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ラナンキュラス 〜距離を置く彼女と、興味を抱く彼。王都の秘密が二人を絡め取り、やがて独占欲という名の歪な恋を育む〜  作者: 佳月


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終章


 騒然とする大舞踏会を公爵家の隠密部隊に任せ、シュテルンはゾンネの手を引いて、喧騒から離れた王城のバルコニーへと連れ出した。夜風がドレスの裾を揺らし、火照った肌を心地よく冷ましていく。遠くで鳴り響く祝祭の音楽を背に、ゾンネはすっとシュテルンから手を離すと、つぶやいた。


「……これで、式典を邪魔する元凶たちは片付いたわね。本当にくだらないお遊びに付き合わされたものね」


(やっぱりスッキリしない……私のこのイライラは、旧王家の企みが片付いたくらいじゃ、まだ完全には収まらないわ)


 口ではそっけない態度を取りながら、ゾンネはぷいっと不機嫌そうに横を向いた。

 シュテルンは手すりに背を預け、月光を浴びて輝くゾンネを愛おしげに見つめながら、愉しげに目を細めた。


「残党の企みは完璧に叩き潰し、貴方の名声は今や王国一だというのに、随分とご機嫌斜めのようですね、ゾンネ」

「どこも斜めになってないわよ。私はただ、無駄な体力を使って疲れたと言っているの」

「ふふ、お疲れなのは事実でしょうが……どうやら、理由はそれだけではなさそうですね」


 シュテルンは彼女の頑なな態度に隠された、あまりにも可愛い「本当の理由」を正確に察知していた。そんな彼のすべてを見透かしたような態度が、ゾンネの頑ななプライドをさらに刺激してしまう。


「知らないわよ。とにかく、不愉快なものは不愉快なの。貴方の……あのような顔は、調合室だけで見せていればいいのに」


 口を突いて出た自分の言葉に、ゾンネはハッと息を呑んだ。


(私、今、何を言って――!?)


 まるで「自分だけにその顔を見せていろ」と言っているようなものだ。どんな複雑な毒の配合も一瞬で見抜く自分の明晰な頭脳が、今この瞬間、たった一つのシンプルな答えを弾き出していた。


(――私は、この男が他の誰かに微笑むのが、嫌でたまらないのね)


 無自覚だった独占欲の正体が、『恋』というあまりにも熱い質量を持って自分の言葉によって一気に暴かれ、ゾンネの顔がカッと火を噴いたように赤く染まっていく。


(違う、これはただの、私の所有欲で、条件の維持で……っ! )


 必死に言い訳を探そうとするが、激しく脈打つ鼓動がそれを許さない。


 沈黙が訪れる。


 ゾンネが気まずさに耐えかねて、そっと横目でシュテルンを盗み見ると。

 ――常に余裕を湛え、どんな状況でも完璧な策を講じていたシュテルンが、目を丸くして立ち尽くしていた。

 仮面のような微笑はどこへやら、彼は数瞬の間、ただ間の抜けたように目を瞬かせ、きょとんとした表情でゾンネを見つめ返している。まるで、彼女が放った言葉の意味を論理的に解釈しようとして、致命的なエラーを起こしたかのような顔だった。

 あまりの珍しい表情に、ゾンネは毒気を抜かれたように固まる。

 計算高き策士シュテルンが、まさか自分の一言でここまで思考を停止させるなんて。

 やがて、その呆然とした表情は、徐々に熱を帯びた「愉悦」へと形を変えていく。

 シュテルンが、喉の奥で小さく吹き出した。


 「……ああ。なるほど」


 その声は、夜会の誰にでも向けていたような社交的な響きを完全に失っていた。

 動揺して取り繕おうとする彼女の一歩先を行くように、シュテルンは音もなく距離を詰めると、優雅な仕草でゾンネの前に片膝を突いた。


「……っ、シュテルン!?」

「ええ、お望み通りに。それではこれからの私の『完璧な微笑』は、すべて貴方一人に買い占めていただきましょうか。我が愛しの錬金術師殿?」


 見上げるシュテルンの瞳には、夜会の誰にでも向けていたものとは明らかに違う、熱く、酷く深い光が宿っていた。彼はゾンネの指先をそっと取り、今度は手袋越しではなく、剥き出しの肌へと、切ないほど深く、甘いキスを落とした。


