4.
「まだ終わってなかろうが!!」
父から降ってくるのは強い声。怒られてる、としか思えない。
「申し訳ありません!」
板の長い廊下を、古くなった雑巾で走り回る。朝は一番にお経をあげて、家のなかも、外も、きれいにしてまわる。最後は、父からのお説教。
ぼくの家はお寺。檀家さんが毎日やってきて、父はその人たちにはとてもやさしい目で眺めてお話をしている。
けど、ぼくに対してはそんなんじゃない。ぼくに対しては鬼になる。
ぼくには兄がいた。兄がこの寺を継ぐことになっていた。けど、兄は死んでしまった。流行り病だと聞いた。
そしてぼくがこの寺を継ぐことになった。
その日まで、父はぼくのことなんて目をかけることもなかった。でもぼくが継ぐと決まったその瞬間から、父はとても怖くなった。
そういうものだと思っていた。檀家さんの家の父親も、そういうもんだと。でも話を聞いていて、違うとわかった。
父親というのは、子供に厳しくもやさしくするらしい。ぼくの父には、そのうちのやさしさが消えてしまった。
とはいえ、ぼくも兄が受けていたなにかを知らなかった。長男って大変なんだな、と思うことさえしなかった。家を継ぐのは長男だって、そういうものだって思ってた。
母は厳しい父を注意することさえしない。ほかの僧侶さんも、ぼくに言葉もかけてくれない。ぼくは、兄がいなくなってからやっとわかった。
兄の大変さと、ぼくの不幸さ。
ずっと探してきた。ぼくが幸福になるための方法。
寺ってそういうものじゃないのだろうか。心休まる場所であり、生きる人がほしいなにかを与える場所。
でも、ぼくにはなにも与えてくれない。
ここにいたくないって、思い始めて。でも出られないのは、なぜだろう。
ぼくではなく、僕になり私になり、月日はどんどん過ぎていく。
ずっと信じてきた。父が私に優しく教えを説いてくれることを。
母があたたかい言葉をかけてくれることを。
私が立派な僧侶になればきっと、両親は褒めてくれるだろう、と。
だがそれは崩れた。
私ではないものが、ここを継ぐことになったことを、突然発表された。やさしくそいつは笑ったが、私にはやさしくではなく見えた。あれは、馬鹿にしている目だ。
「おまえは、人から必要とされる僧侶にはなれないと判断した」
父から言われたその言葉は、私にぐさりと突き刺さった。
言われるとおりに動き、言われるとおりにやってきた。
教えを乞い、できるかぎりの努力をし。
なのに、なぜ?
「最初から私は、期待されていなかったのですね」
今までお世話になりました、と頭を下げ、私は寺を出た。
そのあとのことは覚えていない。いや、思い出したくない。世界は狭いのか、私のことはどの寺に行っても知られていて、招き入れてくれる場所はなかった。雑用を数日させてもらうだけで、私は次へと移動する。
後ろに下がると崖なのではない。前に進む道は真っ暗で、そもそも道があることさえわからない毎日。一歩進めばもう、奈落へ落ちるような。
なぜ、自分は期待されなかったのか。
それを考え続け、ひとり生きてきた。山の奥。空き家らしき小屋を見つけ、そこに住み着いた。
誰から聞いたのか、私を寺のものと聞いた住民たちは、たまに私に教えを乞いに来て、たまに供養を頼み、金や食べ物を置いていく。なにもしなくても、山の奥を管理しているだけで感謝の言葉とともに、なにか食べ物をくれる人もいた。
昔からの習慣とは、なかなか離れないらしい。住んでいる場所の周囲をきれいにすることはなくならず、おかげで姿を見た人間は私をありがたがったのだ。それだけは感謝しなくもない。
それから冬の寒さか病かそれともなんなのか、何だか知れない理由で私は死んだ。
生きているものはいつか死ぬ。そんなことはわかりきっていることで、寺に生まれた私はそのまま昇って行けばよかったのだ。
が、そうできなかった。
なにかが私の足を縛った。
私はなにかに引っ張られたまま、どこだか知れぬ場所にとどまることとなった。
「そして、今に至る」
今に至ったその姿はなんだろう。記憶で見た若々しい姿は見えない。ただ、なにか悪いものをはりつけた、人の獣だ。
「で、あなたの足を引っぱったのはなんだったの」
