1.
——やってきた電車は、きっとこいつを乗せて、連れていく。今回もこれで任務完了
ばさ、
電車が崩れる。連れて行ってくれるのは、電車ではなく雪なのだろうか。どちらでもいい、と詠は思った。彼が無事に昇れるなら。
だが、おかしい。雪は降ってくるものだ。昇っていけるのだろうか。もともと空の上になったのだから、ここはこの世ではないと真言も言っていたし、巻き戻して上にいけるということだろうか。
彼を見送れば、きっとこの作られた世界も消えるだろう。詠はそれを待つだけだ。
「詠さん!」
最近多く聞いた、真言のせっぱ詰まった声。
——え?
電車が、本物の電車が、目の前を通り過ぎた。本物とわかったのは、世界に色が、人が、建物が、できたからだ。
「え?」
——え?
「失敗した、みたい」
「急に姿が出て、それでレールの上に押し出されるみたいにつんのめったんだ」
そこを真言が止めてくれたという。そうでなければ。
「あ、ありがとう」
目の前を通り過ぎた電車の勢いと音と、すべてに恐怖する。命が縮まっても、と思っているはずなのに、怖いものは怖いらしい。
「なんで、うまくいかなかったんだろう」
「わかんない」
真言に見た記憶を話す。詠の視線で思ったことを、真言はどう捉えるだろうか。
「そもそも入って来た記憶がなんか別なのかな」
この世もあの世も常世も、なんだかわからないがすべてが存在している。ここはこじれている。
「そういえば、ここのなにかに触れたら」
「待って、触ったら」
指先になにかが触れた瞬間、また、雪と電車の世界になった。
「うそ、なんで」
真言の姿も見えない。ここへの扉は、あのなにかだということだけは確信した。だがここから出る方法がわからない。
何度も電車が通り過ぎる。それは白黒で、水墨画の電車だ。本物ではなくとも、ここにいる詠は多分実態がある。とすればきっと、あの水墨画の電車に轢かれたらアウトだ。
いたくなかった場所から出て、好きなことをやって。
帰省したら不運にも他界してしまったが、絵描きにはなれなかったが、行きたいほうへ、電車が連れて行ってくれると、思った。
それで歌ったのに。
なにが、違うのか。
単線で踏切のない渡りがあるような田舎のここではありえない回数で、目の前を電車が通り過ぎていく。
ずっと、ずっと。
——あれ
見ていて気付いた。電車は、ずっと下りだ。
——もしかして、逆?
——彼は、帰ってきたかったの?
どこに進んでいくのかわからなくなってしまった彼。まわりにはまばゆい光を放つ人材がいくつもいて。
何度描いても何を描いても、これだというものにたどり着けない。
せっかく光の方向に出てきたのに、突然真っ暗になってしまった、未来。
生きる理由が欲しかった。
それで、戻って来たかった。
戻りたかった。
会いたかった。
プロになれると言ってくれた彼女にあの場所で会って、勇気をもらって、仮宿に戻るための理由が、生きるための、なにかが、
考え始めて、だんだんと彼の心が別にあると思い始める。違うなら何度も試せばいい。とにかく当たって砕けろ、と歌うために考えを巡らせていた。
もう途中から、歌い始めていた。
彼の居場所は、あっちではない。
ここだったのだ。
彼の出発時点であり、彼女がいる、彩月がいる、ここだった。正確にはここだかわからないが、とにかく、彩月と雪と電車がある、ここだった。
なのに、別れを告げられて。
手帳に入れていた彼女の肖像画。美しいそれを追いかけて、また聞きたい声に耳をすまし、たとえそれがプレッシャーになったとしても、彼は進み続けたのだ。
——おつかれさま
——あなたの居場所は、ちゃんとあるよ
想いを込めて、二番から、歌い切った。
「帰らなくて、ごめん」
日本は思った以上に広かった。俺はうまいと思っていたけど、そうでなかったと思い知った。まわりには俺よりうまくて惹かれる絵を描くやつらがたくさんいた。
おまえがあの肖像画につけてくれた星のシールは、俺の初めての勲章だった。失いたくなかったんだ。
帰る場所があるって、いいことだな。
今は行くべき場所があるんだ。
行ってくるよ。待ってるよ。何十年でも。
彼は、雪の電車から降りて姿を現した。水墨画の色のままだ。
「色がつくのは、あいつと会ってからがいい」
彼はもう一度電車に乗った。ただ足をかけただけだ。雪と思っていた薄黒いものは、他の未練だった。電車は空へ、すべてを連れて、出発した。雪はやっぱり、上から下ではなく、下から上に降っていく。
「おーい、俺に大切なモンの一番は目だが、おまえは耳を使えよ」
墨汁の空へ、消えていった。
雪がなくなる。
なにもなくなる。
真っ白の世界。
どうやって帰ろというのか。てっきりこれでこの世に帰ることができると思っていたのに。なにも変わらない。人も見えない。それこそ、彼が書いていた白いキャンバスの世界になってしまった。
電車の音すら、聞こえない。
——音?
彼は耳を使えと言った。記憶を見るのには目を使ってきたが、耳からは音が入って来た。もうひとつ、記憶があるというのだろうか。
とにかく、音を探す。
~~
細い音が聞こえた。和楽器のような、音。これは、笛かなにかだろうか。詠は音の根源を探す。だが、音が出るようなものはない。
この世界は真っ白で、すでに足元も見えない。なにかに浮いているような感覚だ。
なのに歩けるのが不思議で仕方ない。
~~
音は聞こえる。
「どこ?」
——帰りたい、怖い、帰して、まだ、
——生きたい!!
しゃがみこむ。もう、なにもない世界を視界にいれたくはなかった。そこでなにかに当たる。
かしゃ、
音は硬そうだが、触ってみたのはふにゃふにゃしたなにか。持ち上げてみる。
白い世界に、色ができた。
ぱあ、と光ったそれは、カラフルな絵だ。右端に、サインがある。
——あ
~~
音が強くなる。色が、ふにゃふにゃの紙から漏れ出て、波を作った。線になり、どこかへと導く。まるでオーロラ。
とにかくついていく。
走って、走って、走る。
こんなにあの場所から離れていいのか、わからない。でも、ついていくしかない。
だんだんと大きくなる、笛の音。
ぷつん、と糸が切れた。
そして切れた場所には、星のように光の粉が散っている。
——あそこだ、
詠はそれが消える前に、手を伸ばした。
「詠さん?!」
「あ、出られた…… のか」
自分は倒れているらしい。真言の顔が横に見える。あれだけ懸命に走ったのだから、それは疲れて当然だ。
「うまくいったよ」
にこ、と笑えたかわからない。
ただ、手に持っていたものはもうなかった。詠が一回目も二回目も触れたのは、道祖神のような石なのか、誰かが作った像なのかわからない。確認する前に、詠の視覚も聴覚も、途切れて消えた。