「〜〜〜〜っ!」


 ゾンネは真っ赤になった顔を隠すように扇子をバッと広げ、彼を思い切り睨みつけた。

 月夜のバルコニーに、二人の甘く狂おしい沈黙が、静かに流れていった。



 建国記念式典でのテロ未遂事件から、数週間が経過した。

 シュテルンが動かした公爵家の隠密部隊の迅速な追跡により、旧王家派閥の残党は芋づる式に捕縛され、彼らの資金源も完全に凍結された。晩餐会の事件から続いた一連の不審死、そして「設計された毒」の脅威は、今や王国から跡形もなく消え去ろうとしている。


 公爵邸の格式高い応接室。

 上質な官服に身を包んだゾンネの前に、公爵家に長年仕える老家老のフランツが、淹れたての紅茶を静かに差し出した。


「お疲れ様でございました、シャンテン様。……いえ、今は『王国専属錬金術師様』とお呼びすべきですかね」


 フランツは深い敬意を込めて、優しく目を細めながら一礼した。机の上には、シュテルンが王城から持ち帰ってきた一連の事件に関する最終報告書と、ゾンネの功績を称える国王からの直筆の感謝状が置かれている。


「公爵家の者を代表して、深く感謝を申し上げます。ゾンネ様の見事な先読みがなければ、我が主も含め、今頃この国の上層部は壊滅していたでしょう。旧王家の因縁にも、これでようやく終止符が打たれました」

「私は、私の目的のために動いただけよ。フランツが頭を下げる必要はないでしょ?」


 ゾンネはすました顔で紅茶を口に運んだ。

 かつては彼女の持つ血筋に目をつけ、国の利益のために都合よく縛り付け、利用しようと群がっていた者たちの傲慢な思惑。そんな鬱陶しいしがらみを、彼女は自らの意志と圧倒的な実力で完全にねじ伏せたのだ。今のゾンネを前に、もはやそんな不躾な真似をできる者など、この国のどこにも存在しない。

名実ともに、彼女は誰も触れることすら叶わない、高貴で最強の錬金術師としてこの場所に君臨したのだ。

 フランツが役目を終えて静かに退室すると、入れ替わるようにして、一連の処理を執っていたシュテルンが部屋に入ってき

いつもの完璧な正装だが、その肩の力はどこか抜けている。本当に、すべてが片付いたのだ。


「お疲れ様です、ゾンネ。これで、貴方を脅かす歪んだ『条件』はすべて排除されました。我が国の誇る錬金術師殿の初陣は、これ以上ない大勝利といえるでしょう」

「ありがとう、シュテルン。……それよりも」


 ゾンネはカップを置くと、すっと立ち上がり、どこか拗ねたように視線を逸らした。


「ここ数週間、報告書の作成だの、新しい研究所の立ち上げだの、あちこち連れ回されて辟易していたのよ。……私はもう、あんな窮屈な場所には行きたくないわよ」

「ふふ、確かに、貴方を机仕事に縛り付けるのは国家的な損失ですね。では、どこかご希望の場所でも?」


 シュテルンが優雅に目を細めて問いかける。

ゾンネは顎を少しだけ上げて、誇らしげに、けれど確かな愛着を込めて言い放った。


「決まっているでしょう。――私のお気に入りの城へ帰るわよ。私が育ててた植物たちの様子も気になるし、新しい試薬の調合も途中で止まったままなんだから」

その言葉に、シュテルンは一瞬だけ驚いたように目を見張った。

『お気に入りの城』。シュテルンがいる公爵邸に匿われていた期間に使用していた場所を、自らの「帰る場所」と選んだのだから。


「ええ、喜んで。――お帰りなさい、ゾンネ」


シュテルンは愛おしさを隠そうともせず微笑むと、彼女をエスコートするように手を差し伸べた。

二人は、すべての喧騒が遠ざかった場所へと、ゆっくりと歩みを進めていく――。



 重厚な扉を開けた先にある公爵邸の片隅に佇む温室は、いつだって外界の激動から切り離された、二人だけの聖域だった。一歩足を踏み入れれば、そこには数週間前と何も変わらない、ガラス天井から降り注ぐ柔らかな陽光が、色とりどりの薬草や花々を優しく照らしている。


「ああ、やっぱりここが一番落ち着くわね」


 小さく息を吐いたゾンネは、懐かしい匂いに包まれながら、さっそく数週間ぶりに戻ってきた自身のデスクへと向かった。

机の上の埃を軽く払うと、名実ともに手に入れた『王国専属錬金術師』の重厚な任命書を、脇へと無造作に追いやった。国が欲しがったのは、彼女の比類なき『知識』という名の道具に過ぎない。そんなことは最初から分かっていたし、どうでもよかった。

