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ラナンキュラス 〜距離を置く彼女と、興味を抱く彼。王都の秘密が二人を絡め取り、やがて独占欲という名の歪な恋を育む〜  作者: 佳月


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5


 夜。屋敷。

 王城とは違う静けさがある。音が少ないというより、“誰かに見られていない音”だけが残っている空間。ゾンネは玄関で一度だけ立ち止まる。


「思ったより普通ね」


 それは少しだけ意外そうな声だった。シュテルンは短く答える。


「特別なものはありませんから」


 それが逆にこの場所の異質さだった。温室でも、王城でもない。どこにも属していない“個人の空間”。ゾンネはゆっくりと室内へ入る。視線だけが、少しだけ周囲をなぞる。


「落ち着く空間ってわけでもないのが嫌ね」


 小さな独り言。シュテルンは、自室の空気にすっかり馴染みかけているゾンネの横顔を、値踏みするように見つめる。

 普段なら、どんな女性が相手でも完璧な距離感でもてなす自信があった。だが、目の前の少女はあまりにも無警戒で、自分がどれほど不謹慎な情熱でここへ連れ去ってきたのかを分かっていない。シュテルンは小さく笑みを含み、声音の温度をすっと変えた。


「落ち着く必要はありませんよ」

「??」


 ゾンネが不思議そうに振り返る。シュテルンは逃がさないようにその視線をまっすぐに受け止め、わざと一歩、距離を詰めた。大人の男としての、明確な圧。


「一時的な避難ですから。……それに」


 そこで一度言葉を切り、彼女の耳元に滑り込ませるように、低く、確信犯的な声を落とす。


「独身の男の私邸に、夜、二人きりで連れ込まれたんです。もう少し、自分が『異性の領域』にいるという自覚を持っていただかないと……色々と困りますから」


 普段なら、どんな女性でも気圧されるか、あるいは赤面して身を引くような距離。だが、特殊な血筋ゆえに世間一般の男女の機微から離れて生きてきたゾンネには、その甘い警告の「深い意味」が、文字通り全く届いていなかった。彼女にあるのは、ただ物事を客観的に見つめる達観だけだ。

 ゾンネは至近距離にあるシュテルンの顔を、ただ純粋な瞳で見つめ返し、ぽつりと言った。


「……要するに、逃げ場ってことよね?」


 赤らむことも、取り乱すこともない。シュテルンの言葉から不謹慎な意図をきれいに取り除き、ただ「一時的な避難=逃げ場」という事実だけを真っ直ぐに受け取った。

 普通の女の子なら見せるはずの反応が、何一つとして返ってこない。その見事なまでのズレ方に、シュテルンは一瞬だけ目を見張った。

 だが次の瞬間、彼の端正な唇の端が、静かに、滑らかな弧を描く。どんな人間の心理も計算通りに動かしてきた外交官にとって、世俗の尺度を一切無視して真っ直ぐに佇む彼女の異質さは、調子を狂わされるどころか、たまらなく愛おしく、新鮮な歓びに満ちていた。やはり、この少女からは目を離せない。


「……ふ」


 堪えきれずに、小さく、喉の奥で息を漏らすような笑いが溢れる。シュテルンは一歩身を引くと、いつもの完璧で、どこか悪戯っぽい温度を孕んだ微笑みを浮かべた。


「ええ。身も蓋もありませんが、全くその通りです。……本当に、あなたは面白い」


 言いながら、シュテルンは彼女を促すように廊下の奥へ手を差し向けた。ゾンネはそれに小さく頷き、コツコツと静かな足音を立てて歩き出す。シュテルンは少し遅れて続く。

 屋敷の中は静かすぎるほど静かだった。部屋の奥へ進むほどに、王城とは違う、誰の目もない私的な空間の気配が濃くなっていく。その静けさの中で、ゾンネはふと薬草の話をするでもなく、ただ一言だけ言った。


「……ここが、あなたの場所なのね」


 シュテルンは少しだけ視線を落とす。


「そうですね」


 即答ではない。少し考えてからの答え。ゾンネはそれを聞いて、わずかに目を細めた。拒絶するでも、肯定するでもない。

 ただ、自分が今、彼の絶対的な領域の真ん中にいるのだという事実を、肌に触れる静寂だけで静かに受け入れているようだった。

 その瞬間だけ、空気が少し変わる。温室でも王城でもない、“誰のものでもない時間”が成立する。ゾンネは少しだけ息を吐いた。


「……変な気持ちね」


 どこか落ち着かないような、けれど決して嫌ではない、初めて知る心の揺らぎ。ゾンネは自らの胸の内に小さく首を傾げるようにして、続ける。


「でも……悪くはないわ」


 その言葉に、シュテルンは何も返さない。

 ただ、初めて“何かが始まった”という感覚だけが、二人の間に静かに残る。



 翌朝、王城の執務室。シュテルンの机に置かれた公式報告書には、晩餐会の事件についてこう結論づけられていた。


『厨房の管理不足による、偶発的な毒物の混入』


「揉み消しか」


 シュテルンは皮肉混じりに呟き、書類を閉じた。

 国の上層部の、ごく一部――あの晩餐会の毒に深く関わる者たちが、事態を早く収束させるために裏で手を回したのだ。公式記録を綺麗に塗り潰し、ただの事故として処理しようとするそのやり方に、シュテルンの中に確かな違和感が燻る。


