第二篇 幽霊
「おはよう」
砂浜にこぼれ落ちた音は、軽い空気の中を伝わっていく。海の瞳から溢れ出した色は、世界をほんの少しだけ色付けた。
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泡沫の人魚姫 第二篇 幽霊
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月夜に映える白肌に、くっきりとした目鼻立ち。目を引く姿をした裸足の少女は、絵本から飛び出てきたと言われても違和感がない。俺を見据える青い瞳は、何かを求めているような圧力がある。沈黙を堪えきれなかった少女は一歩また踏み出し、俺に返事を催促した。
「ねえ、おはよう」
いや、「おはよう」って何だよ。
思い出してみてほしい。辺り一帯は闇夜に包まれ、この時間に海を照らすのは、微かな街灯の光と青白い月光だけ。時刻は零時を回り、浜辺は人気もなくなっている。例え誰かとすれ違ったところで、無言で身構えるのが相場だろう。普通は身の危険を感じる深夜に、他人に挨拶などしない。それに百歩譲って「こんばんは」ならまだ分かる。だが「おはよう」。
頭のネジが外れているのか、それとも普通から逸脱した自分に気持ちよさを覚えるタイプか。どちらにせよ、厄介極まりない。
それに、少女のあどけない顔つきを見るに、自分と同年代かそれ以下に思える。自分を棚に上げて言ってしまうが、深夜徘徊する青少年がまともなわけがない。家庭環境が終わっているか、悪い友人にでもそそのかされたのか。
しまいに、少女の足は裸足だった。どこかに靴を置いてるだろうと考えたが、近くにそれらしきものもなかった。闇夜に隠れて見つけられなかっただけだと思いたい。
「ねーえ、あなたの口は何のためについてるのよ。おはようってば!」
あー、うるさいな。
俺が海に来た理由は現実逃避のためであって、こんな女に絡まれるためではないのだ。少しでも見とれてしまった自分が馬鹿に思える。そもそも、現実味がないということは、常識から外れた存在ということだ。見つけてすぐに逃げるのが正解だったろうに。
「あら、悪い魔女に声を奪われてしまったのかしら。困ったものね、人魚姫さん!」
「変なあだ名をつけるな」
「なんだ、ちゃんと喋れるじゃない」
こちらが呆れているのにも気づかず、会話が成立したことに喜んだ少女は、夜の海辺でくすくすと小さな笑いを零していた。
「ねえ、人魚姫さん。私はシレーヌって言うのよ!」
少女は再び砂浜とそれを海が攫った跡に立つと、くるりと一回転してワンピースを揺らした。右足で軽やかに回転を止めると、こちらに向かって白い腕を伸ばす。
「あなたの名前は?」
「知らないやつに、そう教えてたまるか」
俺は海を惜しみながらも、コンクリートに続く階段を横目に見る。面倒なやつに、これ以上時間を潰されたくなかったのだ。まして今日は、帰宅後ずっと時間を無駄に過ごしたばかりだ。来月の学期末テストまでの時間もほとんどない中で、海を去る選択肢を取ったのは当然のことである。
少女に背を向けてこの場を去ろうとしたとき、後ろから大きな声で呼び止められた。
「知らないやつじゃないわ。だって私、今あなたに自己紹介したもの!」
少女は砂を蹴って俺の前に回り込むと、先ほどの威勢はどこへやら、祈るように呟いた。
「私は、シレーヌ……あなたの名前は?」
俺は別に、誰かをいじめる趣味はない。そんな風に眉を下げられ、こちらが悪者のように怯えられれば、少しの同情心くらい生まれる。それだけの理由だった。
「凛久」
「……りく。りく……ふふっ、陸に住む人間にぴったりの名前ね」
人間、誰しも陸上生物であろう。「りく」という響きなど、俺一人に適合するわけでもない。この少女の感性は非常に独特だった。
「ねえりく、あなたのことを教えて。年齢は? 好きな食べ物は? 海は好き?」
調子に乗った少女は矢継ぎ早に質問を投げてくる。名前を教え合ったことで、俺が心を開いたとでも思ってるのだろうか。園児のような脳構造に、俺は再び眉をしかめた。
