第一篇 青
青
夏だというのに、珍しく冷え込んだ夜。肌をなでる空気は軽く、心地よさすら感じていた。時刻は零時を回る閑散とした闇の中、青く瞬く海の瞳から目を逸らせずにいる。
浜辺に佇む少女がひとり、ふっと息を漏らす。月明かりに反射して輝きを増した銀糸は、揺蕩う波のように、穏やかにゆらゆらと揺らめいていた。瞳に映ったその光景は、幼いころ読んだ童話の世界のように儚く、綺麗で──
白いワンピースを靡かせた少女が、裸足で砂粒を踏みしめる。
言葉に詰まった俺をよそに、
「おはよう」
彼女は朝の挨拶をした。
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泡沫の人魚姫 第一篇 青
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人は、上っ面の生き物だ。
己と比べ、下と決めた相手には「可哀想」と形ばかりの偽善を向けて、心の内では蔑むだろう。
反対に、己より優れた相手には「素晴らしい」と拍手を送りながら、笑顔の下に嫉妬心を燃やすのだ。
上から見下す人間も、下から睨みつける人間にも大層な違いはない。小学校で習った「人は平等」なんて言葉は、奇しくも的を射ていた。だって、人は生まれながらに等しく、愚かな精神を宿しているのだから。
もう一度言おうか。人は上っ面の生き物だ。
それを理由に、希薄な関係しか望めない。一緒に何かを成し遂げた。心の傷を癒してくれた。例えばそんな相手がいたとして、一皮剥けば情など消える。
血のつながりを持った相手にすら、裏切られるような世の中だ。人を信じるだけ無駄だと、常々そう感じられる。
だからといって俺は、人の愚かさに絶望し、死に逃げるほどの馬鹿ではない。
俺は、この上っ面だけの世界で、「空気」のように生きたいと思う。誤解しないでほしいが、無視を望む変態じゃない。クラスでいじめられたこともなければ、知り合いだって人並みにいる。つまり、空気っていうのは──
「よっ、凛久!!」
騒音とも似つかぬ呼び声が、寝不足の脳を揺さぶった。ぴくりと跳ねた体が、勉強机の縁にぶつかって地味に痛む。窓の向こう、更にフェンスの向こうの凪いだ水面を眺め、物思いに耽る時間に邪魔が入った。
先日の席替えで窓際最後尾の特等席を得たというのに、これではとんだぬか喜びだ。静かな学校生活など、夢物語でしかないのだろうか。あいにく、自分は不機嫌を隠せるほど殊勝な人間でもなかった。非難を表す手振りで右耳を塞ぐと、音の発信源を睨みつけた。
「なんかお前、不機嫌?」
こちらの態度に気づけども、彼が気をつかう様子はない。呑気なクラスメイトはあっけらかんと白い歯を見せていた。
彼は腰を折り曲げながら、やけに重そうなリュックサックを机のフックに掛けている。ぎしりと聞こえた木の悲鳴も、どうせ気にされることもない。
「ボリューム落とせよ。こっちは寝不足なんだ」
「まーた、勉強? んなもんせずに寝てりゃいいのに。高一で身長止まったら、クラスの笑いもんだぜ」
「そうは言っても、提出日は守らないとだろ」
「あ、あれ……課題の提出って今日だっけ? 浜っちに頼めば間に合う?」
「もうチャイム鳴るし、無理無理。足掻くならアドバイスだけど、数Aじゃなくて数Iの範囲な」
「おけ、俺を信じろって! 爆速で写してくっからさ」
「おー、期待はしない」
駆け出すクラスメイトの背に向かって、片手を持ち上げた。
まったく、朝から元気なことだ。
頼みの綱とされる級友の席では、既に他の愚か者が血眼で課題を写し込んでいる。ホームルーム開始まではあと二分。どう考えたって間に合いそうにない。
これが他の科目なら誤魔化しだって効いただろうに、あいにく今回の課題は数学だった。担当の男教師は、計算過程まで採点に入れることで有名であり、生徒の不評もひどく買っている。ホームルーム直後の一限が始まる頃には、教師へと縋り付く不真面目男たちの懺悔姿を拝むことになるだろう。
今、ものすごい勢いでペンを動かすクラスメイトを、俺はガラス一枚隔てた心地で眺めていた。先ほどのクラスメイトとは、特に親しいわけではない。たまたま隣の席になった、知り合い止まりの関係だ。
話を戻すが、先ほどの「空気」という例えは、言い得て妙だと思っている。教室という狭い空間に、ただ存在するだけの人。誰かの人生に登場する良くも悪くも印象に残らぬエキストラ。クラスメイトの誰から見ても、俺の役名はそれだった。
可哀想と言われればそれまでだが、俺は現状に満足している。
休日を割いて共にすごしたいと思える友人も、身を削り心を砕きたいと思える恋人も、人生に必要不可欠じゃない。人に見下されず、だからと言って敬われもせず。そんな平凡で面白みのない日常こそ、俺の求めるものだった。
