2.
不思議に思った。寺の隣にあるのはこども園であり、幼稚園ではない。
そして、ブロック塀と言ったが、ここ最近は安全上の問題で、ブロック塀は使われていない。この寺もコンクリートのようなもので囲われている。
言っていることと、見えているものが、違う。
鋭く睨んでくる男は、本当に僧侶なのか。それとも僧侶だったのか。
なんでもいい。
今、もうここからは出られない状況に陥ってしまったわけだ。
「もしかして、これ、未練?」
「うん、そうとしか」
考えられない。
人の姿をして誘ってきたのは最初、詠が祖母に会った時だけ。今回は本物の人間のように、わざわざ自分たちの場所に入れてきた。
と、いうことは。
ここから出す気が、ない。
「なぜ、浄化を嫌がるのですか」
詠が不思議なのはその点もある。
未練が断たれたら、それこそあの世で、彼岸で、天国で、空の上で、幸せに暮らすほうがいいではないか。
「われら未練は、ここにいたくて残っているのだ。それは承知であろう」
「承知してません」
「おぬし、相当な阿呆だな」
——いたくて?
残ってしまう理由があって、もうそれは果たせなくて、“残ってしまった”の間違いではないか。
「ほかのものも集め、強くなり、生きた人間にこの心を宿らせ、果たすのだ」
できなかったことを。
「でなければ、なぜ生きている? わたしは、なぜ生きている?」
生きていないだろう。もう死んだか、それとも心のなにかだけ残ったか、それだけだ。これは、生きていると思い込んでいる、なにかだ。
本人が“われら未練”と言った。つまりこの男は未練なのだ。
「生き死になんぞどうでもよいのだ。とにかく、未練をなくしてはならないのだ。われらは強くなり、終わらせる前に失った身体を得て、終わらせなければならない、果たさねばならぬことがあるのだ」
「邪魔なのだよ!!」
びりびりと二人に響く声。それは泊まっていると言っていた子供にも響いているのか、子の鳴き声も聞こえた。
「こいつらがどうなってもよいのかえ?」
「え?」
人質にしている。これは、子供を、本物の生きた子供を、人質として、取引を持ち掛けている。
「おぬし、未練に触れてもなにもないじゃろう。不思議には思わぬか」
「え?」
「思わぬほどの阿呆か。未練が生者に触れたら、そのものは未練が宿るも同じ。果たすべきことを果たすために、器になって動くはずなのじゃ」
「どういう、こと?」
意味はわかる。これは真言が話していたことと同じ。詠はいつも、器になんてならずに、生きて、帰っている。それを指摘されている。
「おまえ、どこから来た。本当に、この世のものか?」
背筋に走るなにかがあった。
「普通ではないなにかがあるのだ。生者と言えないなにかがおまえの心に同居しておるのだ。だからおまえは、未練に触れても、生きておる」
「詠さん、聞いちゃだめだ!」
真言が止めるも、詠の耳は僧侶の形をした男にひきつけられていた。
「心になにがあるかなんて」
——知らない
——でも
——真言に話そうとして話せないことが、ある
——まだ、伝えていないこと
——尋ねようとしていたこと
——こうではないか、という憶測が本当だったら
——どうしよう
恐れで、詠は、聞けていない。確認できないでいる。
「おぬし、おぬし自身が、もう、未練の器なのじゃよ」
わはははは、と漫画の悪役のように顔を歪ませて笑う僧侶。詠にはもう、その歪んだ声すら入ってこない。
「わたし、うつわ、もう、」
ピィッ
いきなりの音に、耳を塞ぐ。高い音。大きな音。
「詠さん、しっかりして!」
「でも、わた、し」
「詠さんに見えていて、僕に見えないものはある。でも、」
「でも、わたしには見えてる、記憶、知らない人の、残した、心。わたしは、」
「ここに生きてる!!」
「もう、うつわ、だって」
「器だったら、未練を断つための行動なんかしない! 惑わされちゃだめだ!!」
「詠さんは、器じゃない! ちゃんと、生きている人間だ!!」
詠はそこで、真言の言葉を信じたわけではなかった。だが、器でもそうじゃなくても、関係ない、と思った。
未練を断つ。そのために、誰かの未練が、詠に宿ったとしたら。
そのために、動いている自分は、詠は、
「間違っていない!!」
真言の叫びに、
ち、
男は舌打ちをした。
さぁ、これからどうするか。
数人子供がいるというのはきっと間違いないだろう。とすれば、巻き込むことはできない。巻き込んだらその後、を考えさせることで、自分の企みを成功させようとしている。それに乗ってはならない。
うまくいかない可能性が出てきたからこその舌打ち。詠は危うく入るところだったのだが、それを止められてしまった。
ここは。どこなのか。
前回では、この世とあの世の境目に詠は言った。真言もそこに一時はいた。常世に。今は、ここは、どこなのか。子供がいるならこの世だが、それを確認はできない。この男がいることも証明にはならない。
詠が何度か話したように、なにかの線を越えてしまえば、きっとそこからこっち側には帰れなくなる。
——どうする?
ここの線はきっと、この寺の塀。外から見たときはコンクリートの壁だったが、内側から見るとブロック塀。
ということは、もうここは、この世とは違う場所になるのではないか。手や、蔦や、泥や岩や、いくつものなにかに出会ってきたが、まわりの人間には見えないもの、場所。
「詠さん、やって、歌って!」
「歌えない」
「え」
「だってわたしは、未練、だとしたら、もう、これをやったら、消えちゃうよ」
「そんなことないって、あの男の話は聞いちゃだめだ」
「私は!! 生きていたいの!!」
ならなぜ、命を削る行動をしているのだろうか。真言の心のなかで反芻する質問。
詠はたとえ未練が自分に宿っているとしても、自分の行いは間違っていないと考えた。さっきの叫びは本心だ。ただ、もし宿る未練が行いのなにかだとして、終わってしまったら、器の詠は死んでしまうのではないか。そうも考えてしまった。そして、
「生きてるのに、生きてないなんて」
わかんないよぉ、
すっかりあの男のペースに巻き込まれてしまっていた。もしかしたら、なにか思うところがあるのかもしれない。だがここから出るには、詠が歌うしかないのだ。
自分の不甲斐なさに、真言は辛く、苦しくなる。
男はうまくいったとばかりに笑っている。
「では、ずっとそこにいればいい」
ブロック塀は、細く伸びて檻になった。まるで鳥かごのように、詠を包む。外から見える姿は地面にへたりこんで、涙を流す詠の姿。任務の帰り、車の中で目覚めた詠が外に出して、とパニックになったときのような、出たいという意思など微塵も見られない。
「詠さん!!」
檻を外からつかんで叫んでも、まったく反応なし。
なぜ、自分はこの檻に入らなかったのだろうか。もうひとつ、疑問がわいた。
いつも影に触れるか共感するかで、詠は記憶を得てきた。今の詠にはその気概がない。なにもできない。この男が心配していたのは、詠だけだった。
真言は、なにもできない。
未練を失くしてはならないのではない。失くすということは、きっと。
思い残したことを、忘れられてしまうことを恐れているのだ。




