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ラナンキュラス 〜距離を置く彼女と、興味を抱く彼。王都の秘密が二人を絡め取り、やがて独占欲という名の歪な恋を育む〜  作者: 佳月


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6


 ガラガラと夜の街を駆ける馬車の中は、大審問の間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。向かい合わせに座るシュテルンとゾンネ。窓の外を流れる夜景を見つめながら、ゾンネはふっと、背もたれに深く身体を預けて小さく息を吐き出す。


「ひとまずは、ネーベル閣下をあの場から退けることができたのね」

「ええ。近衛兵に連行される間際まで、あのように取り乱されるとは思いませんでしたが……。これで、彼の政治生命は完全に終わりを迎えたと言っていいでしょう」


 シュテルンは、いつもの完璧な外交官の笑みを浮かべてはいたが、その瞳の奥には冷徹な計算の光がまだ燻っていた。


「ですが、ネーベル閣下を捕らえたからといって、すべてが解決したわけではありません。彼が率いていた『旧王家派閥』の残党たちがどう動くか……。まだ、警戒は解けませんね」

「あの派閥の調合のくせなら、もう手の内は分かっているわ。今更、何をしてきても同じことよ」


 ゾンネが静かに、しかし絶対的な自負を込めて美しい視線を返すと、シュテルンは「おや、これは心強い」と、深みのある声で嬉しそうに目を細めた。

 ちょうどその時、がたごとと揺れていた馬車が滑らかに速度を落とし、公爵邸の敷地へと滑り込んだ。長い戦いの一夜が、ようやく更けようとしていた。



 大審問の間の激動から、数日後。

 ネーベルが捕らえられたことで、表向きの政争は一時の落ち着きを見せ、公爵邸には少しだけ穏やかな時間が流れていた。

陽光が優しく差し込む調合室で、ゾンネはいつも通り、フラスコや試薬と向き合っていた。カチャカチャと硝子が擦れ合う静かな音の中に、不意に、トントンと小気味よい足音が混ざる。振り返ると、シュテルンがふらりと調合室へ入ってくるところだった。

 いつもなら、入ってくるなり新しい政治の動向や、次の作戦の話を始める男だ。しかし、今日のシュテルンは、机の上の書類を見るでもなく、ただじっとゾンネの顔を見つめていた。


「……どうかしたの?私の顔に、何か珍しい試薬の粉でもついてる?」


 ゾンネがいつもと変わらない涼やかな視線を返すと、シュテルンはふっと、いつもより少し柔らかい、仮面の剥がれた笑みをこぼした。


「いいえ。少し、顔色が良くなったと思いまして。……ここ数日、まともに眠れていなかったでしょう?」

「……別に、どうってことはないわよ。」

「おや、やはり頑固ですね。貴方はそうやって、いつも一人で無理をしてしまう。」


 シュテルンは困ったように眉を下げ、だけどどこか愛おしそうな眼差しをゾンネに向けた。そして、少しだけ声をトーンダウンさせ、心からの響きを込めて言葉を続ける。


「ですが、本当に……大審問の間では、貴方の知性に救われました。あの場で貴方が毅然と真実を証明してくださらなければ、今頃どうなっていたか。改めて、お礼を言わせてください、ゾンネ」


 いつになく真剣な、熱を帯びた瞳でまっすぐに見つめられ、ゾンネは不意を突かれた。いつもは飄々と高度な言葉を交わす相手なのに、今向けられているのは、一人の男としての素直な感謝と、隠しきれない優しい眼差しだ。

 心臓がどくん、と跳ねる。ゾンネはそれに激しく調子を狂わされ、途端に耳の裏が熱くなるのを感じた。


「……突然どうしたの?お礼など……匿ってもらった恩もあるし」


 動揺を隠すために、ゾンネは手元にあったフラスコを少しだけ位置を変えて並べ替え、シュテルンから不自然にならないよう静かに目を逸らした。そんな彼女の様子を、シュテルンは可笑しそうに、だけどどこか愛おしそうに見つめている。

 そこへ、お茶のトレイを持ったフランツが、音もなく静かに滑り込んできた。わずかに視線を泳がせるゾンネと、いつになく穏やかな顔をした主人の空気を、老家令は一瞬で見抜く。

 シュテルンは「……少し、執務室の書類を確認してきます」と、どこか照れ隠しのように調合室を後にした。主人が部屋を出て行った隙を見計らい、フランツはゾンネの前にそっと紅茶を置く。