(過剰に隠蔽しようとしている。……いや、国全体が動いているのではない。上層部の『ごく一部の人間』が、あの段階的に変質する妙な毒の存在を、必死に公にしたくないのだな)


 官僚としての直感が告げていた。この事件の根は、もっと深い。シュテルンは公爵家の特権をフルに使い、王城の地下深くにある『禁書庫』から、公式記録から抹消された過去の事例を独自に手繰り寄せいた。



 深夜、屋敷の書斎。

 山積みにされた古い羊皮紙をめくっていたシュテルンの手が、ある記録の前で止まる。


 二十年前の、外交官の不審死。

 十五年前の、王族の乗った馬車の滑落事故。

 そして、十年前の、研究塔の謎の大爆発。


どれも当時は「不慮の事故」や「病死」として処理されていた。だが、死亡直前の被害者たちの症状を詳細に読み解くと、あの晩餐会で使われ、ゾンネが指摘した『変質性の毒』の影が、不気味に浮かび上がってくる。


「……偶然が多すぎる」


 シュテルンは背筋に冷たいものが走るのを感じた。単発の犯行ではない。この二十年間、王国の名前を隠れ蓑にして、特定の不都合な人間を消すために同じ特殊な毒がずっと使われ続けてきたのだ。国そのものが悪なのではない。この国家という巨大な制度の裏側に潜み、糸を引いている「一握りの影」がいる。

 昼間は完璧な外交官として城で立ち回り、夜はこの絶対的な安全圏で、国に潜む巨大な闇から彼女を匿う。過去の汚い暗殺を隠蔽するため、あの無垢な少女の口を封じようとする「真の首謀者たち」の容赦ない手から、彼女を完璧に守り抜く。

 自分が命がけで手首を引いて連れてきたのだ。国の皮を被った悪党どもを相手に回してでも、彼女の盾であり続けることに、もう一歩も引き返すつもりはなかった。



 数日後。屋敷の生活は、不自然なほど穏やかに流れていた。

シュテルンは昼間、普段通りに王城へ出仕し、何事もなかったかのように官僚としての職務をこなす。


 あの晩餐会の場から強引に彼女を連れ去ったシュテルンに対し、国の上層部の一部は困惑し、裏で糸を引く者たちは焦り狂っていたが、誰一人として彼の私邸に手を出すことはできなかった。公爵家の圧倒的な財政力と、外交官に与えられた『私邸の不可侵条約』。あの場でもぎ取った絶対的な二つの盾がある限り、彼らの領域へ踏み込むことは国の破滅を意味するからだ。

 国中が手を出せない極上の安全圏で、あの危うい立場の令嬢を完璧に守り抜いている。この選択が、かつて国の規律を第一に生きていた彼の心を、ひどく穏やかに、そして心地よく満たし始めていた。

 屋敷の奥には、シュテルンが急遽整えさせた小さな温室があった。

ゾンネはそこを新たな拠点とし、街の邸宅から持ち出させた薬草や、見たこともない花の選別を行っている。


「それは?」


 ある夜、執務を終えて温室を覗いたシュテルンが問いかけた。上着を緩め、少しだけ夜の気配をまとった姿は、王城での彼よりもずっと男の生々しさがある。

 ゾンネの手元にあったのは、幾重にも薄い花びらを重ねた、大輪の黄色い花だった。


「ラナンキュラスよ」


 ゾンネは視線を上げずに答える。


「綺麗な花ですね。……ですが、確か強い毒性があったはずですが」

「ええ。生で触れば皮膚が爛れる。でも、乾燥させて適切に熱を通せば、酷い関節の痛みを和らげる特効薬になるの。要は、扱い方次第よ」


 ゾンネは花びらにそっと指先を滑らせる。その仕草には、毒を恐れる風すら一切ない。


「あの晩餐会の毒も同じ。自然界の毒をそのまま使えば、ただの『毒殺』で終わる。だけどあの毒は、複数の成分が段階的に変質するように作られていた。あれは錬金術の領域ね」


 シュテルンは、彼女の指先にある幾重にも重なる花びらを見つめた。普通の人間なら怯えるその深淵な知識を、彼女は夜の温室で淡々と扱っている。その危うい美しさに胸を震わせながら、シュテルンはすべての点と線が繋がるのを感じた。


「……やはり、あなたをあのまま城に残さなくて正解でした」


 シュテルンは低く、どこか安堵を含んだ声を落とし、わずかに目を細める。


「あの一部の者たちが国をそそのかし、あなたに『王国専属錬金術師』の席を用意した理由が分かりました。彼らは、その優れた知識を持つあなたを『保護』という綺麗な罠で城へ縛り付け、自分たちの目の届く場所で処理するつもりだったのです。そんな危険な場所に、あなたを引きずり込ませるわけにはいきません」


 ゾンネが初めて顔を上げ、じっと彼を見つめる。向けられた純粋な瞳を受け止めながら、シュテルンは楽しそうに、けれど彼女を罠に嵌めようとしていた者たちへの冷徹な光をその奥に宿した。


「国は、あの晩餐会の件を厨房の不手際として片付けるつもりのようです。……ですが、私の調べで、過去二十年間の、裏のつながりが見えてきました。これを見ていただいても?」