 かつては周囲が勝手に恐れ、遠巻きにしていた生まれの呪い。それを、このシュテルンを守り抜くための最強の『武器』に変えると決めて、彼女はこの椅子に座ったのだ。

 今回のテロを叩き潰したことで、彼を破滅させる罠はすべて根元から握り潰してみせた。その確かな高揚感と、これからもこの知識で彼を隣で守り続けるのだという誇らしさが、ゾンネの胸を強く満たしている。


 ――けれど。


(……あの夜のせいで、調子が狂うわ)


 守り切った満足感とは別に、ゾンネの胸の奥は、ここ数週間ずっと落ち着かないままでいた。

 事務仕事を終えてなお、脳裏に鮮明に蘇るのはバルコニーでの出来事だ。


『完璧な微笑は、すべて貴方一人に買い占めていただきましょう』


 そう言って自分の前に跪き、剥き出しの肌へと落とされた、あの熱く深いキスの感触。

 あの瞬間、自分の独占欲を完全に自覚させられて以来、シュテルンと目が合うたびに心臓がうるさく跳ねてしまう。自分の完璧なロジックでは処理できないこの甘い動揺に、ゾンネは小さく眉をひそめた。

 思考を振り払うように、机の上に広げられているのは、先ほど戻る途中で摘み取ったばかりの薬草や瑞々しい花束。


 その中に一輪、ひときわ異彩を放つ大輪の花があった。


 鮮やかで、幾重にも重なる薄い花びらが、静かに、そして気高く咲き誇っている。――ラナンキュラスだ。ゾンネがその花びらにそっと触れようとした時、背後で微かな足音が響いた。一緒に戻ってきたはずの男が、一歩下がった場所で足を止めている。

 振り返ると、そこには完璧な公爵の仮面を被ったまま、どこか一線を引いたような、酷く丁寧な態度で佇むシュテルンの姿があった。すべてが片付き、完全に二人きりになったというのに、彼はまるで公式の場であるかのように、端正な距離を保っている。


「……で?」


 ゾンネは触れかけていた指を離し、まっすぐに彼を振り返った。


「いつまで他人行儀なのよ」


 その一言に、完璧な外交官であるはずのシュテルンが、一瞬だけ言葉を失う。

 温室に、柔らかな光が落ちていた。

 完璧な外交官として、数々の夜を、数々の規律を乗り越えてきた男が、今度は別の理由で、静かに喉を鳴らす。彼はゆっくりと歩みを進め、ゾンネのすぐ目の前で足を止めた。その距離は、もう公務のものでも、保護者としてのものでもない。


「……他人行儀にしていなければ、私の、個人的な言葉が溢れてしまいそうでしたので」

「あら」


 ゾンネは逃げ出すこともなく、そのまっすぐな視線を受け止める。


「お堅い文官様の個人的な言葉って、どんなものかしら」


 シュテルンは、机の上に置かれた任命書の脇――ゾンネが先ほどまで整理していた花束の中に咲く、あの大輪の花に視線を落とした。彼はその花に、そしてその花のように底知れず、掴みどころなく、自らの世界の中心を奪っていった少女に、熱く深い視線を注いだ。


「王国は、あなたの比類なき『知識』を欲した。ですが、私が本当に目を離せなくなったのは、そんなものではありません」


 彼は顔を上げ、ゾンネを、ただ一人の女として見つめる。


「……この花、ラナンキュラスには、少々、私の本音に似た花言葉があります」


 ゾンネは黙って彼の次の言葉を待つ。

 温室の風が、二人の静かな空間を祝福するように優しく吹き抜けた。完璧だったはずの規律をすべて壊し、自分の世界の中心に彼女を据えた男は、初めて外交官の微笑みを捨てた。一人の男としての、ひどく不器用で、狂おしいほどの情熱を込めて、静かに微笑む。


「ゾンネ……。――あなたは、とても魅力的だ」


 その声は、かつて調合室で耳朶を震わせた「お仕置き」の時のように低く、けれどどこまでも真っ直ぐに、彼女という存在のすべてを乞うように響いていた。


 ラナンキュラスの花言葉――『貴方は輝かしい魅力に満ちている』。


 その言葉の意味を知ってか知らずか、ゾンネはほんの少しだけ目を見張り、それから、今までで一番美しい、悪戯っぽい微笑みを彼に返した。


 かつて人々が本能的に恐れ、歴史の影に追いやった “近づくべきではない過去” の少女。そして、誰とも深く関わろうとせず、その場その場でただ “最も心地よい距離” を選んできただけの男。

 エーレ帝の黄金期の再来と謳われる二人の天才が、様々な壁を乗り越えてたどり着いた答え――。

 それは歴史の記録に残るようなものではなく、ただひとりの男とひとりの女の心を、世界で最も甘い “結び目” で静かに繋いだのだった。


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