こんな若造の持論を、無駄に熱血な生活指導の教師にでもしようものなら、
「そんな歳で、人生をわかった気になるな」
とか
「もっと気楽に青春を楽しめ!」
とか言われるのだろうか。
知るか馬鹿。
さぞ経験豊富な先輩方は、俺のような若者を「斜に構えた捻くれ者」としてカテゴライズするのだろう。立派な肩書きじゃないか。気に入った。
空想上の大人を鼻で笑ってやったところで、ホームルーム開始のチャイムが鳴った。蜘蛛の子を散らすように、宿題を忘れた哀れな男たちが帰って行く。
「ほらそこ、席につけー」
出席簿を肩に置く担任が登場し、俺たちは現実へと戻されていった。
♢
窓の外、夕暮れを反射した水面が揺れている。水泳部が上がった後のプールは、やけに広々としていて、もの寂しく見えた。
人気の少ない教室で、解き終わった問題集のページを閉じ、帰り支度を始める。部活動に使われるでもない一年A組の教室には、ここを自習室代わりに使う物好き、つまりは俺一人しか残っていない。最後の一人の義務を果たすため、電気スイッチの硬い音を鳴らす。
いざ帰ろうと教室から一歩踏み出したところで、上から大きな影が覆い被さった。
「あれ、凛久! まだ残ってたのか?」
人目を引く爽やかな容姿に、小麦色の恵まれた体躯。太陽にも引けを取らぬほど、快活とした明るい声。笑う男の目尻には、ひとつの黒点が刻まれていた。
彼はクラスの人気者、上浜薫。俺の苦手な部類の人間だ。あとは帰るだけだというのに、最悪の遭遇にため息だってつきたくもなる。自由気ままなこの男は、俺の心情などつゆ知らず、今日の出来事を一方的に語りはじめた。
「俺は部活! メニューが一本打ちでさ、普通はクロスかストレートか打って終わりなのに、コーチが『経験者はこのフープの中に入れろー』って急に難易度高めてきて。ほんと、どこから持ってきたんだよ。コーチって子供いたっけ? まあいいや。んで、俺らは猛反発したけど、入れたやつにはアイス奢るって言うから、みんな手のひら返してさ。ほら」
にやりと歯を見せる上浜の手には、お馴染みの棒付きアイスのパッケージが二つ握られていた。
「成績優秀の新人は、おまけで二個貰ったってわけ。ついでだし、一個やるよ」
左手に無理やり押し付けてきたアイスから、上浜の手がぱっと離れた。重力に従って地面にぶつかりそうになる前に、左手がすんでのところでキャッチする。俺がアイスを受け取ったと判断した彼は、片側の口角を上げ、残ったもう一つのパッケージの上口を開いた。乾いた開封音は、湿った初夏の空気をほんの少しだけ涼しくした。
「うん、部活終わりのアイスこそ至高! お前は食わねえの? せっかくやったのに」
「いや、家で食うよ」
「そ」
「入部して二ヶ月なのに、もう満喫してんのな」
「まあ、テニスは前からやってたし。それに、体動かすのは楽しいからな。そうだ、凛久もやれば? テニスじゃなくても『水泳』とかさ。やってたし、凄かったんだろ?」
言葉と記憶は、密接に関わるものだ。
上浜の不用意な言葉に、眉間の向こうがツンと痛んだ心地がした。
『……母さんが?』
鼻の奥に染みついた塩素の匂い。
肩を冷やす髪から落ちた雫。
「……別に、普通だったよ」
「まーた、はぐらかす。そんなら、テニス部に来りゃいいよ」
「行くわけないだろ」
アイスに夢中な上浜との会話は途切れ、微妙な空気が漂っていた。教室にとどまる意味もないので、自分のリュックに手をかける。
「俺もすぐ支度するから、そのまま帰ろうぜ! 色々聞きたいこともあるし」
「悪い、急いでるから」
「んじゃ、腹割って話すのは次回だな!」
誰が話すか能天気野郎。
後ろから声をかける上浜を振り切って、逃げるように階段を下っていく。やっぱりあいつは苦手だ。平気な顔をして、人の心に土足で踏み入ろうとする。
拒絶を知らぬ人間は、すべてに受け入れられるとでも思うのだろうか。なんて傲慢な。のうのうと陽だまりの中を生きてきたやつに、俺の欠片も分かるはずがない。
♢
聞き慣れた電子音の後に、玄関ロックの外れる音がした。ドアを引いて中を確認すると、今日は廊下の灯りがついていた。父の物ではない運動靴も綺麗に一足並んでいる。
帰宅の挨拶も告げず、入ってすぐの階段を登ろうとしたとき、リビングの方から軽い足音が向かってきた。
「凛久さん、お帰りなさい。お夕飯はカレーですよ。すぐに食べられますか?」
シワを刻みながら微笑む女性は、父の雇った家政婦だった。五年もの長い間、週に四日ほど働いてくれている。
若草色のエプロンを首から取り外し、彼女は丁寧に四つに折りたたんでいた。仕事を終えた彼女、もとい家政婦の山川さんは、ちょうど帰るところだろう。