 シュテルンは、昨夜調べ上げた『禁書庫』の記録の写しをそっと差し出した。ゾンネはいつもと変わらない淡々とした様子で、古い羊皮紙の束を受け取る。


 二十年前の外交官の死

 十五年前の王族の事故

 十年前の研究塔の爆発


シュテルンが「症状が酷似している」とだけ掴んでいたその文字の羅列を、ゾンネの白い指先がなぞっていく。


「……これ、偶然じゃなさそうね」


 しばらくして、ゾンネがぽつりと呟いた。その瞳には、怯えではなく、純粋な探求者としての鋭い光が宿っている。


「症状が似ているだけじゃない。二十年前は即効性が強すぎて、暗殺だと怪しまれそうになっている。十五年前はそれを改良して、病死に見えるように遅効性に変えているわ。そして十年前……完全に調合の『癖』が完成している。あの晩餐会の毒は、この十年前のものをさらに洗練させたものよ」

「調合の、癖、ですか」

「ええ。どれだけ隠そうとしても、薬を扱う人間の『指先』は嘘をつけないの。これは、一人の人間……あるいは、同じ技術を完全に受け継いだ、術師が作り続けているのでしょうね」


 ゾンネの言葉に、シュテルンは胸の奥が冷たく冴え渡るのを感じた。単なる王国の腐敗ではない。国の上層部に潜む旧王家の派閥が、自らの手を汚すための道具として二十年間も飼い慣らし、暗殺を繰り返してきたのだ。そして今、その秘密に気づける唯一の存在が、目の前にいるゾンネだった。


「……腑に落ちました。あいつらが、あなたをそこまで執拗に欲しがるわけだ」


 シュテルンは皮肉げに唇をゆがめ、けれど同時に、愛おしいものを確かめるように彼女をまっすぐに見つめた。


「過去二十年間で起こった事件の、裏のつながりが暴かれたくない彼らにとって、あなたの知性は最大の脅威だ。だからこそ、国の手を借りてでも、あなたを自分の支配下に置こうと血眼になっている。……ここへ連れてきて、本当に良かった」

「変な人」


 ゾンネは少しだけ視線を外したが、その言葉に拒絶の色はなかった。


「国の中枢部相手に立ち回るなんて、公爵家としても、外交官としても、命が足りないんじゃないかしら?」

「おや、ご心配なく。私はこれでも、負ける戦はしない主義でしてね」


 シュテルンは不敵に微笑み、彼女の手元にある資料をそっと回収した。


「あなたがその優れた目で真実を見抜いてくれるなら、私は私のすべてを賭けて、あらゆる手からあなたを隠し通す盾になりましょう。……まずは、この毒の『作り手』が城のどこに潜んでいるか、私が探りを入れます」


 ――だが、国の中枢を動かす「見えない糸」の回る速さは、シュテルンの想定よりも一歩早かった。



王城の執務室。外交官としての職務をこなしていたシュテルンのもとへ、一人の初老の男が訪ねてきた。王国の最高評議会に席を置く、上級貴族の高官である。


「いやはや、シュテルン閣下。昨日の晩餐会では、素晴らしい機転で場を収めていただいた。……ところで、例の『シャンテン家の令嬢』の件だが……」


 男は上品な笑みを浮かべながら、値踏みするような濁った視線をシュテルンに向けてくる。


「彼女を閣下の屋敷へ連れて行かれたと聞いた。最高評議会でも今、その件で持ちきりでね。あのような恐ろしい事件が再び起きた時のためにも、彼女ほどの知識と技術を持った人材は、国にとっても不可欠だ。何より……彼女は旧王家の血筋。あの悍ましい毒を使う派閥の残党から、今後真っ先に狙われる危険があるだろう」


 高官はさも憂えるように溜息を吐き、もっともらしい言葉を並べ立てた。


「ゆえに国としては、彼女を『王国専属錬金術師』として正式に迎え、しかるべき機関で万全の『保護』をすべきだと考えているのだ。一貴族の私邸では警備にも限界があろう。……すぐにでも、こちらへ引き渡してはもらえないだろうか?」


 「彼女を守るため」という、あまりにも正論で、一点の曇りもない国家の建前。実際、最高評議会の他の生真面目な官僚たちは、この男の言葉を信じ込み、本気でゾンネの身を案じて「専属錬金術師に任命せよ」と動いているのだろう。

 だが、シュテルンは騙されない。

 国を動かしているその『正論』の出処こそが、この男――ひいては国の中枢に潜む、旧王家派閥の内通者たちの「そそのかし」なのだ。国に彼女を保護させ、自分たちの手の届く場所に囲い込み、頃合いを見て処理する。それが彼らの本当の狙いだ。

 相手の恐ろしい策略を見抜いたシュテルンは、完璧な外交官の仮面を崩さず、ふっと優雅に微笑んでみせた。


「ネーベル閣下のご親切な心配、恐れ入ります。ですが、それは困りましたね。シャンテン令嬢はあの凄惨な事件のせいで、ひどくお心を痛めておられましてね。我が公爵家の名誉にかけて、事件の恐怖が癒えるまでは、責任を持って私の邸宅で静養させると約束したのです。……それに彼女は以前から、国からのその要請をご自身の意志でお断りになられていたはずですが?」

