3.
「早く取り返しに」
きて、と涙目で訴えられた。俺の愛する人に。
早く取り返しに行く。
仕事がうまくいかなくなって、結局辞職した。止めてほしいとか思わなかったはずなのに、辞めたら後悔するよ、という定番の台詞を吐く人は誰もいなかった。なぜか悲しい。辞めたくて辞めると宣言したはずなのに。
ハローワークに登録し、何度も面接。疲れ切ってくたびれた三十に入った男を雇おうとする人間は、いなかった。
バブルが崩壊し、崩れていく日本。こんな時期に、一番金がかかる人件費を増やそうとする会社なんてなかった。ましてや年増のおっさん。雇うとしたら、もっと若手か、もっとベテランのできそうな男だろう。
俺は、どっちにも当てはまらない半端モンだ。
どうにか生活は続けないといけない。だから深夜のコンビニで日雇いのバイトして、生活をつなぐ。廃棄の食いモンをこっそり持ち帰ることも少なくない日々を送った。いつしか川辺とか公園で、ホームレスになるのも遠くはないかもしれない。
面接に行って数日後、封筒が投函されていた。そこはなかなか手ごたえがあったと思う。仕事内容が辞めた会社と同じ業界だった。
——前の会社の情報は、覚えていますか?
——覚えています
記憶力が良いことをアピールした。たしかに覚えているところはある。
——もし、その情報をリークしてほしいと私に言われたら、どうしますか?
——もちろん、お断りします
誠実、忠実、守秘義務、すべてまっとうな人間であることをアピールした。実際、前の会社のことなんて漏らしてもいいと思うくらいだったが、俺にはそれをやる勇気がないだけだ。
目の前に座っていた面接官はたっぷりと笑った。
これはいけると思った。
……のに。
“不採用”
飛び込んできたのは、この単語。
なぜ?!
電話した。とっさの行動だった。
「馬鹿真面目で中途半端な人間を雇うほど、こちらも馬鹿ではないんでね」
社会に切り捨てられた瞬間。ぱさ、と音がしたのは受け取った通知書を落とした音で、代わりに頭の中では、シャキン、と鋭い音が、新たな仕事を見つけようと必死に前を向いていた俺と社会を切り離した音だった。
とぼとぼと歩く。まわりの人間は、明るいネオンのなかを楽しそうに歩いていく。バブル崩壊というのを知らないのか。それとも馬鹿なだけか。そんなの気にしなくていいほどの、裕福な人間か。
家にいても光熱費がかかるだけ。その日、夜は明るい場所で彷徨い歩いていた。切り離されて真っ暗闇に堕ちた俺を、照らしてくれる光を探していた。
「初回、お安いですよ~、いかがですか、お兄さん!」
勢いよく、でもかわいい声が耳を通り抜けた。お兄さんなんて、こんなよれよれの男にホステスのお嬢が声をかけてくるはずない。
「ちょっと、無視しないでくださいよぉ」
腕に重みが乗っかった。
「え?」
「お安くします!」
かわいい女の子だった。純粋な瞳。露出しすぎないドレス。暗い夜なのに白い肌、ネオンのカラフルな光を反射させている。
「あ、はい」
無意識に、返事をしていた。「え、ほんとですか?!」と嬉しそうに、女の子は俺を店へと連れ込んだ。
「実は、お金なくて」
こんなとこで飲んだらいくらになるんだろう。あのまま働いてたら、美人でナイスバディな女の子を囲んでがばがばいけていたかもしれない。なのに今は。
「わたし、キャッチの成功初めてなんです! だから初回はお安く、じゃなくてわたし持ちます!」
そんなことがあるのか、騙されてるんじゃないか?