「また黙っちゃって、りくは照屋さんなの?」
「……歳は十五、好きな食べ物はみかん、海は好きだ。もういいだろ」
「思ったより若いのね。難しい顔のせいか、もう少し老けてると思った。それから、私はみかんよりオレンジが好きよ」
人に聞くだけ聞いておいて、少女の口から出るのは無責任な返答だった。わざと人の感情を逆なでするような着眼点。これが素だとすればたちが悪い。いよいよ去ろうとしたところで、再びソプラノの声が通る。
「でも、海が好きなら気が合うわね。私も、海が大好き」
そう告げるや否や、彼女は足早に海の方へと駆けていった。白い足を波に預けて深い海を見つめている。
「足元の砂がね、波に取られていくときの感触って、なんだか気持ちいいの。足に触れる砂粒がどんどん消えていく。自分の立っている場所が不安定になって、そのまま私まで攫われてしまう気分になる」
少女がこちらを振り返る。深い海の色に紛れ、表情はよく読み取れない。
「あなた、海に攫われたくて来たの?」
「俺、は……」
心臓の表面を剥ぎ取られた気分だった。あのとんちんかんな会話をするおかしな少女ごときに、自分の心を見透かされたように感じるなんて。それこそ馬鹿げている。この感覚を見透かされるのが怖くなって、話題を変えようと勝手に口を動かしていた。
「……あんたは、いつまで海にいるつもり? もう遅いし帰ったら?」
もう、これ以上関わりたくない思いが先行した結果だった。この少女を家に帰すために、俺は口八丁を並べる。
「女の子がこの時間に出歩くのは危ないだろ? 何かに巻き込まれてからじゃ遅い。それに、このあたりには交番があるから警察に補導されても面倒だ」
「後半は、あなたにも当てはまるわよね?」
高校生の俺を一瞥すると、彼女は丁寧に口を尖らせた。
傍から見れば、俺も大人に守られるべき補導対象だ。しかも、帰宅後も部屋着に着替えず過ごしたため、高校の制服を着用中。警察に見つかれば、彼女同様一発でアウトとなる。確かに人のことを言えた口ではない。
「……分かった、俺もあんたも帰る。これでいいか」
本当は彼女を追い返し、一人で海を堪能できれば御の字だったが、こうなったら仕方ない。せめてもの嫌がらせに、この少女も海から遠ざけてやろうと思った。
「無理よ。私、記憶がないもの」
あっけらかんとした調子の少女は、特に説明を続けるでもなく、海から足を引き上げた。そして波が残した跡を辿るように、砂浜の色の変わり目を手探りで歩き始める。白線を踏んで遊ぶ子供のような無邪気な様子に毒気を抜かれていたのだが、そうではないと思い立つ。
「記憶がないって、なんの冗談だよ。名前は言えるくせに」
「名前しか、覚えてないの。気がついたらここにいたのよ」
記憶喪失なんて突発的になるものではない。事故や事件でショックを受けた、脳を強く揺さぶられた、そんなことがこの海で起こったとは考えにくかった。
「帰りたくないからって冗談はやめろよ。警察に突き出すぞ」
「それは嫌っ!」
キンと鳴った甲高い声には、強い意思が込められる。こちらをまっすぐに見据える青い瞳には、怯えにも似た拒絶の感情がにじみ出ていた。
じゃあ、どうしろっていうんだと俺は頭を抱えたくなった。記憶喪失だと自称する少女の正体は二つに一つ。ドラマでしか見たことのない非現実的な現象、記憶喪失に本当に陥っているのか、不良娘が帰りたくないがための言い訳か。どちらの答えにしろ、警察に引き渡すのは一番の解決策になる。それを拒絶されたんじゃ、俺にできることはない。無理やり連れて行くのも手ではあるが、連行中に叫ばれて誤解を生むのは面倒だし、俺が警察に行けば補導は免れないだろう。第一、そこまでしてやる義理もない。
彼女との間に沈黙が続いた。手持無沙汰な俺は、スマホをポケットから取り出した。深夜一時を迎えようとするホーム画面を見て、頭の中で計算をする。今帰宅したとして、風呂や明日の支度を済ませたら二時となる。起床時間が七時と考えると、ショートスリーパーでもない俺には物足りない睡眠時間となる。これ以上脳に負担をかけるのも嫌なので、少女をどうにかするのは諦めた。