「……閣下、これは彼女の安全を思っての『国家の意志』だ。一公爵家が口を挟む領域ではない。大人しく国に任せればいいものを」


 高官は「国家の善意」を盾に、うっすらと冷たい光をその目に宿す。しかし、シュテルンは微塵も揺らがなかった。むしろ、その「国家のルール」を逆に利用して微笑む。


「国家の、ですか? お言葉ですが閣下、今朝の公式報告書には『厨房の管理不足による偶発的な事故』とありました。国がそこまで執拗に『次の毒殺事件』や『旧王家派閥の襲撃』を警戒して一令嬢の身柄を縛ろうとするなど、まるで……あの事件に、公にできない『裏の背景』があると、国みずからが認めるかのような動きではありませんか?」

「なっ……」

「もしこれ以上、彼女を無理に連れ出そうとされるのでしたら、他国の使節団も参加していたあの晩餐会で起きたこと、そしてこの不可解な『国家の過剰な動き』を、外交官として近隣諸国へどう報告すべきか、少々悩まねばなりませんね。……国を動かしている皆様の『善意』が、他国に邪推されては外聞が悪い。そうは思いませんか?」


 ハッタリと分かっていながら、シュテルンは極上の笑みを浮かべたまま、高官の痛いところを正確に突いてみせた。

 事件をただの事故として揉み消した以上、国がそれ以上過剰にシャンテン令嬢を引っ張り出そうとすれば、王国側からも「なぜそこまで固執するんだ?」と不審がられてしまう。シュテルンの完璧な論理の前に、高官は苦々しく口を閉ざすしかなかった。


「……ふん、せいぜい過保護に囲っておくがいい」


 吐き捨てるように去っていく高官の背中を見送りながら、シュテルンは懐の時計をそっと握りしめた。包囲網は、すでに動き出している。

 公式に国の善意を悪用できなくなったあの男たちが、今度はどんな汚い裏の手を使ってくるか。この国に巣食う本物の悪を炙り出すための、静かな戦いが、今始まったのだ。



 シュテルンが外交官としての職務をこなすため、王城へ出仕していた昼下がりのこと。公爵家の屋敷の門前に、格式高い馬車が止まった。届けられたのは、最高評議会の高官、ネーベル閣下からの「お見舞い品」とされる、銀細工の施された豪奢な白檀の木箱だった。

 主が留守の間、屋敷を預かる老執事は、それが国の上層部からの公式な贈り物であるため、一度丁重に受け取った。そして、静養中とされるシャンテン令嬢のもとへ報告しに向かった。

 温室でその報告を聞いたゾンネは、ネーベルという名に覚えはなかったが、即座に眉をひそめた。


「……おかしいわね」


 ゾンネは静かに薬草を置き、目の前の執事を見つめた。


「あの日、シュテルンは城の上層部をあれだけ脅して、私をここへ連れてきたのでしょう?国を相手にあれだけの啖呵を切ったのよ。本来なら、国は私を『王国専属錬金術師』として正式に城へ迎え入れたがっていたはずよ。形はどうあれ、私を生かして城に囲い込むのが目的だった。なのに、それが無理だと分かった途端に、今度はこんな『お見舞い』を送ってくるなんて……」


 ゾンネの瞳に、鋭く冷静な光が灯る。


「その箱、今どこにあるの?」

「は、はい。広間のテーブルに置かせておりますが……」

「今すぐ広間の窓を全部開けて。それから、あの箱を門からそこまで運んだ使用人を、ここに呼んでちょうだい。箱には絶対に誰も触らせないこと」


 ゾンネの尋常ならざる様子に、老執事はすぐさま指示に従った。

 呼び出された若い使用人の衣服の袖口に、ゾンネが細い鼻先を寄せた瞬間、彼女の研ぎ澄まされた嗅覚が、白檀の香りの奥に隠された『異物』を正確に捉える。微かに甘くて、ほんの少しだけ焦げたような金属の臭い。

 今朝、シュテルンが禁書庫から持ってきた十年前の研究塔の爆発の事例――そして、あの晩餐会で使われたあの毒のベース成分と、全く同じ調合の『癖』。


「……やっぱり。力ずくで奪えないなら、こういう汚い手を使ってくるわけね」


 ゾンネはすぐに、自ら調合した中和剤で木箱の隙間を完全に封じ、箱ごと頑丈な隔離室へ放り込ませた。



 夜。王城でのネーベルとの心理戦を終え、急ぎ足で屋敷に帰ってきたシュテルンは、玄関に出迎えた老執事から昼間の顛末を聞かされ、顔から完全に血の気が引くのを感じた。


「ゾンネは!?  ゾンネは無事なのか!?」


 普段の優雅な物腰を完全に失い、激しい焦燥に駆られたシュテルンは、上着を翻して屋敷の奥の温室へと駆け込んだ。ガラス扉を勢いよく開けると、そこには、いつもと変わらない淡々とした様子で、黄色いラナンキュラスの茎を切っているゾンネの姿があった。


「ゾンネ……!」


 息を切らせ、肩を揺らすシュテルンに、ゾンネは不思議そうに視線を上げた。


「おかえりなさい。なんだか、ひどい顔をしてるのね」

「ネーベルからの荷物が届いたと聞きました……! 中身は検分したのですか!? 身体に変調は――」


 詰め寄るシュテルンの両手を、ゾンネは切ったばかりの花を台に置いて、落ち着かせるように見つめた。


「落ち着きなさいな、シュテルン。あの箱なら、開けずに隔離室に放り込んであるわ。あれ、普通の『お見舞い品』じゃないわよ。中に揮発性の毒ガスが仕込まれていたわ。普通にパカッと開ければ、部屋中にガスが広がる仕組みね。……あなたがあの日、城で派手に私を連れ去ったから、公式に手が出せないから、焦って口封じの暗殺に切り替えてきたのね。あいつらにとって、私は『自分の目の届かない場所で生きていられると困る存在』みたいよ。一体、私を城に閉じ込めて何を企んでいたのかは知らないけれど……他人に渡すくらいなら、いっそ殺してしまえってことじゃないかしら?」


