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ラナンキュラス 〜距離を置く彼女と、興味を抱く彼。王都の秘密が二人を絡め取り、やがて独占欲という名の歪な恋を育む〜  作者: 佳月


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 ゾンネのその気高き覚悟は、シュテルンの胸の奥にある火を完全に灯した。

 彼女を逃がすための守りの戦いではない。彼女と共に、自分を害しようとした敵を根こそぎ叩き潰す――そのために、シュテルンは「完璧な外交官」としての本物の知略と容赦なき手腕を、即座に発動させていった。


 シュテルンは、旧王家派閥の残党が仕掛けた「冤罪工作」の書類を懐に忍ばせ、王政上層部との極秘会談の場へと向かった。

 旧王家の生き残りを公爵邸に囲っていたという事実は、一歩間違えれば反逆の嫌疑をかけられかねない危うい一手。しかし、シュテルンは集まった重臣たちの前で、傲然と、そして完璧な美微笑を浮かべてこう言い放った。


「私が彼女を屋敷に置いていたのは、匿っていたなどという生易しいものではありませんよ。元来、彼女は完全に『王国専属錬金術師』への就任を拒否しておりました。旧王家の血筋という、下手に野に放てば反乱分子の神輿にされかねない危険な『禁忌の才』――それを我が公爵家の監視下に置き、現王政のために忠誠を誓わせるための、極秘の説得期間だったのです」


 シュテルンは、ゾンネが署名したばかりの承諾書を、重臣たちの前へ鮮やかに提示してみせる。


「その彼女が今、あえて現王政のためにその知恵を捧げると言っている。ネーベルの失脚で揺らぐ旧王家派閥の息の根を完全に止めるためにも、彼女を『王国専属錬金術師』として公式に囲い込む以上の策はないかと」


 反逆の嫌疑をかけられる寸前だった行動を、一夜にして「国を危機から救うための、最高に有益な隠密作戦」へとひっくり返してみせたのだ。完璧な弁舌と圧倒的な政治的圧力。ネーベルたちの罠の遥か先をいき、式典のわずか数日前という異例の速さで、シュテルンは国王からの直々たる勅命を捥ぎ取ってみせた。


 そして、式典の前々日。公爵邸の調合室に、重厚な紋章が捺された一通の書状が届けられた。


「――これが、新しい私の『呪い』、いいえ……『武器』というわけね」


 薄暗い調合室の中、ゾンネは届けられた『王国専属錬金術師』の就任書状を、冷徹な、しかしどこか満足げな瞳で見つめていた。

 かつては義務として耐え、理由も語られぬまま本能的に忌避されていた己の血筋。それが今、公爵の手によって、この国で最も手出しのできない公式な権力へと形を変えたのだ。


「おや。お気に入りの城で、新しい肩書きを睨みつけているのですか、シャンテン閣下」


 コツ、と静かな足音が響き、シュテルンが調合室の扉を開けて入ってきた。いつもの完璧な美微笑を浮かべているが、その瞳には、自分の策略が完璧にハマったことへの、男としての深い愉悦が滲んでいる。


「シュテルン。……相変わらず、恐ろしいほどの初動の早さですこと。まさか本当に、数日でこの椅子を用意して見せるなんてね。……それで? 上層部には、私が貴方に『飼い慣らされた』とでも説明したのかしら?」


 ゾンネは書状を机に置くと、すっと目を細めて彼を振り返った。シュテルンが王政の重臣どもをどう煙に巻いたのか、彼女の聡明な頭脳はすべてお見通しだった。


「ええ。貴方という気高き猛獣を現王政の忠犬にするために、我が身を挺して説得していた、とね。おかげで私は今、国を破滅から救った大層な忠臣扱いですよ」

「随分と大きく出たものね。私は貴方の忠犬なのね?」


 ゾンネは呆れたように笑うと、一歩、シュテルンへと近づいた。


「でも、貴方が私のためにそれほどの不敬を働いてくれたのだから……私の知識で、貴方を害する有象無象を完膚なきまでに叩き潰してあげなきゃ割に合わないわね。よく覚えておいて、私は貴方の忠犬になんてなってあげない。その代わり、貴方の盾にも矛にもなってあげるわ」

「おや……」


 傲然と言い放つゾンネに、シュテルンは一瞬だけ驚いたように目を見張った。だが、すぐに降参したように目元を緩める。


「それは心強い。……もっとも、私を害する敵よりも、貴方のその格好良くも愛らしい威嚇の方が、私の心臓には酷く毒なのですが……」


 そう言って、シュテルンは楽しげに距離を詰めてきた。至近距離に迫る彼の体温と、からかうような、けれどどこか熱を帯びた視線。その瞬間、ゾンネの脳裏に、あの夜の強引な口づけの記憶がドッと押し寄せる。


