5.
僧侶の頭には、真言と詠の歌でなにかが流れてきていた。
人生はどこから始まりなのかわからない。後ろを振り返れば思い出はあるけれど、前を向いて歩く理由は見つからない。とにかく、引っぱられるままに生きていく毎日。誰かが大切にしてくれたから、“今”がある。
——でしょう?
——ずっと育ててくれた人がいるじゃない。私にとっても、厳しすぎると思ったけど、でも、あなたに道を作ってくれた人が、いた
——あなたからはそれが奪われてしまったんだ。途中に
——希望を信じて生きていく。希望が先にあるから、前に進む
——生きていってほしい
——今そこにひとりのあなたは、自分の心の中を誰かに伝えられていない
——いつも聞いてきたなにかを口説いてきたあなたは、お父様たちからもらったものを伝えてきたあなたは、自分の本心を誰にも伝えたこと、ないでしょう
——途中で諦めたあなたの道を、信じて、生きていこうよ
——あ、もう生きていないんだっけ
——あ、もう死んで、でもここにいるんだから、死の定義があいまいなここなら、生きているって思ってもいいのかな
——私はあなたに期待している。だから、任務をつないで、毎日を生きようと、これからも生きたいと、たとえ今はこんなでも、未練の塊になっていても
——生きていた魂に、誇りを持って
——生きていくには、繋ぐには、
ここを出なければいけない!!
「出られるなら出ておるわ!!」
鬼の形相で暴れる僧侶。兄の姿を見つけてから、変わってしまった。見ると、その足には枷がある。その枷をとめているのは、人だった。
あにじゃ、とこぼした。人は、僧侶の、亡くなった、兄。
「にい、ちゃん」
お兄さん。未練の僧侶が言うことを信じるならば、流行り病で死んだという、本来寺を継ぐはずだった、兄だった。
兄が、足を引っぱった?
「もとから、そいつは拾い子」
兄は話し出す。
「わたしの父が拾ってきたんだ」
「ひろ……?」
檻の動きが、ゆっくりになった。
雪の多い日、法事を終えた父が寺の前に置いてあるそれを見つけ、引き取った。それが、この未練。
未練の言う父と母。それは育ての親とでもいうのだろうか、とにかく血はつながっていない家族。
寺での修行は辛いことを自身で知っている父。兄も幼心に、すでに辛さを感じていた。それで決めた。この子に継がせない。
血のつながりは関係ないことだった。
この子には、自由に生きてほしかった。
あえて父は厳しくした。こんな家、出てってやる、と言われるのを信じて。
おまえなんか嫌いだ、と言われることを覚悟して。
長い間一緒にいれば、別れは辛くなるから。
小さな頃から、ずっと厳しくしてきた。母親という性質上か、甘やかしがちな母を引きはがすよう心がけた。それでも逃げない弟。
兄は流行り病で死に、継ぐものは誰かということに。弟のことを知っていたただひとりを、寺の住職を継がせることにした。
そして願いは叶い、弟は出ていった。
どこに行ったかはだいたいわかった。知らせてもらえるようにしておいた。最終的には一人で暮らしていると知り、周囲の者に頼む。
弟が死んだとき、私が引っぱったんだ。
まだ、伝えられていないことがたくさんあった。
「こいつは、私に生きてほしかったと思っていた。ずっとずっと、死ぬまで、死んでも」
こいつ、というのは弟のこと。
死んだ人間を生き返らせる方法はない。だから未練がずっと残っているのではない。たとえ未練が残り生きている人間に宿ったとしても、叶える方法などあるはずもなく。
「こいつは、信じてほしかったんだ。自分でも父の仕事を継げると」
実際、継ぐことは叶わなかった。
「こいつは、愛してほしかった」
愛が与えられているとは、思えなくなった。
「生きる希望が、ほしかったんだ」
だが自害もできなかった。なぜだかは、人それぞれの解釈があるだろう。とにかく、生きていくことを決めたのだ。