「……シャンテン様。公爵があのように、他人の体調を本気で気遣う姿を見るのは、長くお仕えしてきた中でも初めてのことにございます」

「……。」

「社交界では、どのような美しい淑女が目の前で言い寄ろうとも、完璧な笑顔のまま冷徹にあしらってきた御方にございますよ。……まさか、一人の女性の顔色を、あそこまで真剣に覗き込むようになるとは。公爵を『ただの男』にしてくださって、感謝いたしますよ」

「……っ。あまりからかうのは辞めてちょうだい。私と彼はそのような関係ではありませんから。」


 少しだけ頬を染めながらも、毅然と言い返すゾンネ。そんな彼女の様子に、フランツは満足そうに深く一礼するのだった。



 数日後。公爵邸に、一人の青年が訪れていた。

 彼の名はレオンハルト。かつて旧王家とつながりのある、ゾンネの遠縁の親族だったが、家政が没落した後は政治の表舞台から完全に身を引き、今は地方で市井の学者として静かに暮らしている男だった。旧王家派閥のドロドロとした陰謀とは一切無縁の、無害で温厚な青年である。

 ゾンネが「私の過去をよく知る親戚が、頼んでいた古い研究資料を届けに来てくれる」と言っていたため、シュテルンは面会を許可したのだが――。

 応接室の扉を少し開けた瞬間、シュテルンは、自分の完璧な外交官としての仮面が、内側からパキリとひび割れるような奇妙な感覚に襲われた。


「――相変わらず、君の周囲は硝子ガラスだらけだね。昔、おじい様の家の庭で奇妙な薬品を作って、煙を上げて叱られていた頃から少しも変わっていないようだ」

「人聞きの悪いことを言わないでちょうだい、レオンハルト。あれは火力の調整を誤っただけよ。……それよりも、お願いしていた植物の標本は持ってきてくれたんでしょうね?」

「ああ、もちろん。君が昔から好んでいた、北方の高山植物のデータも一緒に入れておいたよ。」

「……っ、気が利くのね。ありがとう」


 そこにあったのは、シュテルンが見たこともないゾンネの姿だった。シュテルンの前で見せるような、冷徹で傲然とした『天才錬金術師』の顔ではない。

 トゲトゲとした警戒心も、意地を張った硬さも一切なく、少し呆れたように、だけど年相応に柔らかく、心からリラックスして笑っている。自分と話す時よりも、明らかに『気を抜いて』いるのだ。


「旦那様、お茶の代わりを持ってまいり……おや」


 背後からトレイを持ったフランツが声をかけてくる。シュテルンはいつもの笑みを貼り付けたまま、しかしその瞳は恐ろしいほど冷ややかに、部屋の中の二人を凝視していた。


「……フランツ。彼女は、私の前であんな風に笑ったことがありましたか?」

「はて。いつも旦那様の前では、お美しくも冷ややかなお姿ですから。……おや、旦那様。持っていらっしゃるその書類、少し握りつぶされておりますが」

「いえ、何でもありません。……少し、挨拶をしてきましょうか」


 シュテルンは、胸の奥底から湧き上がる、自分でもコントロールできない『酷く不愉快なモヤモヤ』を抱えつつも優雅な足取りで応接室へと足を踏み入れた。


「お話し中、失礼。ゾンネ、そちらが例のご親戚ですか?」


 いつもの完璧な、非の打ち所がない美微笑。しかし、ゾンネはシュテルンが部屋に入ってきた瞬間、一秒でいつもの『ツンとした冷たい仮面』に戻り、すっと距離を取った。その態度を明確に分けられたという事実が、さらにシュテルンのモヤモヤに拍車をかける。


「……ええ。遠戚のレオンハルトよ。用件は済んだから、彼はもう帰るわ」

「初めまして、公爵閣下。ゾンネがいつもお世話になっております。この偏屈が、ご迷惑をかけていなければ良いのですが……」


 レオンハルトが親しげに笑う。その『ゾンネを昔からよく知っている』という距離感のすべてが、シュテルンの独占欲を静かに逆撫でした。


「いいえ、滅相もない。彼女の知性には、いつも私が『特別に』救われていますよ。……レオンハルト殿、資料を届けてくださり感謝します。彼女は今、私の大切な客人ですので、長引かせて体調を崩されては困る。……フランツ、レオンハルト殿をお見送りしなさい」


 暗に「さっさと帰れ」と言わんばかりの、丁寧だが一切の隙を与えない外交官の圧力。レオンハルトは「おっと、お邪魔でしたね」と苦笑いしながら、そそくさと退室していった。

 部屋に残されたのは、シュテルンとゾンネの二人だけ。


「……どうしたの? シュテルン。あなた、今度の式典の準備で忙しいのでは?  わざわざレオンハルトに挨拶に来るなんて……。時間は大丈夫なの?」


 ゾンネが不思議そうに視線を向ける。シュテルンはすたすたと彼女に近づくと、いつもより少しだけ狭い距離で彼女を見下ろした。いつもの余裕に満ちた笑みは消え、どこか拗ねたような、低く不機嫌な声が漏れる。


