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この気持ちに名前をつけて  作者: ぬりえ
ゆっくりつかまれて

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5.

 泥でなくなった池を見て、終わったと思った。あの人——幸多は、愛に振り回されたと思っていたのかもしれない。

 しかし、振り回されたのではない。愛を最後まで愛せなかった自分に、情けなさを感じていたのだ。


 あとに見えたのはきっと、今生きている“愛”が、幸多の息子と話している、生きた話。

 なぜ聞こえたのかはわからないが、あれのおかげで、彼は救われた。

 息子がいたなんて、考えてもいなかった。幸多も、詠も。


 愛はもう幸多には会えないけれど、会えると信じているのが、美しい。もう一人の幸多と、幸せに生きてほしい。


 最後にはそう思った。大丈夫だ、父の幸多が、これからはずっと、見守っているから。





 一人で歌っているのがきっと、不思議だったのだろう。祭りがあるわけでもなく、酒もない。

 数人いた参拝者は、小さくも歌っていたのをしっかりと耳にしていて、怪しそうに、または不思議そうに、見て見ぬふりをしている。多分、あの先のない木道のあそこで舞台に立った気分で歌っていた、とかそんな理由をくっつけていると思いたい。


 ——まこくんがいなかったらきっと、捕まってたな


 誰か、この池が普段のように、もとどおりになったことを気づいただろうか。気づいていても、きっと気にしないだろう。こんな異常なことを、すんなり受け入れることはできないから。それが人間。最初、真言の話を信じなかった詠のように。


「あー、なんかうまく昇ってったみたい」

「それはよかった」


 見て、と出された羅針盤は、またよろよろと先を定めていない。もう、ここではないと言っている。


「愛ってほんと、いろんな形があるんだね」

「人によるでしょ、人それぞれ。人の数だけってやつ」

「すれ違いがなければ、きっと世界は平和だねぇ」


 じっと真言が見つめてくる。


「疲れた?」

「そりゃなぁ。精神的に、疲れますよこれは」

「行こう」


 先に参拝は済ませてある。でも前回から、先と後、両方に挨拶するようになった。聖域で勝手なことをしていることへの謝罪、無事に終えたからこそ挨拶ができることの感謝、両方。

 二人で手を合わせ、書いてある言葉を読み、お礼を伝えて、出る。


 少なくとも、詠と真言はここの存在を忘れない。感謝も伝えた。

 ということは、たった二人分でも、ここの仏様は存在を大きくした。もう、あれらが集まることはないとは言い切れないが、少なくなると思って。


「今も生きている人が見えるとは、思わなかったなぁ」


 あれはきっと、仏様が力を貸してくれたのだと思う。前回の生霊、綾とはまた違った。多分、ここ最近の現実が、彼に、幸多に、見せられた。目を指した穴に、夏の光はしっかりと入った。


 真言はなにも言わない。生きている人に会ったことがあるとかないとか、そういう話が出てくると思ったが、そういえば真言は終わった後は話題にしない。思い出したくないのか、それとも気持ちよくないものを見せた罪悪感からか。


「義務感でも、いつかは運命の出会いがあるかもって、光があるかもだから彷徨ってみたらって幸多さん言ってた」

「こうたさん」

「だから、私、続けるよ」


 最後がいつになるかはわからないが、なるべく、協力しようという気持ちが高まり、決まった。


「なんであの曲だったの」

「ああ、あれは音楽アプリが勝手に出してきたんだけど、原作は読んだことあって、ちょっとイメージが違ったから逆に頭に入ってきたというか」

「もっとポップなかんじに歌えばいいのに」


 ぽくぽくと濁ったような木魚の音が脳内で再生される。または笙や鐘の音。和風なあれのイメージはもっと、そういったおとなしいかんじなのだ。


「もともと祝詞とかお経って、元気に歌うものじゃなくない?」

「そうだけど、歌に感情を乗せるんだからさ、詠さん、歌詞も気にしてるみたいだし、そのままに歌ってみたらどうかなぁって思っただけ」


 そんなことを言われても、感情はそのままだがこの三回、いつも雰囲気は暗い。どうにかあの人たちが幸せに、天に昇れますようにと祈っているからか、元気にポップには難しい。真言もそんなこと、わかるだろうに。


「まこくんならあの声聞いて、ポップに歌えるの?」


 無言。

 真言に記憶は見えていないみたいだが、その後の、幹彦や綾や、愛と息子のほうの幸多が出てきたところは見て聞いているはずなのに。感じ方はそれこそ、愛と同じで人それぞれなのだろう。