「もういくの?」
「ああ。俺は嫌でも帰る家があるからな」
「そう。じゃあ、またね」
少女が右手を高く掲げて手を振った。月夜に照らされた少女の微笑みは絵画のようであった。しかしどれだけ美しく見えようと、二度と関わりを持ちたくない。もし、彼女の記憶喪失が事実だとして、明日の朝まで居座られようものなら警察でも呼んでやりたいくらいだ。次に来た時も邪魔されるようなら、たまったものじゃない。
彼女の挨拶に適当な返事を返した俺は、まっすぐに帰路へついた。
♢
時刻は午前七時四十分。
家から三駅先の高校に通う俺は、徒歩で最寄り駅に向かっていた。道中、左手に見える海を眺めながら約十五分の道のりを進む。
快晴を受け、銀色に輝く波を見たとき、ふと昨日の少女を思い出した。記憶を無くして帰れないと言っていたが、さすがに冗談だと思いたい。
首を回し、三十秒ほど広く海を見渡してみたが、活発なサーファーしか見当たらなかった。少しほっとしたような、苛立ちを覚えるような。ともかく、彼女が消えたということは記憶喪失は嘘だったのだ。頭に浮かんだ悪態を飲み込んで、俺は再び駅へと歩き出した。
♢
ホームルーム開始の十分前に、一年A組のクラスに辿り着く。
教室入口から見える窓際後方の席には、あろうことか男たちがたむろしていた。そのうち、最後尾の自席にいたクラスメイトが振り向きざまに手を上げる。
「おっす凛久、席借りてんぜ!」
硬式テニス部の面々が、彼の声を引き金に一斉にこちらを振り向いた。中には顔馴染みのない他クラスの生徒までもが紛れている。
「悪りいな、この席使い勝手がよくてさ。角席ってほら、スペース広いじゃん?」
「早く返せよな」
「分かってるって、今どくから」
ため息をこぼし、教室へと踏み入る。人波を押しのけて机上にリュックを置くも、男は未だ席を立たない。
「そういや凛久の最寄りってさ、こっから三駅下りだっけ?」
「そうだけど……話逸らすなよ。いい加減、席も返せ」
「あ、バレた?」
ようやく男は立ち上がり、俺に席を譲った。彼は俺の前方斜め左に位置を移し、話の続きに戻っていく。どうせならもっと離れてくれとひとりごちたところで、こちらに呼びかける声がした。
「でさ、凛久は最寄り駅の噂を知ってんの?」
会話は終わったと気を緩めていたが、引き続き巻き込まれるらしい。
「噂って?」
「その駅の心霊現象だよ。うちの生徒が見たんだってさ。な、浜っち!」
「おー、凛久も興味ある?」
ひとつ前の席に座っていた話題の中心人物、上浜この野郎は、にやにやした顔でこちらに視線を送る。俺はそれほど興味を持てなかったので、机に肘を立てて頬杖をついた。まったく聞く気のない姿勢だ。しかし、目の前の男は気にする様子もなく、部活仲間に向かって楽しそうに語り始めた。
「はじめに言っとくけど、女テニの知り合いから聞いた話な。その子の最寄りが凛久と一緒なんだけど、この前の夜に……見たらしい」
上浜は怪談師のような大げさな演技で、周囲の注目を引き付けている。話をに聞き入る面々は、喉をごくりと鳴らしていた。
「そう、見たんだよ……真夜中の海を彷徨う、女の幽霊をなぁっ!」
あいつじゃねえか。
昨晩出会った第一容疑者を頭に浮かべ、表情からは呆れた思いが滲み出る。周りの奴らにはそれも伝わらなかったようで、幽霊の噂に盛り上がりを見せていた。先ほど俺の席を占領していた男が、背筋を伸ばして手を挙げる。
「はいっ! 浜っち、その女ってガチで幽霊だったのか?」
「そうだな、例の女テニの証言者によると……」
「よると?」
「見つけてすぐ逃げたから、わかんないってさ! 気になるし今度俺らで探しに行くか!」
やめとけ。
興味を失くした俺は、リュックサックの整理をはじめる。
やはり所詮は噂話、あの女が幽霊であることの信憑性はない。そりゃそうだろう。昨日俺が見た彼女には、しっかりと二本の足がついていたし、体が半透明に透けるようなこともなかった。夜に怪しい女を見かけたからと、すぐに幽霊と決めつけるなんて、その目撃者と話し手が短絡的なことを示すだけだった。