「忙しいですよ。ですが……私の知らない貴方の顔を、別の男に見せられていると思うと、どうにも仕事が手につかなくて」

「……?? 何をいってるの?」

「私にはいつも張り詰めた態度をとるくせに、彼の前では随分と、無防備で優しい顔をするのですね。……正直に申し上げて、非常に不愉快です、ゾンネ」


 ストレートにぶつけられた不機嫌な言葉に、ゾンネは目を丸くして呆然とした。シュテルンがまさか「嫉妬」しているなどとは微塵も思わず、ただ、いつも完璧な彼がなぜこれほど余裕をなくして怒っているのか、その理由がまったく理解できない。


「な、何を、おかしなことで怒っているの? レオンハルトはただの親戚で、幼馴染のようなものよ。彼に私の顔色を伺われる筋合いはないでしょ? 昔から知ってる相手なのに。」


 いつも完璧な余裕を崩さない紳士だからこそ、ゾンネの無自覚な言葉に、嫉妬で理性が狂っていく。


(これ以上、その可愛い口から、別の男との話など聞きたくない――。)


 そんな、自分でも制御できないほど黒く、衝動的な独占欲が、彼の頭を真っ白に染め上げた。


「……っ、シュテ、」


 ゾンネが驚いて名を呼んだときには、すでに遅かった。 強い力で手首を掴まれ、引き寄せられたかと思うと、目の前がシュテルンの端正な容貌で満たされる。塞がれた唇から、熱い体温が滑り込んできた。


「――――っ!?」


 深く、しかしどこか焦燥感の滲むような、強引で甘い口づけ。2人の甘い緊張感が、一気に最高潮へと引き上げられる。

パニックになったゾンネが抵抗しようと身をよじるが、シュテルンは掴んだ手首を離さず、もう片方の手で彼女の細い腰をしっかりと抱き寄せ、逃げる隙すら与えない。完璧な外交官の仮面など、もうどこにもなかった。

 やがて、息が苦しくなるほど深く貪ったあと、シュテルンは名残惜しそうにゆっくりと唇を離した。至近距離で見下ろしてくる彼の瞳は、熱く、酷く艶っぽく濡れている。

 ゾンネは完全にキャパシティをオーバーし、真っ赤な顔のまま、言葉を失ってポカンと立ち尽くしていた。いつもならすぐに鋭い反論を返すはずの聡明な頭脳が、熱い余韻で完全に白く染まってしまっている。息を切らせて彼を凝視するのが精一杯だった。


「これほど不愉快だと言っているのに、まったく伝わっていないようなのでね。……これ以上貴方の口から、別の男の言い訳など聞きたくありません。……お仕置きです」


 そう言って、ようやく胸のモヤモヤが晴れたシュテルンは、ふっといつもの意地悪な微笑みを取り戻す。


「……っ、~~~~っ!」


 ようやく熱が引いて我に返ったゾンネは、燃えるように熱い唇を両手で隠し、耳の裏まで真っ赤に染め上げた。いつもなら絶対にしないような、あからさまな動揺を見せながら、上ずった声で精一杯の抵抗を試みる。


「……は、はっ、早く執務室に戻ってはいかが、ですか……っ?」


 完全に口が回っておらず、命令したいのか提案したいのかも分からない、疑問形混じりのしどろもどろな拒絶。いつも凛とした彼女の見たこともない取り乱し方に、シュテルンは満足そうに肩を揺らして笑うと、「ええ、良い仕事ができそうです」と優雅に部屋を後にするのだった。



 しかし、その穏やかな時間は、唐突に終わりを告げる。シュテルンとゾンネの前に、フランツが顔色を変えて飛び込んできたのだ。彼の手には、裏のルートから死に物狂いで入手した数枚の内部文書が握られていた。


「――旦那様、シャンテン様。至急、お耳に入れたい情報がございます。……ネーベル侯爵は捕らえられましたが、奴の一派である『旧王家派閥』の残党たちが、裏で暴発の準備を進めているそうです」


 フランツの重々しい報告に、部屋の空気が一瞬にして凍りつく。


「残党の暴発……。ネーベル閣下が失脚したことで、後がなくなった彼らが、ヤケを起こそうとしていると……」


 シュテルンが冷徹な声を出す。フランツは深く頷き、書類を机に広げた。


「左様にございます。彼らが『数日後の建国記念式典』に向けて、事前に仕込んでいたテロ計画が、今なお中止されずに進行していることが発覚いたしました。持ち込まれるのは、広範囲に拡散する新型の『毒ガス』。……式典の最中に、一気に撒く計画のようです」


