4.
詠は、そうか、坂田というこの人は、ここで事故を起こして死んだのか、と納得していた。タイヤとこの高架下が一致する。見えた景色はここではないから、きっと別の場所の同じような場所になる。
記憶を見て思ったのは、おまえが選んだんだろうが! という怒りに近いものだった。
自分で夢を叶えるためにやったこと。相談したり、戻ることもできたのに、しなかった。環境が合わないという理由でいいではないか。
へんになにか、プライドかもしれないが、それにしがみついて動かなかった自分が悪いんだろうと、記憶を見ている詠が不快になった。
もしかしたら、ほかの人を巻き込む大事故になっていた可能性もあるのに。
この人の未練は、この世界への未練とは違う。坂田の、うまくいかなかったという苛立ちと、他にはうまくいっている人間がいるのに自分は、という情けなさと不甲斐なさと、動けない自分の足を、呪っている。
自分を、呪っている。
「ばかだよ、どうにでもやりようはあったのに」
詠がそう呟いたとき、二人に向かってタイヤが飛び込んでくる瞬間だった。その言葉は、タイヤの動きを一瞬止めた。
まだ記憶に頭をまわしている詠は、それには気づかない。ただ一瞬止まったその瞬間を、真言は見逃さなかった。すぐに詠を抱えて移動する。一か所に向かってきていたタイヤから少しでも遠くに。
かち、と数秒止まっていたタイヤは、そのまま重力に逆らわずに落っこちた。
詠が歌い出したのは、たっぷりとエネルギーに満ちた音楽だった。心にも体にもストレスがかかってどうにもならなくなったときを、乗り越えようとさせてくれる、そんな強さを含んだ歌詞とリズム。
——ねぇ! あんた、うまくいかないと思ったとき、どうにかしようとしてたじゃん、
——でも最初だけ。最後は諦めになってきてなかった?
——私にはわかんないけど、あんたのなかにはきっと、答えがあったはず
——自分を騙して生きてきたんだよ!
——せっかくの夢を台無しにしたのは、自分じゃん!
——なに、ここに残ってんの? さっさと転生でもなんでもして、新しい人生始めなよ!
「おやすみ、よい夢を」
夢はひとつじゃない。もし叶っても、叶えた状況を続けていくのは難しい。せっかく得た夢の場所を、別の場所にすることだって、また考え直すことだって、できたのに。
ずっとここに、いたのだ。
自分を呪っても、なにもならないのに。
夢があったことさえ、忘れてしまっている。
——たっぷりアルコールを摂取したんでしょ、これがガソリンでしょ、あんなにるんるんで運転してたじゃん
——同じように、それを前向きに、変えてみなよ!
曲の途中から歌い始めた。心を込めて。伝えたくて。こんなところにいなくていい。あなたの場所は、他にあるのだから。
どんっ
またタイヤが動き始めた。
「わっ」
昇っていかないタイヤ。出てこない坂田の姿。
「また失敗?!」
「とにかく走るよ!」
真言に引っ張られ、詠は動くタイヤの上を跳んでいく。いくつかはバランスを崩して横に倒れていった。今度は起き上がることはない。
「きっとなにかしらの影響はあるんだ。」
「じゃ、なんで」
「受け取りかた? 込めた気持ちが、なにかずれてるんだよ」
「そんなこと言われても」
人それぞれなのだ。詠の考えは、坂田とは違ったのか。
息も切れ切れに、真言に簡単に話す。田舎暮らしの夢。うまくいかず。最終的には、という簡単な流れ。その間もタイヤの上を走り続け、もう足が動かなくなってきている。ただ足を止めれば巻き込まれてタイヤの下敷きだ。
「詠さん、素直になれないときだって、あるんだよ!」
——可能性を捨てられないことだって、あるんだよ
真言の言葉は、とても気持ちがこもっていた。自分に重ねている部分があるのだろうか。
タイヤの動きが、とてもゆっくりになる。
「え、うそ、まこくんだ!」
真言の気持ちが、坂田と共感している。真言の考えのほうが、未練を動かす力になっている。
「吹いて!」
「えっ」
「早く!」
「なにを!」
「いいから、さっきの曲! 気持ち、音符に乗せて」
どっちつかずの自分が、嫌だったのかもしれない。
あっちか、こっちか、どっちが自分の居場所なのか、わからなくなって。
地に足がついていない、そんな言葉があるけれど、まさにそれだと思って。
タイヤがたくさん。これが未練の形にあったのは、もしかして坂田は、どこかへ行きたい気持ちを、抑えているからその気持ちが固まったのではないのか。
渋滞とか上り下りとかではない。
動く手段はあるのに、そこに居続けている。
そして、彼にとって居続けたい場所が、わからない。夢だったから。
