第五篇 名前
『りく!』
幼い俺に笑いかける、白いワンピースを着た少女。母を亡くした俺の頬を優しく掴み、おまじないをかけてくれた。少女の顔は未だに思い出せないけれど、ひとつだけ明確に分かることがある。
『大丈夫、シレーヌが守ってあげる!』
俺は、彼女の正体を知っているかもしれない。
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泡沫の人魚姫 第五篇 名前
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もやがかかった記憶の一部が晴れていく。目の前の彼女は、俺の遠い思い出の女の子と同一人物かもしれない。
はやる気持ちを抑え、冷静に勤めようと喉を開いた。
「あんたの、そのおまじないって……」
掠れてしまった声が届くと、少女の顔は不満げに歪んだ。心当たりはないが、何か気に障ることでもしてしまっただろうか。己の言動を振り返ってみるが、恨まれるようなことはこの石頭くらいだった。額どうしがぶつかった痛みは、未だひりひりと残っている。
「……何考えてるか分からないけれど、絶対に的外れよ。私が不満なのは、もっと人として根本的なこと」
曖昧な返答をされると、余計に分からなくなった。中途半端に分かったふりをして、言葉にしてみても反撃されるだけである。俺は己の無知を示すように、口を噤んで首を傾げた。少女は余計にむすっとした顔をして、両手を腰に当てている。
「私が気になったのは、名前のことよ」
「名前?」
言葉の意図が汲めずに眉を顰めていると、少女が再び顔を近づける。
「シ・レー・ヌ」
一音一音を強調するような喋り方は、まるで幼児に言葉を教える母親のようだった。未だに彼女の求めるものが分からず、俺は適当な相槌を打つ。それが癇に障ったのか、少女の眉間の皺は深まった。
「何ぼーっとしてるのよ。シ・レー・ヌ、さんはい!」
「……シレーヌ?」
あまりの圧の強さに怯んだ俺は、反射的に言葉を繰り返した。少女は青い瞳を瞬かせると、得意げに鼻を鳴らす。
「ふふん、結構」
こいつは、何を求めているのだろう。意図を読み取れずに頭を悩ますも、満足そうに緩む口元を見て、まあいいかと考え直した。と思ったのもつかの間、彼女は数秒黙り込むと、口を何度か開いて閉じた後で、拳をぎゅっと握りしめた。
「りくは、いつも私を『あんた』って呼ぶでしょう。でも、本当は呼んでほしかったのよ、私の名前」
少女は照れるでも笑うでもなく、幼い迷子が道しるべを探すように、不安げに俺を見つめていた。彼女は、不確かな自分の存在を誰かに認めてほしかったのかもしれない。海にひとり、記憶もないままに彷徨い続ける日々。己の正体も分からなければ、足元だっておぼつかなくもなるだろう。
見つめた先で、青い瞳は揺れている。そのとき、自分の思い過ごしに気づくのだ。
──違った。誰かに、じゃない。彼女は今、俺に助けを求めていた。彼女は、他でもない俺自身に、受け入れて欲しいと願っていた。
自覚と同時に、胸の奥が熱くなった。唇は脳の命令よりも先に、勝手に音を鳴らす。
「シレーヌ」
無意識に出たその言葉に、シレーヌはほころぶような笑みを見せた。俺の考えは、遠からずも当たっていたのだろう。彼女が不安を抱えているのなら、唯一シレーヌを見つけてしまった俺が、何度だって呼んでやる必要があるのだと、なぜか強く思ってしまう。そして少女に真摯であるために、俺には告げなきゃいけないことがある。
「俺は、シレーヌの正体を知ってる」
彼女の青い瞳が、溢れんばかりに見開かれる。
「たぶんな」
あ、もとの大きさに戻った。
「たぶんってどういうことよ」
中途半端な話に不服そうなシレーヌが、前のめりでにじり寄ってきた。もう、迷子が泣き出しそうな表情は見当たらない。俺は小さく胸を撫で下ろして、古い記憶を語り始めた。
♢
「つまり、りくは私に会ったことがあるのね?」