 王城の全要人が集まる式典での毒ガステロ。それが実行されれば、国の中枢は壊滅する。だが、ゾンネがさらに目を見開いたのは、フランツが差し出したもう一枚の紙片だった。


「さらに……残党らは、この大テロの罪を、『現王政を恨む、旧王家の血筋……。シャンテン様の犯行』として発表する手筈を整えていました。ここにあるのは、式典後にばら撒かれる予定の、偽造されたシャンテン様の経歴書と、犯行声明文です」

「――っ」


 書類に並ぶ自分の偽の署名と、忌々しい『旧王家』の家紋。

ネーベルたちは、自分たちのテロで国をひっくり返すと同時に、そのすべての罪をゾンネになすりつけ、彼女を匿っていたシュテルンごと、合法的に道連れにする計画だったのだ。


「なるほど……。私が貴方を屋敷に隠していたことが、すべて彼らの都合のいいストーリーに利用されるわけですか」


 シュテルンは苦々しく呟くと、ゾンネの方を振り返った。その瞳には、いつもの余裕はなく、彼女の身を本気で案じる焦燥が滲んでいる。


「ゾンネ。式典当日、貴方はフランツと共に今すぐ国境を越えなさい。ネーベルの残党の狙いが貴方の血筋である以上、貴方がこの国にいなければ、奴らの大義名分は崩壊する。私のことは心配いりません。私なりの戦い方で、奴らの計画を狂わせてみせます」


 シュテルンは、自分の身を挺してでも、ゾンネを安全な場所に逃がそうとしていた。

 しかし――ゾンネはその言葉を、氷のように冷冷と、しかし激しい拒絶を持って撥ね退けた。


「ふざけないでちょうだい、シュテルン」

「ゾンネ?」

「あの男たちが私の血筋をどう使おうが知ったことじゃないわ。……だけど、私の名前と血筋が、貴方を破滅させる罠として利用されているなんて、絶対に許さない」


 ゾンネはシュテルンへと一歩詰め寄り、その胸元を掴むようにして、まっすぐに彼を射抜いた。生まれたその瞬間から、誰もが彼女を『旧王家の血筋』として――“近づくべきではない過去”として見ていた。

 デビュタントの夜から、社交界へ赴くたびに突き刺さる、本能的な忌避と薄気味悪い沈黙の視線。それでも彼女は、血筋に課せられた義務としてその場所に完璧に立ち続け、くだらない噂や遠巻きの空気をすべて真っ正面から撥ね退けてきたのだ。

 しかし、その義務『生まれの呪い』を、今、この目の前の男を守るための最強の『武器』に変える覚悟が、彼女の胸の中で完全に固まっていた。


「いいこと、シュテルン。私はもう背を向けないわよ。国が私を『王国専属錬金術師』として縛り付けたいなら、喜んでその椅子に座ってあげる。かつて私を腫れ物のように遠巻きに見ていた有象無象どもに、本当の権力の使い方を教えてあげましょうか」

「……ゾンネ……」

「王直属の錬金術師としての私の知識と権力は、貴方を害するすべての敵を完膚なきまでに叩き潰すために使わせてもらうわ。国の中枢から流れる毒も、貴方へのくだらない冤罪も、私がすべて根元から握り潰してあげる。……だから、大人しく私に守られなさいな、シュテルン」


 不敵に、傲然と言い放つゾンネ。

 その圧倒的な覚悟と輝きを前にして、シュテルンは初めて、完璧な外交官としての計算を完全に狂わされた。


(……本当に、貴方という人は……)


 胸の奥から湧き上がる、降参したような、そして酷く熱い感情。シュテルンは、一人の男として、彼女に完全に心を撃ち抜かれたことを自覚した。


「……はは、なるほど。これでは、どちらが守っているのか分かりませんね。」


 シュテルンは降伏するように両手を少し上げ、それから、いつになく低く、熱を帯びた声で微笑んだ。


「分かりました。私の命も、この国の盤面も、すべて貴方の知性に預けましょう。……行きましょうか、私たちの戦場へ」


 決意を共にした2人は、ネーベルの残党を完全にハメ返すための「逆撃の罠」を仕込み始める。ゾンネはフランツと共に毒ガスのデータを分析し、それを無力化する中和剤の開発へ。シュテルンはゾンネが表舞台に立つための政治的な根回しを完璧に進めていく。

 そして、不穏な静けさの中、決戦の「建国記念式典」が近づいてきたーー。



[newpage]


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