 シュテルンは息を呑み、それから、ふっと低く滑らかな声で笑った。彼女を失いかけた恐怖の余韻と、それを一瞬で吹き飛ばした彼女の天才性への、狂おしいほどの愛おしさが混ざり合っている。


「……本当に、あなたという人は」


 シュテルンは一歩近づくと、普段の外交官としての仮面を完全に脱ぎ捨て、愛おしさを確かめるようにゾンネの肩にそっと手を置いた。その瞳は、夜の闇よりも深く、熱く濡れている。


「驚きました。私が城でネーベル閣下の相手をしている間に、まさか我が家で、これほど鮮やかな逆転劇が起きていたとは。手に入らないなら存在ごと消してしまえ、ですか。ネーベル閣下も本当に分かりやすい。焦るあまり、言い逃れのできない最高の証拠を自ら届けてくれるとは。」


 シュテルンは夜の闇よりも深く、黒く目を細めた。


「あなたを城から連れ出して、本当に正解でしたね。彼らがそこまでしてあなたを隠したがる『本当の理由』……その歪んだ目的の正体を、この毒の作り手ごと、城の奥から必ず引きずり出しましょう」


 そう告げると同時に、シュテルンは肩に置いていた手にそっと力を込め、彼女の小さな身体を自分の胸の中へと引き寄せた。ゾンネを失うかもしれなかったという、張り詰めた恐怖の余韻を、その確かな体温で消し去るように。ゾンネは少しだけ身を硬くしたが、その腕から逃れようとはしなかった。


「……国を相手に立ち回るなんて、本当に命が何個あっても足りない人ね」

「おや、言ったはずですよ?私は、負ける戦はしない主義だと。――さあ、手に入った最高の証拠(毒箱)を逆手に取って、あのネーベルの後ろに隠れている『作り手』をどう引きずり出すか。作戦を練りましょうか」



 二人の影が、月光の差し込む温室の床に、怪しく、けれど強く重なり合っていた。



 翌朝。

 屋敷の最奥にある隔離室の扉の前で、シュテルンは張り詰めた面持ちで立っていた。その視線の先では、厳重に遮蔽されたガラス越しに、ゾンネが防護の薄手の手袋をはめ、ネーベルから届いた白檀の木箱と向き合っている。

 彼女は迷いのない手つきで中和剤を注ぎ込み、揮発性のガスを安全な液体へと変化させてから、その成分をいくつかの試験管へと小分けにしていった。やがて、すべての解析を終えたゾンネが部屋から出てくる。手袋を外しながら、彼女はいつもと変わらない淡々とした声で言った。


「間違いないわ、シュテルン。あの箱、内側に特殊なバネが仕込んであって、鍵を開けた瞬間に中のカプセルが潰れて、高濃度のガスが一気に気化する仕組みになっていたわ。まともに吸えば、三日と持たずに心臓が止まる。お見舞い品にしては、ずいぶんと手の込んだ毒だこと」

「……成分は、やはりあの時のものと?」


 シュテルンが声を落として尋ねると、ゾンネは静かに頷き、手元のメモを差し出した。


「ええ。今回使われている触媒の配合、そして錬金術の『癖』……。これ、あなたが昨日禁書庫から持ってきた、十年前の研究塔の爆発事故の記録に残っていた毒の術式と、完全に一致したわ。それだけじゃない。過去二十年間の、いくつかの未解決の不審死……あれらの事件で使われた毒とも、同じ癖があるわね」


 シュテルンの美しい眉が、微かに跳ね上がる。


「二十年前から、同じ作り手が……」

「偶然で片付けるには、あまりに『同じ癖』が残りすぎているのよ。錬金術師の調合の癖というのは、どれだけ隠そうとしても文字の筆跡のように出てしまうものだから。つまりね、シュテルン」


 ゾンネは冷涼な瞳で、まっすぐに彼を見つめた。


「この国には、少なくとも二十年前から、あの旧王家派閥のために裏でせっせと毒を作り続け、邪魔者を消してきた『お抱えの錬金術師』が確実に潜んでいる。そして、その人物を影で操ってきた黒幕こそが、昨日あなたに突っかかってきたネーベル閣下の一派よ。……私を城に連れていけなかったから、その秘密が漏れるのを恐れて、焦って口封じにきたのね」

「……なるほど」


 シュテルンは低く息を漏らし、自嘲気味に口元を歪めた。彼がこれまで外交官として必死に守り、維持してきた王国の秩序。その足元には、滅んだはずの旧王家派閥が二十年も前から張り巡らせていた「暗殺の網」が、静かに、けれど確実に息づいていたのだ。王国とは、彼が思っていたよりもずっと危うい均衡の上に成り立っていた。世界は決して、見えている通りに綺麗ではない。

