4.
はっと我に返ると、まだ目の前に男の顔がある。
苦痛に歪んでいるのは、殴られて蹴られた痛みより、心の痛みだ。
就職が決定、結婚もできると輝かしい未来像を現実にできると思った直後、あんなことに。
——あの子は、ほんとうに、そんな子だった?
記憶はいつも、未練の魂目線で見ている。でも第三者のまま。つまり目線は男のものだ。だとしても、詠にはあのご令嬢が男を見捨てるような悪い子は思えなかった。
男の未練とは。
——古谷みたいな、裏切りへの怒り?
——違う。だって、最初に愛を感じて、それで、あの記憶が見えた
——愛、か
——愛のカタチは色々あるという
——そうか、この人は、愛に振り回された自分に感じているんだ
熊野古道で有名な神獣を主人公にした時代ファンタジー作品がある。読んでみて、世界が崩壊していくように思った。
アニメ化されたその作品のオープニングは、演歌のような楽曲かと思いきや、今時のロックのような印象だった。
後半、覚えていた部分を、歌う。あんなに元気に、歌えない。でも、歌わなければ。
愛という美しい言葉の裏に潜んだ悪意に気づかずに、夢だけ見続けた男。
未来なんて、なにが起こるかわからないのに、夢を見て、それが現実になると信じていた。
運命を信じて、一緒になることを望んだのは自分なのに、運命でもなんでもない、愛もなにもない世界に進んでいた、望まない、別の運命に。
男が死んだのは、濁った用水路だった。なにも見えなかった。
——なにも見えないなら、自分で自分の好きなように、見ればいい
——好きな世界を。好きな未来を
——あなたはとってもがんばった
——言い訳したっていいと思います。愛に振り回されました…… って
——せっかく水に流されたんだから、すべてを水に流しましょう?
——起きたこと、全部忘れて
——逃げたっていいんでしょう? 勇気がいることだって、あなたが言ったんですよ
——がんばったのは、あなたです
——だって、あなたは約束通り面接を通って、迎えに行ったんですから
——情けなくなんて、ないですよ
——もう、苦しまないで
——きっと沈んだ水の先に、きれいな光がまってます
——私も、現実逃避、しています
——運命っぽく出会ってしまった男に、振り回されて
——もしかしたら死ぬかもしれないのに
——義務感でここにいる
——馬鹿みたい
——でも、なんででしょうね、あなたに会ったら、情けないとは思わないんです
——だって、自分で決めた道だから
——あなたも、そうでしょう?
——実は、気づいていたんでしょう?
「愛」
わたしの名前、反町愛っていうの。
「愛か。美しい名前だな」
反町。これから受ける面接先は、反町建設という。中堅の企業。
嫌なことは考えないことにした。
けど、当たってしまった。どうしてこういう嫌な予感って、当たっちまうんだろう。
「愛」
会いたいよ。
その顔を見て、思った。
——会いたい、会わせたい
「母さん」
「幸多」
「俺、会社継がないから」
「うん」
「幸多」
「ん?」
「成人式、おめでとう」
「ありがとう」
「幸多の名前はね、お父さんの名前なの」
「え?」
「あなたのお父さん」
「美しい名前でしょ?」
「うん」
「母さんの名前も、きれいだよ」
「愛って」
「まぁ、お父さんと同じこと言うなんて、さすがね」
「喜んでいいところ?」
「もちろん。垂れた優しいまなざしもそっくり。お父さんはね、とっても優しい人だったのよ。あの会長に目を付けられて、行方不明になっちゃったけど…… 幸多く、生きているはずよ」
「そっか」
「わたしを救ってくれた、ヒーローで」
「運命の人なんだから」
流れてきた別の映像。覆っていた泥が消えている。
男の泥の顔が、なにかを見ている。見えている。聞こえている。この人が、愛した人。そして、成人を祝われたこの男性は、息子だ。
「あの人ね、なんでうちを選んだのかしら。ばかよねぇ。今やブラック企業で有名。クビになってよかったわ」
わたし、あの人が迎えに来る前に見つかっちゃって、連れ帰られちゃったの。もうパニックで。運命の人との子がおなかにいるから、絶対に家に帰らないって、あの人のところに行くって、喚いちゃった。そしたら、殺すって言ったのよ。
誰をって。お父さんじゃないわ。
あなたよ。
この子がいれば、あの人との運命は絶対に切れない。だから、なんとしてでも守り切ろうと思って、殺したら私も死ぬって、わたしから脅してやったわ。
そしたら今度は、そいつはうちの面接通ったやつだからクビにするって。
嫌だ、だめ、って喚くふりして、そうしてって祈ったわ。ここに来たって絶対いいことないもの。
あとね、おなかに赤ちゃんがいるっていうの、でまかせだったんだけど…… ほんとにいたのよ、あなたが。
あの人、最後までわたしを見てた。追いかけてきてくれているの、わかったわ。
今もきっと、探してくれてるわ。
あいつに近づいたらあいつも子供も殺すって脅されて、なにもできなかった自分が情けなくて、しかたないの。
わたしからは一度も言わなかったわ。
愛してるって。
せっかくだから、お母さんの話に付き合って。
運命の出会いだったのよ?
これは、今なのか昔なのか、わからない。でも、事実なのはわかる。なぜなら、泥の顔の眼から、涙が、透明の水が、流れているからだ。
「おなかに赤ちゃんがいたなんて」
「愛」
「愛」
「愛」
「幸あらんことを、俺の息子」
ぱぁ、と泥がきれいに透明になる。
「愛したのが情けないって思った俺が、情けないなぁ」
な、とこっちを見た幸多は、記憶で見た三十代のおじさんだが、面接みたいにきれいな身なりをして、しゃんとしていた。
「二人とも幸せってわかって、よかったよ」
笑った。あの、垂れた目尻をもっと垂らして。
「じゃぁ、泥の底に、光を見てくるよ」
——あ、わたしの気持ちは、この人たちに、届いてるんだ
「今は義務感かもしれないけど」
男は続ける。
「もう少し、彷徨ってみてもいいんじゃないか?」
俺みたいに、運命の出会いがあるかもよ。
ちゃぷん、と水になった男は、池に吸い込まれるように消えた。
泥を作っていたすべてが、透明になって。