「ああ、五年も前だけど」
青い海とのコントラストを為す、真っ白なワンピース姿と、シレーヌという日本では珍しい名前。前者に関しては、夏の海辺を探せばどこにでも居そうな格好であるが、後者に関してはなかなか見つからないだろう。俺の短い人生の中において、記憶の中の少女と目の前のシレーヌだけが、ふたつの条件を満たしていた。それから、つい先ほど、同一人物だと証拠づけるようなおまじないを見てしまった。一言一句違わぬその言葉は、幼い頃に身についたものに違いない。
きっとシレーヌは、あのとき俺の手を取った少女だと思う。まさか、もう一度会えるなんて。
俺は興奮した後に、少し冷静になった。残念なことに、この情報がシレーヌの素性に繋がることはないのである。五年前の俺たちは、海で出会い、海で別れている。互いの名前しか分からない中での非日常を過ごしていた。つまり、日常を過ごすシレーヌの手掛かりは一切ない。懐かしい記憶を思い出したところで、彼女の正体は依然として分からぬままだった。
期待させておいて申し訳なかったと思い、シレーヌの顔色を伺ったが、彼女は表情を顔に出さず、黙り込んで考えを深めていた。ふと、この少女は本当に己の正体を知りたがっているのか、疑問が湧いた。第一、初めて会った日の夜だって、警察に向かうのを拒否していたくらいだ。正体を知ることを恐れて、この海にとどまっている可能性もある。
「シレーヌはさ、自分の正体が気になったりするのか?」
「もちろんよ!」
シレーヌは前のめりで大声を出す。洞窟内で反響した声は、二重三重にも響いていた。想像以上に食い気味だ。勢いに押されて身を引くも、シレーヌは逃がさないとばかりに距離を詰めてくる。
「私はね、自分のことはただの人間だと思ってるの。でも、りくの言う通り、おかしなことだらけじゃない? 朝は来ないし、自分のことを何にも知らないし……しまいには、あなたに幽霊扱いされる始末……」
案外、根に持つタイプのようだ。幽霊騒ぎの文句なら、発端のテニス部どもに言ってほしい。
しかし、シレーヌが自分の正体に興味を持っているのは意外だった。だとすると、正体を知るのに最も簡単な方法、警察に行くという手段を拒絶した理由が見えてこない。少し言及してみたくなったが、一度拒絶された話を蒸し返すのは、得策だとは思えなかった。
ともかく、彼女自身のスタンスは分かったのだ。ただの人間にしては謎が多すぎる少女に、正直なところ俺の興味も惹かれている。
「俺、シレーヌの正体を突き止めたい」
考えるよりも先に、口から言葉が飛び出した。今日はつくづく理性が仕事をサボる日だった。シレーヌの反応はというと、突然の提案に固まり黙り込んでいた。これは、しくじったのか。
「正体は探るけど、探偵レベルのことをするつもりはなくて。あくまで協力させてほしいって提案だから……」
うだうだと言い訳を連ねるうちに、言葉尻がしぼんでいく。そもそも、数回会っただけの男が踏み込みすぎてはいないか。普段、人付き合いを適当にしているツケが回ってきたのだと思う。シレーヌの様子を再び伺おうとしたとき、耳をつんざく高音が鳴る。
「ありがとう、りく! 本当に嬉しい……それで、何から始めるの?」
シレーヌの青い瞳は期待に満ち、俺の行動を待っていた。先ほどの心配は杞憂のようだった。安堵感から小さく息を漏らし、俺はスマホを取り出した。自分でも安直な考えだとは思うが、現代はネットに頼るのが一番早い。
スマホの検索画面を開き、俺は「湘南地区 シレーヌ」と打ち込んでいく。最近の世の中は恐ろしいもので、検索窓にフルネームを打っただけで、個人情報が出てきたりする。ちなみに俺の場合は、地区大会、県大会、地方大会の水泳の記録が出てきたりする。さすがにファーストネームだけで核心をつく情報は出てこないと踏んで、このあたりの地域名も入力してみたが、どうなるものか。運がよければ、彼女の何かの大会成績なんてものが出てくるかもしれない。