「知らんわ」
「知らない?」
今まではずっと、未練は目的があってそこにあり続けていた。だがこれは、知らない。なになのかを自覚していない。
「どうだ、わしの記憶はどうだった」
「短かった。なんかカットされてるかんじ」
「へんっ おぬしにわしのことなどわかるものか」
わかるわからないの話ではない。カット、と表現したが、都合の悪い部分を切り取られているような、それこそ自覚できていないなにかの部分を、抜きとったような記憶。
詠から聞かされてきた記憶は、もっと重さと長さがあり、どこかに未練につながるヒントが残されていた。
「おぬしはここにいることになりそうだな」
真言はここから帰れない。決めつけられた発言をされた。
そもそもなにに対して未練があるのか自覚していないのだから、断つための気持ちを捧げることも、心に響く歌を伝えることもできない。
にやぁ、と笑う僧侶姿は、もともと寺の生まれとは思えない。
「では」
唄口に口をつける。息を吹き込んだ。
——人生はどこから始まりなのかわからない。後ろを振り返れば思い出はあるけれど、前を向いて歩く理由は見つからない。とにかく、引っ張られるままに生きていく毎日。誰かが大切にしてくれたから、“今”がある
——希望を信じて生きていく。希望が先にあるから、前に進む
——生きていってほしい
——今そこにひとりのあなたは、自分の心の中を誰かに伝えられていない。いつも聞いてきたなにかを口説いてきたあなたは、自分の本心を誰にも伝えたこと、ないでしょう
——途中で諦めたあなたの道を、信じて、生きていこう
——わたしはあなたに期待している。だから、任務をつないで、毎日を生きようと、これからも生きたいと、たとえ今はこんなでも、
——生きていく
——生きていくには、繋ぐには、
ここを出なければいけない!!
真言は息吹を竜笛に込め、音を奏でた。歌詞がなくとも、届くように。
「なんだ、まったく響かぬぞ」
「うん、だろうね」
「どういうことだ」
「おまえの未練はおまえのものじゃないからだ」
「詠さん!!」
バラードなのに、歌は力強く響く。それに合わせて、真言はもう一度、竜笛を奏でる。
詠の顔にはまだ涙の跡がある。だが、表情は決意に満ちている。歌っているのがその証拠であり、檻は内側から悲鳴をあげるかのように押されている。
ぴし、とだんだんひび割れの音も聞こえてくる。実際、崩れてきている薄暗い色の檻。
「な、なぜじゃ! なぜ! 浄化などできぬはずなのに!」
「なんで? できないって思い込んでるんでしょ」
歌い続ける詠。真言は叫ぶ僧侶に言った。
「そこにいたいんじゃなくて、いてほしいんだよ」
「そんなもの、いないわ!」
「それの先、見たことあった?」
「それとは、」
は、と目を見開く僧侶。一度は見たはずだ。足を引っぱったと記憶にあったのだ。
そこには、足には、枷がはめられている。はめているのは、記憶にあった、兄だった。
「兄者……」
「ここを出よう!!」
「出られるなら」
出ておるわ!!
叫んだ僧侶のまわりに大きな檻ができる。地面から何本も生えてくる。もう詠を囲っていた檻はなくなっていた。だがまた足元から太い金属が生えてきて、ぶつかったら串刺しだ。
「詠さん!!」
真言は急いで詠を僧侶から離れるよう引っぱった。詠は自分から動こうとしない。さっきの歌も、もしかしたら僧侶のためであり、詠が“歌えない”と言った理由ではないのかもしれない。
とにかく、助けなければ。
それだけが真言を動かした。近寄れば近寄るほど、足元から生えてくる檻を作る金属は多くなる。まだ詠は立ち直っていない。
恐怖など感じている暇はない。生えてくる檻の一部は僧侶を閉じ込めるためであり、詠を襲うためのものではないが、ぶつかるだけで致命傷。
走る間に何度か身体をかすったが、痛みよりも早く遠くへ助けろ、という意思のほうが強く、真言の身体は勝手に動く。
が、地面に臥せっている詠の下が、びくりと動いた。そこからでは、もう。
真言の手は届かない。
そこで刺されてしまったら、もう。
もう。
「詠さん!!」
生えてくる檻の一部は、天高く伸びていった。




