3.
目が覚めて真言が思ったのは、知らない匂いがする、ということだ。そして、住んでいるアパートとは違い、フローリングであること。真言の部屋は畳なのだ。
起き上がると、見覚えのある景色。ここは詠の家だとすぐに気づく。そして詠はいない。だが焦ったのは一瞬だった。今日は月曜日。詠は仕事に行ったのだ。
テーブルの上に、メモが置いてあった。
『朝ごはんにどうぞ。お風呂もどうぞ。学校には必ず行くこと。具合が悪くなったら連絡すること。水曜日に話し合いにしましょう。いってらっしゃい』
朝ごはんに、というのは一緒に置いてあったコンビニのおにぎりだ。インスタントの味噌汁もおわんと一緒に置いてあり、隣にはポットがある。準備万端だ。
学校には必ず行け、と書いてある。が、もう一限は終わっている時間だった。もともと午後からのため、一応行くことにする。
具合が悪くなったら、というのは真言から言いたい言葉だ。前に連絡をくれなかったことはしっかりと覚えている。
水曜日に話し合い。聞きたいことがお互いに、の件だとすぐわかる。水曜は全休と伝えてあるから夜に来いということだ。
よく考え直すと、女性の部屋に夜にお邪魔するのはどうなのか、と思ってしまう。昨日、そんなことする人間でないことを肯定されたため、心配はないのだが、もう少し危機感を持ってほしいと思ってしまう真言である。
そして“いってらっしゃい”。じんわり胸に湧いてくるあたたかいものはなんだろうか。
メモの内容すべてに、詠さんはお母さんですか? とつっこみたくなる。
とりあえず、用意してくれた朝ごはんをいただいた。お風呂は勇気が出なくて借りずにおく。学校へそのまま向かおうとすると、靴箱の上に鍵があった。硬貨も一緒だ。
『駐車料金受け取って』
いつも駐車料だけは必ず出してくれる。自分のせいで使うことになっていると詠は思っているからだ。ありがたく頂戴するが、それよりも問題は鍵だった。
家の鍵も一緒に置いてある。それはいいが、閉めた鍵をどこに置くのかのメモがない。そしてこの鍵はマスターキーで、会社と番号を使えば合鍵も簡単に作れるのだ。真言は頭を抱えた。
よく小説にあるように、ポストに鍵を入れる方法。正解ではないだろう。不用心だ。だが今回は悪いのは真言ではない。連絡をしておくことにする。
「いってきます」
かちゃ、と鍵を閉めて、誰もいないことを確認するとポストに鍵を落とした。かちゃん、と金属と金属が触れる音がする。
まるで家族だ、と真言は思った。わざと家族にした。
心の奥底では、小説のように恋人に思っていたが、自分たちはそういった関係ではない。
詠はだいたいいつもどおりに仕事を終わらせることができた。真言も午後からの講義を無事に終えている。お互い、月曜火曜はだいたいいつもどおりに進められている。
そしてやってきた水曜日。
詠は夕飯の支度をしていた。今時の若者がなにを好むか未だわからずに、とりあえずカレーを作っている。匂いだけでおなかがすくのはこれだ。小学生も大好きな献立。大学生がどれだけ食べるかわからずに、スーパーで出来合いのカツを買っておいた。
煮込みながらサラダを作っていると、呼び鈴が鳴る。
「入ってー」
鍵を開けて、少しドアを開いて本人確認。チェーンを外す音がしっかり聞こえるよう大きく動かしてからの言葉だ。
「はい」
こういうときだけ敬語になるのがやはりおもしろい。お邪魔します、と上がって来た真言に手洗いうがいを言いつけ、座ってもらった。
「ごはんまだなら食べてって」
決めつけてしまっているが、現在六時半。ごはんについては正直どっちでもいい。詠とすると、食べながらのほうが今回は話しやすかった。自分の誤りで真言を困らせたことはわかっている。目の前で頭を下げたいところだが、真言はそれをも嫌がるだろう。詠の寿命やら命やらを気にしているから。さらりと伝えたかった。
「ありがと、匂いでおなかすいてきた」
「ごはんの量わかんない。ルーも両方好きな分よそって、遠慮せず」
遠慮せず、を強調するのは、真言はとても強引に任務に誘ってくるくせに、へんなところで遠慮がちだからだ。
真言がよそったお皿にぽんとんかつを乗せる。あたためてトースターで焼いたカツはぱりっとしている。
「「いただきます」」
スプーンを動かし、箸も使う。ほんの数十秒は、それだけだった。
「こないだは、迷惑かけて、ごめんね」
スプーンを持ったままだが、詠は口に運ぶ前に謝った。真言を見ることはなぜかできなかった。謝るときは、きちんと相手を見ないといけないのに。
見ることができたのは、小さな音がしたからだ。視線をあげると、箸だけは口元にあるのになにも挟んでいない。カツがひとかけら、落ちた音だったらしい。
「え、なに、迷惑って」
「ほら、間違ったから、やりなおしで、別れちゃうし、なんというか」
心労を増やしてしまったことを謝りたかったのだ。
「いやいや! 気にしないで! ほら、無事にこう生きてるしさ」
「あと、ありがとね」
