3.
呼べるわけがないだろう、わたしも約束を守れなかったのだ、と駄々をこねる子供のような老人。
詠は佐知代に会いたい気持ちをそのまま足跡にこめ、天へ呼ぶ。
「佐知代さ—————————ん!!!」
大きな声で呼んでいた。
「ここにいる旦那さんのお迎え、お願いしまーす!!」
来てくれるかわからないのに、夜空に向かって呼びかける。すると、博史ではない足跡が、詠のまわりにまとわりついてきた。
——あ
なにかしらの未練。病院にいるとしたら。生きたい、会いたい、あんなことをしたい、未練などいくつも考えられる。そのうちにある、会いたいに当てはまる未練が、詠に訴えている。
自分の会いたい人も、連れてこい、と。
これはまずい、と詠は思った。これでは全員を呼ばねばならない。佐知代のことはわかっているが、他のものはわからない。まだ生きている可能性だってあるのに、連れてくることができたとして、それは死なせてしまうと同意義になってしまったらどうすればいいだろうか。
ぺんぺん、ぱんぱん、
なにかがはらってくれた、足跡。
「まったく、いつになっても頑固ですね」
記憶で見た、佐知代さんだ。まだ若い、会ったときの姿。
「佐知代!」
嬉しそうに名を呼んだ博史は一気に若返る。が、すぐに顔を背けた。
「合わせる顔がない」
「待っていたのにそんなことをおっしゃるの?」
「合わせられないのだ」
「あなたは先に死んでしまったのよ。私に笑顔を見せられなくて、当然でしょう」
「約束を守らない男となんて」
「じゃ、私はあっちで他のかたと一緒になります」
「え!!」
「合わせる顔がないのでしょう? ならもう会えないのですから、私は好きにさせていただきます」
「待ってくれ!」
「今まで喧嘩もしましたが、いつもあなたの言葉に負けてしまって、悔しかったのです。今回は私の勝ちですね」
「待ってくれ!」
「博史さんが約束を守らなかったと自分でおっしゃるのですから、そうなんでしょうねぇ。合わせる顔がないのなら、もう会わないのですし」
「悪かった!!」
がばっと土下座をするように、立っている腰を九十度に曲げた。
「佐知代の笑顔を見たかったんだ、なのにおまえが泣いてばかりいて、見せてくれなくて、それで、わたしも見せることなんてと意地を張って、だから、そっちに行かずにだな、でも、他の男とそっちでなんて」
泣き始めた、博史。
「お願いだ、やめてくれ……」
「あら、ほんとに初めて私の勝ちだわ」
ふふふ、と笑う佐知代。
「博史さん、こっちを見てくださいね」
博史が顔を上げた。そこには、佐知代の勝ち誇った顔があった。
「笑っています」
「ずいぶん意地の悪い笑顔だな」
「あら、やっぱり」
「待った! だめだ、約束は守ってもらったから!」
「そうね、最期は笑顔でお別れでしたもんね」
「そう、そうだ!」
「でもお別れじゃなくて、再会ですね」
「そういえば、そうだな」
「あのね博史さん」
「ん?」
「大切な人がいなくなるとき、笑っていられる人なんて、ほんのわずかだってこと、覚えておいてくださいな」
「そういうものか? 約束してもか?」
「上から見てみましょう、わかりますよ」
「約束したのに?」
「泣いてくれる人がいるっていう幸せを、しかと感じてくださいな。約束はもちろん覚えていました。笑おうとがんばりました。でも、できないときも、あるってこと、あなたにはしかと見ていただきます」
「そんなことがあるのか」
「ほら、だから確認に行きますよ、あっちへ」
佐知代が見上げたのは、空だった。星が光っている。まるで、涙だ。
「では、戸惑っている足も、一緒に行きましょう」
さようなら、と佐知代と博史は他の足跡と一緒に、空に歩いて行く。
「ずいぶん力強い奥さんだったなぁ」
記憶で見たのとは印象が違う。それに、喧嘩をしたことはあったらしい。
だんだんと、足元の足跡が減っていく。上へと向かっていく。強かったわけではなく、今回ばかりは詠が選んだやさしさのある未練。でも、未練を断った二人についていっている。
意地を張って残っていても、なににもならないと、あの二人の会話で悟ったのかもしれない。
そして減っていった足跡。足元はどんどん揺れていく。最初のときとは別の意味で。落ちる、詠は上に行ってはいけない。下りなければ、まだ、足跡が残っているうちに。
ぐぎ、
詠は落ちた。どれだけ高い場所だったかはわからない。
気が付けば、博史の記憶と同じく、知らない天井があった。もう日付が変わっている時間だ。目が覚めるのはいつもよりずいぶんと早い。
「詠さん?!」
起きました、とどこかへ連絡している。なぜこんなに早く目覚めたのだろう。
——痛っ!
足に痛みが走った。落ちて、怪我をしたとわかった。この痛みが、睡魔に勝って目ざめさせたのだ。
「詠さん、ひびいってるそうです」
「そっか」
ひびで済んでよかった、と思っていた。
「すみません」
「?」
——なぜ謝られてるんだろう。それに私はなぜ、真言を追い出さないの?
「僕がいたのに、助けられなくて。結局、受け止めるのに失敗して」
「いや、助けられたよ」
足跡を選ぶとき。質問にも答えてくれた。おかげで、わかった。逝けない理由。
「ありがとね」
——痛くても、笑えるんだな
詠みは自分でわかる。今、笑っている、と。
心は、佐知代と男女逆転劇だ。意地を張っていたのは、詠のほうだったのかもしれない。
ひとりでできる、と思いながらも、ここに彼がいたら、と何度思ったか。
「泣いてます?」
「痛いの」
そういうことをまっすぐ聞いてくるとは、ずいぶんと気遣いのない男だ。
「また」
こういうときは、大人の詠から言うべきだ。
「一緒にやってくれる?」
「え」
「私は、覚悟はできてるよ」
できていないのは、真言のほうだ。これは、絶対、間違いない。
「私は、これからも続ける。それは変えない。変わらない。でも、心細いから、いてほしい。もしまこくんがいてくれないなら、それでいい。私はやり続ける。だから結果は変わらない。まこくんが心配してることは、必ず起きる」
支えてくれるのか、しないのか。
どちらにせよ、詠が続けるなら、寿命が縮むも命が削られるも、いつかはやってくることだ。
「……」
真言はすぐに答えを出さない。
こういうとき、すぐに返答できないということは、覚悟のない証拠。真言は、逃げている。目を背けている。まだ、今も。
「ま、よく考えて。若いんだから、時間はたくさんあるしね」
そこで看護師か医師がやってきて、怪我の手当をしてくれた。詠は今は寝ないでくださいと言われ、なんとか従って、やっと手当が終わってからこてんと眠ってしまったのだった。
この病院では、足跡を見る人がいたという。影が動くように、誰もいないのに。それはもうすぐ死ぬ人間にだけ見える、と噂が流れていたそうだ。
だがそれも、なくなった、夜。
これから見るとしたら、足跡を導いてくれる、二人の口喧嘩かもしれない。
——よかった、約束、二人とも、叶えられたね
——遅くなったけど、それでも
——よかったね