結局生きる希望は見つからなかった彼だが、生きられる限り、寺を出るまでの間に身についてしまった習慣を続け、周囲の供養までしていた。
雪の日に生まれた彼は、雪によって亡くなった。
「引き留めたのは、わたしだよ」
伝えられなかった真実。不器用な愛と不器用な心配りで逆に砕かれた弟の心。仏様になる前に、伝えたかったことを伝えようと、兄が止めたのだ。
兄の想いが、未練だったのだ。
「大切な家族だ。血がつながっていなくても」
「兄者」
「好きに生きていけ」
「あにじゃ」
「愛しているよ」
「あに、じゃ、」
「引き留めて悪かった」
檻が、崩れた。
それから兄弟は、泣きながら抱き合っていた。あの頃の、幼い頃の姿で。
「おまえの笛はまだまだだな」
「おい雪、精進が必要、くらいにしておやり」
どちらにせよ、真言は竜笛をもっとうまくなれ、と言われているわけで、兄のほうのフォローは、真言には逆に苦しいだろう。
「伝えておきます」
真言の目が覚めたら、へたくそと言われたことを伝えようと詠は心にメモをした。
「ぼくが言ったことは嘘じゃないからな」
「うん、きみもできるだけ早く、隠し事は減らすといいよ」
「じゃないとあにじゃみたいになってしまうぞ」
「うるさいな」
幼い兄弟の口喧嘩に、詠は口元を緩めるも、心臓が強く痛む気持ちだ。
「助けていただき、ありがとうございます」
「実際失敗しちゃったけどね」
「あにじゃは前からぶきようだから」
「こら」
わざと、はい、とは答えなかった。お礼だけは伝えようとしたのだ。
あのとき、真言は動かない詠へと走った。詠の身体の下が持ち上がっていたからだ。
が、兄の力でそれは曲がった。その曲がった先は詠のもとへと走っていた真言に鞭のように横っ腹をひっぱたいたのだ。そして、真言が気を失った形である。
「ごめんなさいとも伝えておいて」
「はい」
もう、伝えていないことを残してはいけない。
「では行くぞ、もういいか、あにじゃ」
「ううん、あとはなんだったかな」
悩む兄はのんびりした性格だったようだ。
「まぁ、なにかあったら夢枕にでも立って伝えることにしよう」
それは嬉しくないが、よい知らせならよしとするか。
「またな」
「では」
二人は、檻の網のように伸びていたなにかの先に乗っかって、天へと運ばれていく。今の時代なら、エレベーターだろうか。
弟にくっついていた他の未練も、大元だった兄が昇っていくことでくっついたのかもしれない。どろどろしたものが地面にべちゃりと落ちていたが、それらは檻の金属にまとって一緒に行った。
前回の雪のほうが、よっぽどこの二人に合っている。が、あの檻を作っていたのが絆だとしたら、金属くらいの強い愛であり糸として考えられる。強い絆であり、それはまれに重く苦しい残り物。
「笛、ありがとう」
また助けられちゃったよ、と詠は横たわる真言の頬をやさしく撫でたのだった。
見上げれば、きちんと空がある。さっきまでは星も見えない黒を塗りつぶした空だった。そして塀はコンクリート壁。ブロック塀ではないことから、ここは現世だと思っていいだろう。
「おや、どうしました」
男の人の声でびくりと肩が跳ねる。
「体調を崩しましたか、すぐに救急車を」
おどおどする男の人に、いえ、と伝える。
「泥酔してしまって…… すぐそこのホテルですので、タクシーで帰ります」
「そうですか」
「ところで、夜なのに開いていますが」
「ああ、はい。今夜は泊まりの子がおりまして」
ですがみな帰ることができるようになったと連絡があり、門を開けたという。
「そうでしたか。開いていてよかったです」
「道端で倒れていたら心配されますからね」
門が開いていたから入った、と思ってくれた。そして、ここの子たちは、無事に守れたことをとても安心した。
「私たちも、帰ります」
タクシーに乗るまで見送ってくれた住職さん。親のような存在なのだろう。きっと。