「シュ、シュテルン……!」


 一瞬で頬が真っ赤に染まり、せっかくの完璧な令嬢の仮面が崩れそうになる。ゾンネは内に秘めた動嘘を必死で隠すように、すっと顎を引いて彼を睨みつけた。


「……はっ離れてちょうだい!」


 赤面しながら近くのフラスコを盾にするように突き出すゾンネを見て、シュテルンは満足そうに肩を揺らして笑った。


「ふふ、あまりからかうと、式典の前に新しい毒を盛られそうだ。……さあ、明後日はついに、貴方のお披露目の舞台です。社交界の退屈な亡霊どもを、私たちの手で完全に黙らせてやりましょう」


 シュテルンはそう言うと、いつもの完璧な外交官の礼をとり、優雅な仕草でまっすぐに右手を差し伸べた。


「行きましょうか、ゾンネ。私たちの戦場へ」


 差し出されたその大きな手を、ゾンネは静かに見つめる。

 かつては自分を縛り付けるだけだった旧王家の血筋。それを今、この男を守るための最強の武器に変えて、自ら表舞台へ立つ。その選択に、もう迷いはなかった。


「ええ。……私の手を引く栄誉を、貴方に与えてあげるわ」


 ゾンネはその口元に不敵な笑みを浮かべて、彼の掌にそっと自身の右手を重ねた。触れ合った手のひらから、心地よい熱が伝ってくる。

 守られるだけの存在から、共に盤面を支配する者へ。2人はしっかりと手を繋ぎ合い、静かに、しかし圧倒的な覇気をまとって、決戦の舞台へと歩みを進めるのだった。



 公爵邸の一室は、式典を目前に控えた独特の緊張感に包まれていた。


「――シャンテン様、ビスチェの締め上げはこれくらいでよろしいですか?」

「ええ、問題ないわ」


 仕立て屋やメイドたちに囲まれ、豪奢な深緑のドレスに身を包んだゾンネは、鏡に映る自身の姿を冷徹に見つめていた。

 国が彼女を『王国専属錬金術師』として公式に迎えるにあたり、この建国記念式典は、彼女が自ら選んだ戦場の始まりでもある。かつて義務として耐え、心底嫌気がさして背を向けたはずの社交界。そこに今度は、シュテルンを守るというただ一つの目的のために、自らの意志で、さらに強力な権力を持って足を踏み入れるのだ。彼女のまとう空気はすでに、高貴な旧王家の生き残りとしての風格と、敵を迎え撃つ冷徹な覇気を孕んでいた。


 ――その時だった。


「おや。これほど美しい大輪の薔薇を、今まで調合室の奥に隠していたというのに、お披露目しなくてはならないとは。公爵としての私の独占欲が、いささか悲鳴を上げてしまいそうだ」

「……っ!?」


 背後、それも耳元のすぐ近くから響いた、低く滑らかな声。

 いつの間に近づいていたのか、触れそうなほどの至近距離から注がれる大人の男の体温に、ゾンネの身体が小さく跳ねる。その瞬間、彼女の脳裏に、あの調合室で交わした『強引で甘い口づけ』の記憶が強烈にフラッシュバックした。


 あれからそれなりの時が流れたというのに、肌を焼くような熱い体温、焦燥に濡れた彼の瞳、そして「お仕置きです」と耳朶を震わせたあの掠れた声――。そのすべてが、シュテルンの発した『独占欲』という言葉の響きと共に、鮮烈に呼び起こされてしまう。

 どれだけ完璧な令嬢としての仮面を被ろうとも、一瞬にして心臓がうるさいほど跳ね上がり、呼吸の仕方を忘れてしまいそうになる。ゾンネは慌てて振り返り、非の打ち所がない正装を完璧に着こなして微笑むシュテルンを、真っ赤になった顔のまま睨みつけた。


「シュテルン……! 許可もなく女性の着替えの場に入ってくるのはマナー違反よ!」

「ふふ、本当によくお似合いですよ、ゾンネ。貴方の美しさに、会場の誰もが目を奪われるでしょうね」


 完璧な外交官であるはずの男にマナーを説いたというのに、彼はそんな抗議などどこ吹く風で、愛おしそうに彼女を見つめている。至近距離でのぞき込まれ、ゾンネは内に秘めた動揺を隠すように、すっと顎を引いて彼を睨む。


「そろそろ、出発の時間ですよ。……行きましょうか、私たちの戦場へ」


 シュテルンは楽しそうに目を細めると、優雅な仕草で手を差し伸べた。ゾンネは気高くその手を取り、公爵邸を後にした。



[newpage]