——僕も、わからくなること、たくさんある。今もこれでいいのかわからない。力がなくなって、やるべきことはあるのに、できない自分がいる
——もう戻らない力
——もう戻れない場所
——僕には戻らないけど、坂田さんには、帰ることができたんじゃないですか
——もっと、自分を騙すことなく、心に素直に、誰からなにを言われても、もう一度、夢を、叶えていってほしかった
——きっと、あなたにはできたはず
——だって、あそこに住むことを、だれからのアドバイスもなくひとりで決められる勇気と決断力がある、立派な人だったんだから
——遠くに住んでいるのに、上司から呼び出される、優秀な人間だったんだから
——うらやましいです
——僕にはないものを持っているあなたが
——未練は断ちましょう。終わらせましょう、こんなタイヤの塊を残すことなんて
——向こうで、よい夢を、見ましょう
さぁぁ、
タイヤが砂のように溶けていく。
「わっ」
詠が突然足元をなくしたために足から落ちた。じんじんしているのか押さえている。
真言は笛を吹いていたのに、そういえば足を動かしていなかったことを思い出す。横になったタイヤの輪っかに乗っかって、笛を吹いていた。
「悔しかったんだよ」
詠にとっては上から、真言にとっては横から、降ってきた言葉。坂田が、真言と同じ体勢で、そこにいる。
「坂田、さ、ん?」
真言にも見えた。坂田の姿。まるで魔法使いのように、横向きのタイヤの輪に乗っかっている。
「うらやましかったんだよ」
同僚は自分より快適な生活をしていたことが。
悔しさは、それをできなかった自分が。
「こんな自分が悔しくてさ。勢いついて行ったのに、しなしなで毎日過ごしてたらもうおっさん。で、やらかして死んだとか、かっこ悪すぎだろ」
真言は返事をしない。相槌も打たない。じっと言葉を待っている。下にいる詠は、かっこ悪い! と頬をひっぱたいてやりたい気持ちだった。
だが詠の気持ちは坂田には響かなかった。
「まぁ、そんなすぐに前向きになんてならねぇけどさ、月とか星とかがきれいって思えるようになってやるさ」
「そう言ってるあなたはとても絵になります」
「タイヤに乗っかって浮いてる幽霊の俺が? ファンタジー通りこしてホラーだわ」
わはは、と笑った坂田は、ちゃんと笑えていた。詠からは何を話しているのかわからなかったが、笑っている顔は見えた。
「勇気があるとか、立派とか優秀とか、言ってくれる人間がいるんだなぁって思ったら、なんかしこりが取れたっつうか。うらやましいはいつか恨めしいに代わるから、あんま好きじゃねぇけど、おまえのは純粋ですげえなんか、すっと入って来た」
真言は吹いただけで、歌詞はわからない楽器の音色。だが、思ったことは、きちんと伝わっていた。
「そんなすぐに切り替えなんてできねぇこと、下の姉ちゃんにも教えてやって」
「はい」
「あの姉ちゃん、わかってるよ! って言い返したくなること言ってきてさぁ。なんかむっとしたわ。図星すぎて。あれの扱い気をつけろよ」
「……はい。猪突猛進で意固地な部分もありまして」
「カノジョには勧めねぇな」
はっと笑った坂田。
「じゃ、」
「待って!」
「んだよ」
待って、は詠からだった。行きそうなときをつかんだのだろうか。笑って会話していたから、今ならと思ったのか。
「常世に、生きた人間、いますか!」
「トコヨ?」
簡単に真言が常世の説明をする。
「生きた人間? 俺たちは死んで境目にいたからな。その常世ってやつ? 生きてるのは意思とかそういうんだけじゃねぇの?」
「あなたはもう一度、行ける?」
まだ下には、タイヤが砂になって山のようにいくつもある。これらもすべて、未練だ。
「行けんじゃね」
「なんで、そう思うんです!」
「いっこずつ片せばいいんだろ、それがお前の考えだ」
ひとつずつ、乗り越えて見つけて、やってみれば?
そう、坂田が挑発しているように思う。
前向きにしろ、
もうエネルギーも満タンだろ、
あなたの場所は別にあるだろ、
問題に当たってもどうにかしろ、
諦めるな、
自分を騙すな、素直になれ、
「人のこと、言えないですね、私」
「やっとわかったか。それでいい。ま、どっかで会ったら報告くらいしろよ」
坂田がそう言うと、地面に砂となっていくつもの山を作っていた影が、坂田に集まり始めた。
形は、車になる。タイヤに乗っていたはずの坂田は、運転席に座っていた。左ハンドル。他の未練を車体にして、夜の空に消えていく。
「あ、もう夜だ」
空には星が輝いていた。空飛ぶ車ならファンタジー作品で見たことがある。ファンタジーではなくなった瞬間。




