんです!」
単純な小学生たちは、自らが賢いと持ち上げられたことを喜び、得意げな顔をしている。先ほどまで文句を垂れていた少年も、ご満悦で腕を組んでいた。隣に座る友人は、こそこそと俺に耳打ちをした。
「このクラスが選ばれたのって、ぜったい凛久がいるからだよな! なあ、お前なら全国一番もラクショーだろ?」
「まさか、そんなわけないじゃん」
そう言いつつも、俺の言葉尻には自信が滲み出ていた。小学生の俺には、憧れを秘めた瞳を向けられるのが純粋に嬉しかったのだ。父の教育方針のせいではあるが、学校のカラーテストはいつも満点。音楽や図工、体育だって卒なくこなすものだから、近所のおじさんたちには神童だとか持ち上げられていた。この頃の俺は何でもできる自分を誇りに思っていたし、父親のために勉強することだって、むしろ好んでいたのだ。
そんな挫折を知らない小学生に現実を教えたのは、この全国模試だった。結果は全国順位が八百位前後。母数は十万近くはあったはずだから、ざっと百人の中だけで一位のレベル。井の中の蛙であった俺はそれなりに落ち込んだし、自分の順位を手放しに喜べなかった。それでも先生にはクラスで一番の成績だったと褒められ、クラスメイトがこぞって俺の成績を覗きに来ては目を輝かせるものだから、寒空の下を走って帰る頃には、単純な小学生の自尊心は満たされていた。
「ただいまー!」
靴を揃えることも忘れ、駆け足でリビングに凱旋する。
「あら、お帰り。そんなに急いでどうしたの?」
柔らかい声で出迎えた母に、俺は満面の笑みを見せていた。
「今日さ、模試の結果が返ってきたんだ」
母の前に座り込んだ俺は、ランドセルをひっくり返すように床に落とす。パチンと勢いよく金具を開けて、連絡用のファイルから模試の結果を探しはじめた。放置していたプリント類に紛れ、中々見つからずに唸る俺へと、母はいたずらっ子のような笑顔で耳打ちした。
「今日ね、もうお父さんが帰ってるの」
目をまんまるにして驚く俺が滑稽だったのか、母は楽しそうに笑っている。医者の仕事に忙しく不在がちな父は、この頃の俺の憧れだった。今では反吐が出るが、当時は父を慕っていて、自分の存在を認めてもらいたいと願っていた。だからたくさん努力もした。
そんな父に今日は会えるという。無垢な俺にとって、いいテスト結果を持ち帰った自分を褒めてもらう絶好のチャンスだったのだ。
母は口を開けたままの俺からファイルを掠めとると、ものの数秒でお目当ての模試結果を見つけ出した。ちらりとそれを眺めた母は、最高の笑顔で俺の頭をくしゃりと撫でる。
「さすが、母さんの宝物ね」
母はわざと恭しくその紙を授けると、行ってらっしゃい、と背中を押す呪文を唱えた。俺はその勢いのまま、階段を駆けあがった。二階、俺の部屋とは反対側の角部屋には父の書斎があった。金のノブがついた扉まで辿り着くと、そこを三回ほどノックする。
「あの……お、お父さん。今いいですか?」
「……ああ」
少しの沈黙の後に響いた、感情の読み取りづらい低い声。緊張と期待を伴いながら、重い扉を引き開けた。顔を上げると、眉間に皺を寄せた父が上から俺を見下ろしていた。父の発する威圧感に舌先は乾き、思わず背筋が伸びてしまった。
うんともすんとも言わぬ父を前に、俺はおずおずと模試結果を差し出した。
「……この前、学校で四教科の全国模試があったんです。頑張ったので、見てもらいたくて」
父は黙ってその紙を受け取ると、表情を崩さぬままじっと紙面を見つめる。褒めてもらうことを期待して、自然と口角が上がる。そんな子供の期待を裏切るような冷たい視線が落ちてきた。
「……こんなものか。もっと精進しなさい」
眉一つ動かすことなく、一蹴されてしまった。あの父に期待などする方が馬鹿だったのだ。次に気がついたときには、母の横でこたつの木目を眺めていた。母はいつも通りの様子で、綺麗にみかんを剥くと俺の口に放り込む。
「……甘いでしょう?」
父の部屋を出てから何も語らなかった俺の背を、母は優しく撫でてくれた。何も聞かずに寄り添うように。口に運ばれたみかんの粒は思ったよりもずっと酸っぱかった。
俺が父に努力を否定されても、途中までまっすぐに育ったのは母の存在が大きかった。父の代わりに俺と過ごし、たくさんの愛を与えてくれた人。この愛があれば、どんなことでも乗り越えられると思っていたのに。
あの人は、夏に俺を置き去りにした。
小学五年生の夏、線香の臭いから逃げるようにして家を飛び出したことがある。スマホも持ってない俺は、家のカードキーだけを握りしめて海へと逃げたのだ。
「ねーえ、何してるの?」
青い海を前にして静かにうずくまっていた俺に、話しかける声があった。
俺は顔を上げて彼女の顔を確かめようとするが、記憶にもやがかかったように、どうしても思い出せない。
「大丈夫、──が守ってあげる!」
白いワンピースを着た少女が、こちらに手を伸ばす。涙を堪える俺は、引き寄せられるようにしてその手を掴んでいた。