 だが、シュテルンの瞳から光が消えることはなかった。むしろ、その王国の秩序を裏から蝕む闇の正体を見据えるように、双眸は冷徹なまでの鋭さを増していく。


「世界がどれほど不都合で満ちていようと、構いません。ですが……」


 シュテルンは一歩、ゾンネとの距離を詰めた。昨夜、彼女を腕の中に抱きすくめた時の、あの壊れ物を扱うような切実さは、今の彼にはない。あるのは、一人の男としての、静かで苛烈な決意だった。シュテルンはそっと手を伸ばし、ゾンネの小さな、けれどこの国のどんな権力者よりも聡明な手をとった。

 そして、その白い手のひらに、誓いを立てるように静かに唇を落とす。


「彼らがどれほど醜い野心を隠していようと、私の領域に毒を投げ込み、あなたを害しようとしたこと……。その対価は、必ず支払わせます」


 ゾンネは、手のひらに落ちた柔らかな熱に、微かに指先を震わせた。けれど、その手を引き戻そうとはせず、ただじっとシュテルンの顔を見つめている。


「……随分と怒っているのね、シュテルン」

「ええ、酷く腹が立っています。私自身がネーベル閣下に舐められたことよりも、何より……私を信じてこの屋敷に留まってくれているあなたに、不快な思いをさせたことが、許せない」


 シュテルンは顔を上げ、普段の完璧な「外交官の笑顔」を浮かべた。しかし、その目の奥は一切笑っていない。


「ネーベル閣下、焦るあまり完全に私を敵に回しましたね。これほど明確な証拠を残してくれたのです。泳がせておく理由はもうありません。彼らの背後にいる『作り手』ごと、城の奥深くに潜む旧王家の残党を、根こそぎ引きずり出してやりましょう」

「国を相手に――いいえ、歴史の闇を相手に立ち回るのよ。下手したら、あなたのその綺麗な公爵家の名前ごと、泥沼に沈むわよ」


 ゾンネの静かな忠告に、シュテルンはフッと可笑しそうに肩を揺らした。


「おや、言ったはずですよ?私は、負ける戦はしない主義だと。――まずは城に潜む彼らの協力者をあぶり出し、あの男の足元を少しずつ削っていくとしましょうか」


 差し込む朝の光の中で、二人は静かに微笑み合う。以前のような「保護者と保護対象」ではない。王国の裏に潜む巨大な影を暴くため、同じ地獄へ足を踏み入れることを決めた、対等な「パートナー」としての新しい空気が、二人の間に確かに流れ始めていた。



 毒箱の事件の後も、シュテルンは何食わぬ顔で城へ登り、完璧に外交官としての職務をこなしていた。

 国王すら脅しつける「二つの盾」を持つ彼を、城の上層部は誰も表立って咎めることはできない。シュテルンはその絶対的な優位を揺るがさぬまま、裏ではネーベル閣下の一派が動かしている不審な資金の流れ、そして二十年前から続く『一連の不審死』に関わる協力者のあぶり出しを、冷徹に進めていた。

 だが、相手も二十年間この国の闇に潜み続けてきた魔物たちだ。シュテルンの鋭い動きに追い詰められた彼らは、ついに「禁忌の手段」に打って出る。


「――シュテルン公爵。誠に遺憾ながら、貴殿に『国家反逆の徒(旧王家派閥)』との内通疑惑が浮上した。事実関係が明白にするため。査問会を執り行う。」


 城の厳粛な執務の間で突きつけられたのは、あまりにも手回しのいい「疑惑」と、偽造された裏取引の証拠書類だった。


 いかにシュテルンが国王すら脅せる盾を持っていようとも、国そのものを転覆させようとする『国家反逆罪』の容疑となれば話は別だ。ネーベル一派がでっち上げたのは、極めて悪質なシナリオだった。

 ――曰く、シュテルン公爵は旧王家の正統な血筋であるゾンネを屋敷に囲い込み、彼女を新たな主として担ぎ上げることで、現体制を覆して『旧王家の時代』を復興させようと企んでいる、と。


 ゾンネを匿っているという事実がある以上、この上なく説得力を持って響いてしまう、最悪の濡れ衣。ネーベル一派は、シュテルンに一連の不審死の尻尾を掴まれる前に、彼の唯一の弱点になり得る「ゾンネの血筋」を逆手に取り、公爵家ごと彼を葬り去るための泥を投げつけてきたのだ。


「なるほど……。手際がいいことで」


 書類を見つめるシュテルンの瞳は、凍てつくように冷たかった。完璧な外交官としての仮面は崩さない。だが、その胸中には、自分の動きを封じられたことへの悔しさよりも、この邪悪な陰謀の出汁にされ、屋敷に残してきた『ゾンネ』に再び敵の魔の手が伸びるのではないかという、焦燥に似た怒りが渦巻いていた。



 同刻、シュテルンの屋敷。

 主が不在の温室で、ゾンネは手元の試験管を揺らしていた。そこへ、血相を変えた家令が飛び込んできたのは、夕闇が迫る頃だった。城での一連の騒動――シュテルンが罠に嵌められ、すぐに査問会が執り行われることがゾンネの耳に届く。


「公爵様が、旧王家派閥と内通しているなど、あり得ぬ濡れ衣です……! ……居並ぶ重臣たちは完全にネーベル閣下の息がかかっている。このままでは、公爵家そのものが泥沼に沈められてしまうでしょう」


 悲痛な声を上げる家令を前に、ゾンネはただじっと、紫煙の混じる温室の冷気の中に佇んでいた。今までの彼女なら、ここで冷笑を浮かべたはずだ。


 『自業自得よ。国を相手に立ち回るなんて大口を叩くから、そんなくだらない政治劇に巻き込まれて潰されるのよ。勝手に潰し合えばいいわ』と。彼女にとって、この国の権力闘争など、虫の這い回る泥仕合に過ぎなかったのだから。