 建国記念式典の夜会。

 王城の大舞踏会は、きらびやかなシャンデリアの光と、貴族たちの欲望が渦巻く華やかな熱気に満ちていた。

 旧王家派閥の残党が企てる毒ガステロを警戒し、公爵家隠密部隊が配置に着く中、ゾンネは『王国専属錬金術師』としての席に毅然と腰を下ろし、会場の様子を窺っていた。だが――彼女の鋭い視線は、テロの兆候ではなく、別の場所に完全に釘付けになっていた。


 会場の中心。完璧な公爵、そして冷徹な外交官として立ち回るシュテルンの周囲には、絶え間なく人が群がっている。


「公爵閣下、今宵の軍事協定の件ですが……」

「まぁ、シュテルン様。次回の夜会には、ぜひ我が公爵邸にも参加していただけませんか?」


 他国の若き王女や、彼との婚姻を狙う有力貴族の令嬢たちが、熱い視線を送りながら次々と彼に擦り寄っていく。そしてシュテルンは、その一人一人に対して、非の打ち所がない『完璧な微笑』を浮かべ、滑らかな手つきで令嬢の手の甲にキスを落として見せているのだ。


 それを見た瞬間。ゾンネの胸の奥が、冷たく、重く、酷く不快に波立った。


(……なんなのかしら)


 社交界の男たちが、あのような微笑みをただの「外交の武器」として使い回すことなど、ゾンネは百も承知だった。くだらないおべっかだと、いつもなら冷静に観察していたはずだった。

 なのに、なぜか今、シュテルンが他の女に微笑みかける一瞬一瞬が、どうしても我慢ならない。あの夜、調合室で自分の手首を強引に掴み、「これ以上貴方の口から、別の男の話など聞きたくありません」と、見たこともないほど必死に、余裕のない声を絞り出していた男が。

 今は別の女たちに囲まれて、誰にでもあの甘い顔を振り撒いている。


(私には、あんな……、わけのわからない強引なことをしておいて。誰にでもあのように笑うのね。本当に、本当にわけのわからない人……!)


 それが、人生で初めて経験する「嫉妬」という感情だということに、ゾンネはまだ気づいていない。ただ、胸の奥を掻きむしるような黒いモヤモヤを抱え、ドレスの裾を強く握りしめていた。


「――シャンテン様、そんなにワイングラスを睨みつけられては、硝子が割れてしまいますよ」


 いつの間にか、令嬢たちの群れを鮮やかに捌いたシュテルンが、ゾンネの隣へと戻ってきていた。いつもの余裕を崩さない微笑みで、彼女の顔を覗き込んでくる。


「どうかされましたか? 少し、お疲れのようだ」

「いいえ? なにも変わりありませんよ」


 ゾンネはすました顔のまま、冷ややかな視線を彼に返した。そのトゲトゲとした態度に、シュテルンは一瞬だけきょとんとした表情を浮かべる。


「どなたに対してもあのように完璧な笑顔を安売りできるなんて、さすがは『完璧な外交官様』ですこと。恐れ入りました」


 嫌味をたっぷり込めて言い放ち、扇子を優雅に開いてパタパタと顔を仰ぐゾンネ。

 シュテルンは一瞬呆気にとられたが、やがて、彼女がなぜ怒っているのか――その理由を正確に察知した瞬間、彼の目元が、これ以上ないほど愉しげに歪んだ。


「なるほど。……まさか貴方にそんな風に言っていただけるとは。正直に申し上げて、今、非常に気分が良いですね」

「どういう意味よ……」

「貴方が私を睨んでくれるなら、社交界の退屈な薔薇など、いくらでもドブに捨てて見せましょうか」


 ゾンネはピンと来ていない様子でシュテルンを見つめる。

 そのとき、会場の壁際に控えていた公爵家隠密部隊が、微かに、だが緊迫した合図をシュテルンに送った。


 ――旧王家派閥の残党が、動いた。


 甘い空気は一瞬で消え去り、2人の瞳に冷徹な光が宿る。ゾンネは胸のモヤモヤを振り払うように不敵に微笑むと、隠し持っていた中和剤の起動スイッチに指を触れた。


「……ちょうどいいわね。私のこのイライラを発散するよりも先に、残党たちを仕留めましょうか」


「ええ、行きましょう。私たちの逆撃の時間です」


 完璧なコンビネーションの元、2人はついに、旧王家派閥の企みを潰すための罠を始動させる――。



 きらびやかな舞浦会の音楽が流れる中、見えない戦火はすでに上がっていた。


「北側の給気口、および中央のシャンデリア基部に不審な給気ボトルの設置を確認。旧王家の残党らしき人物あり。――配置完了」


 シュテルンの耳元に仕込まれた魔導通信器から、潜入させている公爵家隠密部隊の、低く緊迫した報告が響く。


 敵の狙いは、建国記念式典に集まった王政上層部ごと、この会場を未知の毒ガスで包み込むこと。そしてその罪を、新就任した『王国専属錬金術師』であるゾンネに擦り付け、現王政の信用を根底から失墜させることだ。