夢でもいいか、こんなかわいい子と一緒にいられるのなら。明かりのもとにいられるのなら。
そのまま、少しだけ、飲みながら話した。
目が覚めれば、ベッドの上で朝だった。
「あ、起きました?」
目も合わせてくれないまま、聞いてきた。がんばって平静を装っています、というのがばればれ。
昨夜、なにがあったのかはよく覚えている。
久々に、とても幸せだった。
「俺でよかったのか?」
シーツについている染みを見て、率直に尋ねる。少なくともひとまわりは離れていそうな年頃の女の子。そして、この様子は慣れていないどころか、初めてだ。
「うん、お兄さん、わたしの話、ずっと聞いてくれて」
昨日は自分の身の上話なんてするのが恥ずかしく、彼女の話を聞かせてもらった。最初は口ごもっていて、嫌ならいいと止めたら、逆に聞いてほしいと話し出した。が、ここでは話しにくいと、お店の奥の部屋へと移動したのを覚えている。
逃げてきた。それだけ言った。
なにから、は言わなかった。
「がんばったな」
俺はそう言ったのを覚えている。逃げるのは、怖い。世界が一気に変わる。俺が辞職した後のように。
それをこんな女の子が決断して、しかもこのような店で働くことにしたのだ。勇気ある行動だと思う。お兄さん、と呼ばれたこともあり、兄になった気分で、女の子をやさしい言葉で包んだ。俺が、誰かに言ってほしかった言葉かもしれない。
「これ、運命っていうのかな」
わたし、お兄さんと会ったとき、初めて会った気がしなかった。
運命。
向き合ってきたつもりだったが、そっぽを向いて受け入れてこなかった。自分が今進んでいる道は自分で選んだのに、こんなの違う、と否定ばかりして。新たな、別の運命に向かう道を作ることさえしていない。
こんな女の子ががんばっているのに。俺はなにをしているんだ。
“初めて会った気がしない”、俺はそうじゃなかった。でもその言葉が嬉しくて、今度は言葉でなく、体で抱きしめたのだ。
アルバイトの給料は低い。でもそれが溜まれば店に行き、あの子に会う。店に行けないときは、ほんの少しの金を握らせて、別の女の子にメモを渡すよう頼んだ。女の子が頭から離れない。
愛してるって、こういうのを言うんだ。
そのときの俺はそう思った。
あの子が前を向かせてくれた。次の面接先に行く前、お金はないけどツケといてもらい、俺は宣言した。次の面接に通ったら、
結婚しよう。
女の子は両手で口を塞いで、涙を流しながら「はい」と答えてくれた。
そして、本名を、教えてくれた。
迎えに来る、と言い残し、俺は翌日の面接に向かった。しゃきっとした印象を残すために表情の練習をし、聞かれるだろう質問に答える準備をした。質問はどこでもだいたい同じ。面接官の心に響くかどうかよりも、会社として利益になる人間であることを伝える文章を、読み上げる。
通知が届いた。結果は、採用だった。
すぐに報告に行く。夜の街を走った。
「え? あの子? 辞めたけど?」
煙草を吸っているミニスカートで化粧が厚い女に、吐き捨てられた。
なにを言う? 迎えに来るって言ったのに、なぜ、いない? 住所を聞いても、個人情報と取り合ってもらえない。
どうすればいい?
会いたいのに、会えない。
伝えたい言葉が、伝えられない。
まだ言ってない。
愛してる、と。
「おぉい」
とぼとぼと引き返す途中、後ろからドスのきいた声がかかった。そういえばどこを歩いてるんだろう。ここには俺しかいない。
振り返ると、数人の男が立っていた。
「お嬢様に手ぇ出して、しかもツケ払ってない輩はおまえだな?」
お嬢様?
ツケ?
思い至るのは、あの子。あんな店にいるとは思えない仕草。マナー。たしかに、お嬢様と言えなくもない。運命を夢見る、深窓のお嬢様。
ツケは、あの日のことか。
「高くつくぞ」
「今すぐ払え」
今は払えない、就職が決まったから、そのあとで必ず、と伝える。スナックのホステスに手を出して、しかもツケがあって、その子が消えたら、こういう輩は入り浸っていた男を捕まえるのか。
「この就職難に、信じられるか?」
「いや、ねぇな」
「どこか言ってみろ」
俺は正直に、吐いた。すると、
「おまえが手ぇ出した女はなぁ、そこの社長のご令嬢だよ!」
「こんな運命、あるか?」
はははは、と汚い笑い声が頭に響く。あの子が、あの子は、就職先の社長の娘。
「家出してたんだけどな、無事に見つかって連れ戻したから安心しろ」
「でも社長、雇った男が娘に手ぇ出してたって知ったらどうすんだろ」
「クビかぁ?」
「ま、お嬢ちゃんは外に出られなくするだろうな」
「溺愛してるからなぁ」
社長は娘を溺愛していた。前にあの子は言っていた。もっと世界を見たい、と。
家出してきたのだ。世界を見るために。勇気を出して。
運命に抗って。
夢を、現実にするために。
「まずは報告だ」
「やめてくれ」
報告されたら絶対にクビにされる。面接に通ったら結婚するんだ。ここでクビにされたら、通ったとは言えない。結婚できない。
ショルダーフォンに掴みかかる。これだけでも壊してしまえば、あとは彼女を探して、逃げるだけだ。あの子のために、道を。
叶わなかった。
返りうちに、俺はぼこぼこにされた。
「あ、きたよおっさん」
社長が来たのなら、ちょうどいい。話をして、聞いてもらって……
え。
き、と止まった車には、あの子が乗っていた。
名前を呼ぼうとしたそのとき、いつの間にか下りていた社長に、またも殴られ、蹴るを繰り返される。
手を伸ばしても、あの子はこっちを向いてくれない。
一瞬、視線だけこちらに向けた気がした。
気がしただけだった。
「お父様、そんな男捨て置いて、いきましょう」
聞いたことのない低い声であの子が言うと、おまえは不採用と、言い残して車が消えた。
追いかける。ふらふらする。まっすぐに歩けない。
とにかく、車が向かった先へ、進む。
雨が、降って来た。
足元がおぼつかないのは、ぬかるんだ土のせいか。
——っ
名前を呼んでも返事はない。そのまま、倒れた俺は、多分雨水で茶色く染まった用水路にでも落ちたんだと思う。光がぱったりと、消えたから。
いいことは、続かないんだなぁ。
思い描いた道を進んでいると思ってたのに。
就職して、あの子と結婚して。そして。