大人しく話を聞いていた奴らも不満を感じたのか、口をとがらせ反抗を見せる。
「ちゃんと見てないなら、その女が幽霊かどうかも分かんねえじゃん」
向き合う短絡思考二号には、懲りた様子は見られなかった。
「それが、信憑性が高くなる話があってさ」
「なんだよ、言ってみろ」
「近くの海で、あることが起きてたんだよ」
急に真剣な顔をした上浜に部活仲間は怯んでいる。上浜はもったいぶったように間を溜めてから、大声でそれを言い放った。
「……五年前、女の子の亡くなった悲惨な事故がなぁ!」
「うわああああぁぁぁああ!」
ふざけ半分の男たちが、教室中に響く醜い悲鳴を上げている。近くでたむろしていた女子たちの怪訝な視線には、気づいてないようだ。
俺は上浜の肩に手をかけて、無理やり後ろを振り返らせた。
「なあ、その話って本当?」
「え? それも女テニのやつが言ってたことだから知らねえ」
真偽のほどは、上浜の適当な声で流された。そうこうしているうちに、担任の掛け声からホームルームが始まる。解散する男たちとともにこの話も四散していった。
♢
夜の十時を過ぎるころ、塾から帰宅した俺は、ベッドに体を預けて天井の模様を眺めていた。
亡き祖母の死後、この家を受け継いだという母は、出産を機にこの家をリフォームしたという。この築年数のわりにやけに綺麗な壁紙が目に入るのも、それが理由だ。リフォームと言っても母は雰囲気を一新することは望まず、思い出の再現を選んだ。この部屋は特に思い入れのある場所として、家具の配置まで当時から大きく変わらないと聞いている。
俺は部屋のレイアウトにそこまで頓着もないので、小さいころから今の今までこの部屋を受け入れていた。部屋の隅にある古い本棚にも手を付けず、そのまま放置しているのだ。
『ここはね、私とおばあちゃんの思い出がたくさん詰まった部屋なのよ。だから凛久、私の大事なあなたにあげる。大切にしてちょうだいね』
母が、俺に一人部屋を与えた日の言葉だった。
大切にするというのが、手をかけないことと同義であれば、母が去った今もなお、奇しくもその願いは律儀に守られている。
俺は思考を逃がすように窓の外に視線を動かす。視界に入る海に今日も焦がれた。昨晩は、あの少女に邪魔をされ、満足に海を感じることができなかった。昨日の今日で、あの少女が記憶喪失ごっこを続けるはずもないと高をくくった俺は、その焦燥に身を任せ、玄関の扉を開く。そしてそのまま、夜の空気に体を預けるのだ。
♢
海へ。
地面を蹴る音が、小気味の良いリズムを刻んでいる。昨日に比べて暑さを感じる体温と、背中に伝う汗のおかげで、潮風はより心地よく感じた。
海へ続く階段を下って不安定な砂浜を踏みしめながら、肺いっぱいに海の空気を吸い込んだ。そして、絶望する。
「おはよう、りく。また来たのね!」
白い髪を靡かせて、昨日と同じワンピースで嬉しそうに歩み寄ってくる。記憶喪失ごっこの家出娘に今日も絡まれなくてはならないのか。呆れ半分、苛立ち半分のまま、俺は正々堂々と向き直った。こちらには証拠があるのだ、化けの皮を剥ぐのは造作もない。
「……あんた、ちゃんと家に帰れるんだろ。記憶喪失は嘘って分かってるから」
少女は青い瞳をまんまるに開いたまま、不思議そうに首をかしげている。
「私? ずっとここにいたわよ」
「嘘つけ。今朝見たときはどこにもいなかった」
桃色の唇が明瞭な音を紡いだ。
「……朝? まだ朝なんて来てないわ」
「何言って……」
少女の瞳は困惑を帯びたまま。嘘を楽しんでいるような気配はない。
しかし、彼女の証言は明らかに矛盾していた。どう考えたって、誰に聞いても彼女の言い分がおかしい。なのにその証言が事実の可能性を考え始めている。
『そう、見たんだよ……真夜中の海を彷徨う、女の幽霊をなぁっ!』
五年前の悲惨な事故。その少女の思念体がその場にとどまっていたら。
馬鹿げている。突拍子もない話だと理解している。でも、もしそれが事実ならば……
少女は、真夜中に生きる海の幽霊かもしれない。