 あの愛と幸多の話を聞いたら、バーンと勢いよく歌える気がしない。


「とりあえず、今日の任務は終了ね」

「そうだね」

「悪いけど、ちょっと寝させてもらうね」

「うん」


 精神的にものすごく疲労するらしい。この三回目で自覚した。棋士が対局後に糖分を欲するのと同様、疲れた体が睡眠を欲しがる。明日は仕事がある。前のときのように、寝坊はできない。


「運転は任せてくれていいから」

「もとよりそのつもりです」


 ふぁ、とあくびが出る。人前で失礼だ、とは、真言の前では思わない。思う必要がない相手。

 自分で選んだ道ではある。とはいえ、付き合わされて巻き込まれたのは誤りではないから、なにをしてもいいや、と割り切った。


 幸多にやってみたら、と言われ、そうしてみようと思った。どんな気持ちであれ、やってみたらなにか変わるかもしれない。


 車に乗ってからふつり、そのまま意識は夢のなかに吹き飛んだ。あの薄暗い手や蔓や泥も、消えていくときはこのようにふっつりと意識がどこかに上っていくのかもしれない。


 気づけば真っ暗などこかだった。


「え、嘘、ここどこ?!」


 色々な体験をした。黄泉の世界に引きずり込まれる思い。薄暗いなにかのなかに取り込まれ、出られないかもしれないという恐怖。

 目が覚めたら真っ暗だなんて、怖くて仕方ない。


「ここ、どこ、出して、出して」


 動こうとしても、体が動かない。あの蔓のように、なにかに縛られている。横にあるなにかを叩くも、固くて外に出られない。泥の球にとぷんと入ったときより、ずっと固い。


「詠さん!!」


 はっ


 名前を呼ぶ声がする。自分の名前。

 この世に生まれて授かった、自分の存在を表す名前。

 でもなぜか、自分の名に体が縛られたように動かない。


「で、出たい、出して、こ、こわ」

「ここは車! お、落ち着いて! ……ください」


 ——くるま?


「あの神社で、泥の男を救って、帰って来たところです」


 泥の男。

 聞こえる声は、あの泥の男ではない。


「あ、あ…… まこくん」


 はぁぁ、と大きなため息がした。


「ごごごごめんなさい、真っ暗で、つい、パニくっちゃって」

「いや、こちらこそ配慮が足らずにごめん」


 そんなに怖いとは、思っていなかった、と。


 ——いや怖いに決まってんでしょう! あんな思いを三度も!!


「近くに来たんだけど、詠さんぐっすり寝ちゃってて起きないから、空いてた駐車場で待ってたの」

「そっか、ありがとう」


 悪いことをしてしまった。きっと長時間の運転と精神面とのダブルパンチで真言も疲れているだろうに、帰らせられなかった。真言にも明日がある。大学四年生。いくらゆるいゼミで単位は心配ないとはいえ、やるべきことはあるだろうに、ぐっすり眠ってしまった自分に罪悪感がこみ上げる。

 この罪悪感も、未練になるかもしれない。


「ここでいいから、帰るね」


 縛られていたのはシートベルト。外すと体は自由に動く。がちゃ、と車のドアが開く。見たことのある景色で、安心する。家の近くにある駐車場だった。


「駐車料金と迷惑料」


 千円札を二枚ほど、出す。社会人が出す金がこれだけかと思われるかもしれない。この駐車場は一日単位で千円までいかないのを知っている。おつりと上乗せの千円札で許してもらう。


「送らなくて大丈夫?」

「大丈夫、すぐそこだから」


 心配は嬉しく受け取る。だがやはり、家を知られたくない気持ちが大きい。


「次のことはまた、羅針盤が動いたら連絡して相談しよ」


 ミラーにかかっていた羅針盤に触れる。暑い季節なのに、金属製の羅針盤はひやりとした。手の感触としてはひやりとしているのに、触れた手の内側がじわりと熱く感じた。


「じゃ、気を付けてね」


 ——愛、か


 愛だの恋だの、言っていられない。そんな年齢になってきている。大学生をもっと謳歌しておけばよかった。今度真言には、今のうちに恋をして、彼女作って、友人と遊びに行って、たくさん食べて、今だからこそできることをしておけ、とアドバイスしようと決めた。



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