「後で食べるよ」
俺の帰宅に合わせて作ったのか、出来たてのカレーの匂いは廊下にまで漂っていた。彼女には申し訳ないが、今は何かを口にする気分でない。
「では、冷めたら冷蔵庫に入れてくださいね。もう夏ですし、傷まないよう気をつけないと」
彼女が残念そうに眉を下げる様子に、なけなしの良心が痛む。俺は小さく頷くと、そのままリュックを抱えて階段の一番上まで登り切った。
二階角部屋の自室に入り、扉に固く鍵をかける。リュックを机の横に投げ出して、スプリングの効いたベッドに重い体を沈めた。視線の先に転がるリュックの底。あそこには、中間テストの結果がしわくちゃになって丸まっている。
結果は学年一位。これさえ見せつければ、面倒な父親も黙って頷くことだろう。労いの言葉もなしに、俺の努力を当たり前だと考えるクソ野郎。あいつの許しを得るために、どうして俺が勉強するのか。
「……全部むかつく」
明日の朝にでも、ダイニングテーブルの上に投げておけばいいだろう。山川さん伝手で、直接見せろと言われたこともあるが、言いつけを守れば、嫌味な父の顔を見る羽目になる。
クソ喰らえ。
あいつにとって、俺は単なるアクセサリーだ。自分を人間扱いしないやつに、わざわざ時間を割く義理もない。第一、俺はあいつの満足する成果を出している。最低限の義務は果たしたのだ。それ以上は知るはずもない。
深いため息が喉の奥からこぼれ落ちた。何をするでもなく白いベッドに寝転んだまま。ぼうっとした頭で、天井の模様に視線を彷徨わす。いくら時間が経とうとも、食欲が戻ることはなかった。微かに残っていたカレーの匂いが消え、いつしか夕焼けの赤みも消え去って、空は夜に染まっていた。
雨戸を閉めようと窓の外に手をかけたとき、住宅街の隙間から覗く、深い青が目に入った。
海だ。
この家は、海に面した高台に建っていた。そのため、窓からの見晴らしがよく、美しい海を見るのに適した土地だった。亡き祖母が眺めを気に入って購入したと聞くが、その血を継いだ俺もまた、窓の向こうの海を好んでいた。窓から吹き込む潮風の香り。空の色を映した入道雲。その下に広がる先の見えない水平線。広大で力強い海は、街一番の誇りでもある。
けれど、今日の海の色には胸騒ぎを覚えていた。
夜空との境目も分からないほど、深く冷たい青。夜の孤独を飲み込んだような、底の見えない恐ろしさに目が離せなくなっている。壁時計は、午前零時を迎えようとしていたのに。気づけば吸い寄せられるようにして、自室のドアを開いていた。階段を駆け足で下り、つま先の汚れたスニーカーの紐をきつく結んだ。残り二十パーセントにも満たないスマホをポケットにしまい、カードーキーを握りしめる。
人通りの少ない夜の道を走り抜け、感情のままに地面を蹴った。交差点の信号は青く光り、誰もこの足を止めてくれない。光る街灯を道標として、堤防の横で風を切った。
海へ。
靴裏の擦れる音が、波の音にかき消されていく。
近づくほどに濃くなる潮風の匂い。海に焦がれる気持ちだけを頼りに、砂浜へと続く階段を駆け降りた。
海へ。
深い青に染まる景色は、どんなしがらみも忘れさせてくれる。このまま、心の中のモヤを全部、全部吐き出して消し去ってしまいたい。
上っ面だけの人間が嫌いだ。
プールが嫌いだ。
踏み込んでくるやつが嫌いだ。
父が嫌いだ。
自分を置いていく人が嫌いだ。
全て吐き出した今、心に残るのは、海が好きだって叫びだけ。
海へ。
目の前に広がった海は、街灯のかすかな光だけで形を保っていた。空との境が見えないほどの深い青。浜辺に押し寄せる波は、昼の記憶よりも力強い。
海が好きだ。
人はすぐに去ってしまう。父も、母も、あの少女だって。
古い記憶の中で、白いワンピースが風に揺れていた。海辺でうずくまる俺の前に、優しく手を差し出してくれた記憶。声も名前も、顔すら思い出せなくなってしまったのは、彼女が何も言わずに消え去ったからだろう。
海だけは、この景色だけは、俺を裏切らないでいてくれる。
「はあ……はあ……」
喉の奥から血の味がした。久々に体を動かしたせいか、足が鉛のように重く、呼吸のリズムも整わない。
なのに不思議な心地よさを感じて、俺は目を閉じた。海の音がする。
押しては波が引いていく、午前零時の深い海。 呼吸が落ち着くのを待って、静かに目を開いた。
「青……」
飛び込んだ景色の中に、海色の少女がいた。瞬く青に吸い込まれたとき、薄桃の弧の奥で軽やかな声が発せられる。
「おはよう」
砂浜にこぼれ落ちた音は、軽い空気の中を伝わっていく。海の瞳から溢れ出した色は、世界をほんの少しだけ色付けていた。