期待に目を輝かせるシレーヌの前で、いざ検索ボタンを押してみる。
読み込み中……
読み込み中……
読み込み中……
「これって、そんなに時間がかかるもの?」
俺の肩口からスマホを覗き込んだシレーヌは、口を尖らせて小さく文句を垂れていた。
読み込み中……
読み込み中……
読み込み中……
あまりに長い間、白い画面から変化がないせいで、シレーヌは既に飽きはじめていた。彼女はというと、自分の長髪を指でくるくる絡めとり、よくわからない鼻歌を呑気に歌っていた。その様子に飽きれていたが、数秒後に真に飽きるべきは自分であったことに思い至る。
スマホ画面上部に表示されるアンテナマークの表示がなく、代わりに圏外二文字が浮かんでいた。それもそのはず、今俺たちが居るのは洞窟の中だった。電波など届くわけがない。
俺はシレーヌに向き直ると、懇切丁寧にインターネットが使えないと伝えてみたが、分かってそうもない顔をしていた。己の愚かさに肩を落とした俺に倣って、シレーヌも残念そうな表情に変えたのだった。
洞窟内がため息だけで満たされると、外の音に注意が向く。先ほどまで激しく打ち付けていた雨は穏やかになったようで、雨音は微かなものになっていた。今なら楽に帰れそうだと感じたのをシレーヌも察したのだろうか。彼女は俺に向かって声をかけると、大きく手を振った。
「りく、またね」
「ああ、また」
その日初めて、俺たちは次の約束をした。
♢
深夜一時を回る頃、シャワーからあがった俺は自室で髪を乾かしていた。
「なんで、こんな位置にコンセントが……めんどくさ」
いつもなら脱衣所で乾かしていたところだが、風呂からあがり、リビングに通じるドアを開けたところで父と鉢合わせてしまったのだ。無言を貫く父から逃げるようにして、俺はドライヤーを片手に階段を駆け上がった。その結果、本棚の横の足元に近い位置にコードを刺し、しゃがみながら髪を乾かす羽目になった。そこに更なる不幸が訪れた。反対側を乾かそうと腕を持ち上げたとき、勢い余って右肩を強く本棚にぶつけてしまった。
「痛ったぁ……」
そこそこ響く痛みに肩を押さえていると、足元に数冊の本が落ちてきた。そのうちの一冊が足の小指に直撃し、強い痛みにもだえ苦しむ。先ほどの衝撃で落ちてきたのだろう。いったいどんな野蛮な本だろうと視線を寄せて青いカバーを手に取った。
「……人魚伝説」
ひときわ目立つ青一色に、銀色の明朝体で刻まれている題名。本の角は削れて、日焼けもひどい状態だった。それなりに年季が入ったものなのだろう。母たちが残した本棚に、こんなものがあったとは。
一瞬、その色味に惹かれてしまったが、よくよく考えたら青チャートとほぼ同じだと思い直す。本棚の隙間にその本を戻すと、存在をすぐに忘れてしまった。
数十分の格闘の末、ドライヤーも寝支度もすべて終えた俺は、背中からベッドに倒れ込んだ。ベッドのどこかに置いたスマホを手探りで探し、電源をつける。寝る前にSNSを嗜む趣味はないが、代わりに俺には明日のアラームを確認する癖があったのだ。スマホのパスワードを入れてロック解除したとき、先ほどシレーヌと覗き込んでいた検索画面が表示される。
「湘南地区 シレーヌ」の検索結果を凝視するも、結果はよく分からないホテルとその所在地が表示されるだけだった。だめもとで「シレーヌ」とだけ検索しても結果は同じ。半ば諦めた状態でスマホをスワイプし続けると、ある言葉が目に留まった。
”シレーヌ(SIRENE):人魚”
「フランス語で、人魚の意……」
その言葉が、なぜだか腑に落ちてしまった。
月光に照らされる白い肌、海を鏡に映した大きな瞳。おとぎ話から抜け出してきたような彼女の姿に、俺の頭は毒されている。幽霊の次は人魚だなんて、とんだ笑い話ではあるが、彼女がそうだと告げたところで、俺は驚けなくなっていた。そして今思えば、この直感は正しかったのだと思う。
これは「人魚姫が泡になるまで」の物語。その、すべての始まりだった。