「今度は、なにが?」
「まこくんの、音? で、帰り道、わかったから、さ」
あの和楽器らしき音がなければ、詠は帰れずにあそこにただひとり、残っていただろう。
「謝られたりお礼言われたり、忙しいな」
「だって」
「どっちもいらないよ、だって僕がすべきことを詠さんにおしつけてるわけだし」
受け取ってもらえない、というのはこんなにも苦しいのか、と詠は実感した。
「え? え? ちょ、詠さん?!」
「ん?」
「なんで泣いてんの?!」
「え?」
詠は自分でもわかっていなかった。泣いていることを。
「あ、あれ?」
スプーンの代わりにティッシュを掴む。ほんとだ、泣いている、とやっとわかった。ティッシュが湿っている。
「ううん、なんでもない」
「なんでもなくないでしょ!」
「ううん、なんでも」
押し付けたいのは私のほうだ、と詠はわかった。
ごめんなさいも、ありがとうも、相手に伝えることで自分がすっきりしたいのだ。
「ねぇ、ところであの音は、なんだったの?」
どう考えても話題転換なのに、真言は乗ってくれた。どう見ても、納得はしていないが。
「あれは、竜笛」
「りゅうてき。笛?」
「うん。雅楽とかで使われるんだけど、音楽の支え? みたいな役目をしてるらしくて」
「へぇ」
「これで任務ができないかと思って、習い始めたんだけど」
「あ、昔からやってたんじゃないんだ」
「その、喧嘩してから、けっこうすぐ。できること、見つけたくて」
できることを、真言もできる限りやっていたのだ。
「なんで竜笛選んだの?」
「かっこいいから」
小学生のような回答だった。日本楽器だと、他にいくつもあるだろうに。
「支えのお仕事する楽器を選ぶところ、なんだかまこくんらしい」
「僕は支えをする役割のほうが合ってるのかな」
「私は支えられてばっかりってことだね」
「あ、そういう意味じゃなくて」
——人のための仕事をできるってことだよ
「私、あの音なかったら、帰ってこられなかった。声じゃなくて、耳も大切なんだね」
「そうなんだ」
「あの人が教えてくれたの。電車で昇ってったよ。ほかのも、雪になって」
なにがあったか伝える。それで、真言が知りたかった“間違えた”ということも伝えられた。
「解釈間違えると、うまくいかないってことか」
「そうみたい」
「僕はもうほとんど見えないし聞こえない。できることなんて」
「また、支えて。呼び戻して。知らない歌かもしれないけど、竜笛で、支えて。勇気もやる気も出る。こないだみたいなことがあったら、こっちだよって、教えて」
——それが、まこくんの本当の任務なんだ
あげることだけじゃない。誰かと一緒になすべきことをする、誰かを支える、それが真言に与えられた任務であり、方法なのだ。
詠はたまたま、その相手役になっただけなのだ。
「私の命が削られるって話、あったけどさ」
「……うん」
「まこくんはあの笛吹いて、同じにはならないの?」
とても疲れていた。詠と同じ症状に思うのを伝える。
「もしかしたら、そうかもしれない」
「なら」
「やめろって? やめないって言った自分が言う?」
「言えなかった」
「でしょ!」
二人で、命尽きるまで。
この世に残された未練を断って、できる限り、やっていくと決めた夜。
「たださ、お願いがあるんだけど」
「うん」
「ああいうホテルには泊まりたくないな……」
ぼん、と真言が火をふいた。小さく、ごめん、と聴こえた。真言が悪いのではない。あそこしかなかったのだから仕方ないのだ。それでも、恥ずかしさでいっぱいだ。
今度は真言が難しい顔で、カツを口に挟んだまま斜めを見て言った。
「平気で自分ちに男泊めるもの、やめてね」
そういう話題だったため、今度は詠が火をふく番になったのだった。
ただ冷めてしまったカレーをふたりでもくもくと食べた。このあとは泊まって行けば? と聞こうと思っていた詠だが、その台詞は言えなくなった。詠としては、いつも運転してくれて終わった後の処理をしてくれる真言へのお礼のようなものだったのだが、それは本人に断られ、できなくなってしまった。
「そういえば、あの踏切のとこなんだけど」
「踏切あったの?」
「なかったんだけど、あったというか」
「どゆこと?」
「二人で常世に行ったときになんか触れたでしょ」
「ああ」
「あれね、雪国によくある、道のはしっこがわかるポールみたいなやつだったよ」
「あ、それだったんだ」
たったそれだけ。神社でも寺でも地蔵でももう、なんでもない。なにかをわけるなにかだったのだ。
「分かれ目がある場所、なのかもしれないね」
聞きたいことを詠はだいたい聞くことができた。常世についても聞きたかったが、もうそういう雰囲気ではない。今度にする。
が、話そうか悩んでいることを、話せなかった。
真言は、ちゃんと話してくれたのに。
また別れて行動することになったら。
誰かがいることの安心感。
死にそうなときに届く糸。
ひとりはなりたくない。どうすればいいか、悩んでいる。