 だが。


「……ッ」


 ゾンネの胸の奥を、生まれて初めて経験するような、熱く、激しい衝動が貫いた。頭に浮かぶのは、あの完璧で、すました顔をした男だ。

 あの男は、自分が旧王家の血筋だと知っていながら、そんな厄介な看板ごと自分をこの屋敷に匿った。ネーベルから毒箱が届いた時、手のひらに口づけをして「あなたを害しようとした対価は、必ず支払わせる」と、一人の男として激しく怒ってくれた。シュテルンが今、城で泥を被り、破滅の危機に瀕している理由。それは他でもない、この屋敷にいる自分を守るために、彼が一人で汚れ仕事を背負って闇に潜り込んでくれたからだ。


「……ふざけないでよ」


 ゾンネはぽつりと、低く、地を這うような声で呟いた。その瞳に、極夜の氷山のような冷徹な怒りが灯る。


「私の名前を勝手に使ったことも、あの男に泥を塗ったことも、万死に値するわ。……それに、あのネーベルとかいう俗物が用意する『禁忌の原材料』なんて、どうせ前世紀の遺物みたいな知識ででっち上げた、矛盾だらけのハッタリに決まっているわよ」


 天才錬金術師である彼女には、敵がどんな嘘をついてくるか、書類を見ずともその「浅さ」が容易に想像できた。自分の『旧王家の血筋』という呪わしい名前のせいで、あの男が泥を塗られている。そして、自分の愛する「錬金術」が、泥棒猫どものお粗末な嘘の道具にされようとしている。


「私のパートナーを……あんな退屈で醜い奴らに、好き勝手潰されてたまるもんですか」


 ゾンネの冷涼だった瞳に、苛烈な知性の炎が灯る。彼女は机の上に並んだ、あの毒箱の解析データと、二十年分の不審死のカルテを力強く掴み取った。


「あの男が『負ける戦はしない』って言うなら、私がその勝てる完璧な証明を完成させてあげるわ。あのネーベルたちの企みを、城の全員の目の前で、完膚なきまでに暴いてあげるわ……。フランツ、馬車の用意をしてちょうだい。」


 ゾンネは温室の扉へ向かって力強く歩き出す。


「今から、城の査問会へ乗り込むわ。私の場所はあの男の隣よ」


 今まで世界の『外側』でただ日陰に隠れていた旧王家の令嬢が、最愛のパートナーのために、自ら王国の『内側』へと足を踏み出す瞬間だった。



 王城の深奥、重厚な石壁に囲まれた大審問の間。

 そこは、かつて数々の大逆人を裁いてきた、光の届かぬ断頭台の如き大広間であった。雛壇の上座には、勝利を確信したような薄汚い笑みを浮かべるネーベル。そして、取り囲むように居並ぶ重臣たちの冷徹な視線が、中央に毅然と佇むシュテルン公爵へと突き刺さっている。


「……さて、シュテルン公爵。改めて問おう」


 ネーベルが、芝居がかった手付きで偽造書類を叩いた。


「貴殿が旧王家の生き残りである娘を匿い、その血筋と知識を用いて現体制の転覆を謀ろうとした証拠は、ここに揃っている。二十年前の不審死の数々も、旧王家派閥による現王室への呪詛、あるいは暗殺の予行演習であったと見れば、すべて説明がつく。……何か弁明はあるか?」


 重苦しい沈黙が広間を支配する。シュテルンは、ネーベルの言葉をただ静かに聞いていた。その表情には、焦りも恐れも、怒りすらもない。完璧な外交官としての、凍りついたような微笑が張り付いているだけだ。


「ネーベル閣下。貴方の描いた絵図は、物語としては実につまらない」


 シュテルンは静かに声を響かせた。


「私を排除するために、わざわざ二十年も前の事件まで持ち出して私を罠に掛けようとは。ですが、その杜撰な仮説には、決定的な矛盾がある」

「矛盾だと? 苦しい言い訳を――」

「言い訳ではありません。客観的な事実の指摘ですよ」


 シュテルンがさらに言葉を重ねようとした、その時だった。


 ――バタン、と。


 静まり返った大審問の間に、重々しく、扉が開かれる音が響いた。張り詰めた空間に冷たい夜風がすうっと流れ込み、部屋の空気を揺らす。


「人の名前を使って、随分と退屈なお芝居をしてくれてるのね」


 乱暴に押し入ったわけではない。ただ、遮る憲兵たちをその威厳だけで退け、堂々と開け放ったのだ。冷徹で、凛としていて、それでいて場にいる全員の鼓膜を震わせるほどに傲然とした一人の女性の声が、厳粛な部屋の空気を完全に支配した。


「な、何事だ……!? 誰の許可を得てここへ入ってきた!」


 ネーベルが怒号を上げ、雛壇の貴族たちが一斉に総立ちになって入り口へと視線を注ぐ。扉の向こうから現れたのは、豪奢な黒いドレスをまとったゾンネだった。その背後には、静かに佇む老家令・フランツが控えている。

 ゾンネは怯む素振りすら見せず、カツン、カツンと、静かに、しかし力強くヒールを鳴らして白亜の議場へと歩みを進めた。その姿を見たシュテルンの唇が、わずかに、本当にわずかに、愉しげな弧を描く。