「予測通りですね。泳がせなさい。彼らが『今まさに起爆した』という確固たる証拠を押さえるまで、手出しは無用です」


 シュテルンはワイングラスを傾けながら、至極滑らかな声で指示を出した。その視線は、会場の端でグラスを弄んでいる、かつてネーベルと繋がっていた、旧王家派閥の不穏な貴族へと向けられている。


「……ねえ、シュテルン。あの給気ボトルから微かに漏れ出ている成分の術式……やっぱりね」


 ゾンネが扇子で口元を隠しながら、隣のシュテルンにだけ聞こえる微小な声で告げた。その瞳は、先ほどまでの無自覚な嫉妬の揺らぎを完全に消し去り、冷徹な「天才錬金術師」のそれに切り替わっている。


「単体では全くの無害な成分。けれど、この会場のシャンデリアに使われている『特定の魔力触媒』と混ざり合った瞬間に、性質が最悪の即死毒へと変質する設計ね。……ふふ、あの晩餐会の事件も、過去の不審死事件も、すべてこれと同じ。錬金術の処理の仕方に、あの独特の不快な『癖』がべっとりと残っているもの」


 ゾンネは圧倒的な傲慢さを孕んで微笑んだ。

 普通の検死官や兵士では、単体で無害なその成分を「毒」だとは決して見抜けない。過去の事件でその特殊な構造を暴き、犯人の“癖”まで記憶していたゾンネだからこそ、瞬時に正体を看破できたのだ。


「私を誰だと思っていて? 仕込みは終わっているわ。公爵邸を出る前に、この会場全体の空気循環系に、私が調合した『特製の中和成分』をすでに混ぜておいたわよ。彼らがスイッチを押した瞬間に、組み合わせのバランスが崩れて、ただの『香水の原料』へと変質するように……ね」

「さすがはゾンネ嬢。初動の早さは私以上だ」


 シュテルンは、彼女の完璧な先読みに深く満足したように目を細めた。

 犯人たちが完璧だと信じている「設計された毒」のその上をいく、ゾンネによる「設計の上書き」。これ以上ない、完璧なハメ技だ。


 ――直後、会場の壁際で、不自然な魔力の脈動が走った。


 カチリ、と小さな起動音が響いた。旧王家の残党たちが、毒ガスの起爆スイッチを押したのだ。本来なら、空気中の魔力触媒と反応し、一瞬で会場全体が地獄絵図に変わっていたはずだった。しかし、悲鳴は上がらなかった。給気口から吹き出したのは、紫煙の毒ガスなどではなく――会場を優雅に満たす、瑞々しい白百合の甘い香りだった。


「な……!? バカな、なぜ毒が発動しない……っ!? 確かに条件は揃っているはずだ!」


 会場の隅で、首謀者である貴族が驚愕に目を見張り、取り乱した声を漏らす。組み合わせを狂わされ、無害な香水へと変質させられたことなど、彼らの浅薄な知識では理解できるはずもない。


「――そこまでです。国家反逆の現行犯として、全員拘束しなさい」


 シュテルンの冷徹な声が響くと同時に、給仕や近衛兵に変装していた隠密部隊が、一斉に動く。逃げようとした残党たちは、叫ぶ暇さえ与えられずに次々と床へ押し伏せられていく。

 華やかな夜会は一瞬にして静まり返り、貴族たちが何が起きたのかと騒然とする中、シュテルンはゾンネの手を優雅に取り、中央へと一歩進み出た。


「皆様、ご安心を。旧王家の哀れな残党が、我が国の『王国専属錬金術師』の就任を妬み、このような不届きな真似を働いたようですが……。我がシャンテン嬢の叡智の前には、彼らの毒など、ただの芳香剤に過ぎません」


 シュテルンの堂々たる宣言に、会場からは割れんばかりの拍手と、ゾンネに対する畏怖の眼差しが注がれる。自らの知性と、シュテルンの手腕で、完全に盤面をひっくり返してみせたのだ。

 ゾンネはシュテルンの隣で、差し出された彼の手をぎゅっと握り返しながら、心の中で小さくため息をついた。


(……これで、本当に片付いたのね。私の新しい『武器』で、この男を守り抜けた)

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