(……まったく。負ける戦はしないと言ったはずなんですが。まさか貴方が直接ここまで乗り込んでくるとはね)


「……っ! シャンテン嬢……!?」


 ネーベルがその顔を驚愕に歪めた。国が提示した『王国専属錬金術師』への就任要請(勅命)を拒み、その身を監視の目から遠ざけるために、シュテルンが屋敷の奥深くに庇護し続けていたはずの旧王家の生き残り。

 かつての晩餐会毒殺未遂事件の折、その天才的な知性で毒の正体を暴きながらも、シュテルンの手によって徹底的に存在を秘匿されていた「匿名の協力者」――その本人が、なぜ自らこの場に現れたのか。


「何の真似だ。ここは貴様のような小娘が足を踏み入れていい場所ではない……! 憲兵、何を無様に突っ立っている! その女こそ、公爵が裏で禁忌の毒を調合させていた反逆の首謀者だ! 自ら網にかかりに来るとは、二人まとめてその場で拘束しろ!」

「愚かなのは、その貧相な脳みそで必死に台本を練り上げた、そちらのほうよ。ネーベル閣下」


 ゾンネはネーベルの言葉を冷酷に遮ると、シュテルンの隣へと並び立つ。二人の視線が交差する。言葉は交わさずとも、シュテルンの瞳は「お好きにどうぞ」と告げていた。


「この私が、そんな素人以下の密輸取引書に署名するとでも思っているの?」


 ゾンネはネーベルの手元にある『証拠書類』を冷たく見据え、フッと嘲笑った。


「その書類に書かれている『禁忌の原材料』の項目。……笑わせないでくれる? 確かにそれらを調合すれば猛毒が作れるけれど、そんなものは二世代前の、骨董品店に並ぶような古い教科書に載っている古典的なレシピよ。今の錬金術の最前線において、そんな非効率で足のつきやすい材料を、この私がわざわざリスクを冒して密輸するメリットがどこにあるの?」

「な、何を言い出すかと思えば、そんなのはお前の言い訳に過ぎん!」

「言い訳? いいえ、ここからが本題よ」


 ゾンネは懐から、屋敷でフランツから受け取った「過去二十年分の不審死のカルテ」と「毒箱の解析データ」を、議場の中央へと叩きつけた。


「よくご覧なさい、そこに並ぶ審問官の皆様。過去の不審死にはなぜだか同じ錬金術師の『癖』が一致していて、ネーベル閣下が『私が密輸を企てた』と主張するその材料のリスト……。実はこれ、過去二十年間にこの国で起きた、一連の不審死の遺体から検出された毒物の成分が不思議な事に完全に一致しているの」

「な、何だと……!?」

「錬金術師の調合の癖というのは、指紋と同じ。隠そうとしても隠せるものではないわ。……おかしいわね、ネーベル閣下。なぜ私が『これから密輸するはずの材料』が、過去二十年もの間、この国の闇で誰かを暗殺し続けてきた犯人のレシピと、寸分違わず同じなの?」


 ゾンネは冷酷な知性の炎を宿した瞳で、ネーベルをまっすぐに射抜いた。


「このカルテのデータを見れば、城の専門家だって一発で理解できるわ。……つまり、あなたが今読み上げたその書類は、シュテルンを反逆者に仕立て上げるために、あなたが事前に用意していた『でっち上げの企み』そのものであると同時に――」


 ゾンネは一歩、ネーベルへと詰め寄り、彼だけに聞こえるような低く冷たい声で囁いた。


「――過去の不審死のすべて。そして、先日あなたが私へよこした『あのお見舞い品』の正体が何であったか。……あなたが自分で持ってきたその書類が、何よりの『犯行声明』になってるのよ。ネーベル閣下」

「っ……、お、おのれ……!!」


 ネーベルの顔が、怒りと驚愕で急速に土気色へと変わっていく。周囲の貴族たちからも、「おい、本当なのか……?」「では、あの不審死の犯人は……」「あの書類、過去の不審死に使われたものと同じなのか……!?」と、動揺の囁きが一気に広がり始めた。

 シュテルンを葬るための罠だったはずの場所が、今や二十年前の自分たちの罪ごと首を括られる、逃げ場のない処刑台へと変貌したのだ。

 その光景を見届けたシュテルンは、ふっと、堪えきれないといった様子で小さく息を漏らした。それは、彼の完璧な外交官としての仮面の下から覗く、心の底からの愉しげな笑みだった。


「なるほど、これは一本取られました。私の精緻な計算など、あなたの前では本当に何の意味も持たない。……素晴らしいですよ、ゾンネ」


 その瞳には、形勢を完全に掌握した絶対的な強者の輝きが宿っている。シュテルンは優雅な足取りで一歩前に出ると、ゾンネの隣で、雛壇の重臣たちを冷徹に見下ろした。


「審問官の皆様。盤面は、ご覧の通りです。……国家反逆の徒がどちらであるか、これ以上の説明が必要ですか?」


 彼の言葉を引き継ぐように、ゾンネは傲然言い放ち、ドレスの裾を翻した。


「さあ、城の全員の目の前で、あなたのその浅ましい企みを、完膚なきまでに白日の下に晒してあげるわ。……憲兵。今すぐ捕らえるべき『国家反逆の容疑者』が誰なのか、これでハッキリしたかしら?」



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