2.
「安心してくださいね、私がいますから」
佐知代が涙を流しながら、手を握っている。わたしの、手。
わたしにはもう、言葉を発する力はない。
「博史さん、」
涙ばかりだ。なぜ、涙なんだ。
約束したではないか。あのときに。
わたしたちは、見合いで結婚した。お見合いおばさんに紹介されてだった。一目惚れしたのは、わたしのほうだ。
佐知代はわたしの六つも下で、若々しく、かわいらしい笑い方で、頬を染めて下を向く姿にぴんときたのだった。
この人をわたしの妻に、と。
結婚を申し出たのは、何度会ってからだったろうか。早いうちだったと思う。こんなに素敵な人なのだ。早くしなければ他の男にとられてしまう。そんな思いがわたしを動かせ、そして佐知代からは考える時間がほしいと言われた。
その間は大変長かった。とはいえ、数えてみれば、一週間も経たなかったと思う。
結婚した。幸せでいっぱいだった。白無垢の佐知代の姿は大変美しく、言葉を無くしたわたしを、佐知代が心配したくらいだ。こういうときはなにかしらの言葉をかけるものらしい。わたしは苦手だった。
子供はもうけなかった。いや、佐知代の身体がそれを嫌がったらしい。子供がいたらと考えると、それも嬉しいことだ。だが、佐知代と一緒にいる時間を子供にとられてしまうと考えるとそれも辛かった。どちらがいいかは答えが出ない。
どちらにせよ、わたしにとって二人でいられる時間が幸せであり、十分で、親族には陰で文句を言われたがまったく気にならなかった。わたしは。
だが佐知代が気にしていた。女は子供をもうけるのが当たり前であり、それで家計を継いでいくのだから。おかしいのはわたしのほうだったのだろう。どうでもよい。一緒にいられれば。
佐知代の笑う顔はとてもかわいらしい。いくつになっても。わたしに見せてくれるそれと、わたし以外に見せるそれに違いを見つけたときは心が弾み、いいことでもあったのかと言われるくらいの喜び方だったようだ。
歳を重ねても変わらない笑い方。ずっとそれを見ていたい。
そして、それを最期に見たい。
そう思ったのは、自分の身体が思い通りに動かなくなったころだった。いつか死ぬことはわかっていることだ。先生、と呼ばれる立場だったわたしは、それを受け入れていた。
どうやらわたしは、病院に入院することになったらしい。気が付けば知らない場所に寝ていた。ずいぶんと新しい見目で、自宅とは違う場所だった。
いつも敷布団で寝ていたのに、どこか高い場所に視線が向く。これがべっどというものか。
そんなことを考えていたら、気づくのが遅くなった。手がなにかに触れていることに。
「佐知代……?」
喉はからからだった。が、名前を呼べることがこんなにも嬉しいとは。
「博史さん!」
そして名前を呼ばれることが、こんなにも嬉しいとは。
佐知代はわたしのことを「あなた」ではなく名前で呼んでくれる。
「そうか、わたしは死ぬのか」
「気が早いですよ」
はいともいいえとも言はない答えは、多分そういうことだとわたしは思った。
「わたしとの約束をおぼえているかい?」
「もちろんです」
だから、今もそんな顔をしているのか。さすがわたしの妻だ。
「嬉しいなぁ」
数年前だったろうか。親戚が亡くなり、わたしもいつかはと考えたとき。佐知代とひとつ、約束をしたのだ。
覚えてくれている。だからきっと、わたしは安らかに逝ける。
それを信じて疑わなかった。
気が早い、という佐知代の言葉は合っていた。もっと佐知代と伴にいたい、という気持ちは命を長くさせたようだ。もしも身体が動く力が残っていたら、論文でも書けたのに。気持ちの持ちようは寿命に変わると。
だがいつしか来る、そのとき。
気づけば周囲に白衣の先生たちがいた、なにか話しているようだが、もう聞き取りにくい。そうか、もうそんなときになったのか。
佐知代がなにか話している。そしたら、白衣の先生たちはいなくなった。二人きりにさせて、とでも言ったのだな。
妻もわたしを大好きなのだ。
嬉しくて仕方ない。
ここで初めて目が覚めたときのように、佐知代はわたしの手を握っている。
涙を流した顔で。
なぜ、泣いている。
なぜ、涙の顔なのだ。
約束は、どうしたのだ。
わたしとの約束など、どうでもよいのか?
「博史さん、」
何度も名前を呼んでくれる。が、約束は守ってくれない佐知代。
「さち、よ」
最期の言葉は、最後まで言わせてもらえなかった。
名前を呼ぶだけで、わたしの寿命は尽きてしまった。
約束を守ってもらえなかったこと。
ここに博史の未練が残っているのは、それが原因だ。
見た目もなにもかもが違うここだが、呼び寄せられたかなにかで、ここに至ったのだろう。詠はどうすればこの約束の内容を知ることができるのか、考える。
記憶は、最期に見た佐知代の泣き顔で切れてしまった。
どうすればいい、教えてくれる人は、博史しかいないのだ。
——仕方ない
「まこくん! 死ぬときって、愛する人のどんな顔、見たい?!」
「はぁ?」
真言に問いかける。浮いている詠が落ちたらどうにかして受け止めるためなのか、真言は詠の真下にいる。
「さっさと答えて!」
看取ってもらえたのだから、それで十分幸せなことではないか。あれだけ想ってもらえるなら、嬉しいことではないか。
だが、約束というのが守られていないことが、博史の未練であり、ここに残る理由なのだ。
性別が違う詠。男性と女性では考え方が違うとも聞く。今聞けるのは男性である真言だけであり、悔しくもそこにいるのは真言だった。
「なんかものすごくフラグっぽくて答えたくないんだけど!」
「いいから答えて!」
「きれいな顔!!」
きれいな顔ってなんだよ、と詠は思った。万が一にも当たっているとしたら、博史にとって佐知代の綺麗な顔とはどんな顔になるのだろう。
はっとした。
博史は佐知代に一目惚れした理由。何度も思ったこと。
それは。
ずっと変わらない、
かわいい、
笑顔だ。
「ありがと!!」
詠は歌を見つけた。
だんだんと歳を経ていく夫婦。幸せに旅立つための約束をして、幸せに旅立っていく歌詞。
——きっとあなたは見たかった。大好きな、佐知代さんの笑顔を
——あなたが佐知代さんとした約束は、最期のときに笑顔を見せて、という内容だったのではないでしょうか
——先に逝ってしまうあなたには、どうして約束を守ってくれなかったのか、わからないのですね
——約束したことを守らない、ということは、きっとないと思ってるんですね
——守れない約束は、約束ではないですもんね
——でも、考えてください
——あなたより先に佐知代さんが亡くなることがあったら、あなたはどんな顔をしたでしょう。笑っていられますか? 大切な人の最期の日に。笑っていられると思いますか?
自信が、ないな。
足を支えてくれている足跡から脳内に響く声。しわしわのおじいちゃんが話すような声。
——ああ、これが博史さんか
——あなたはこうして他の未練から私を守ってくれています。もう、答えはわかってるのではありませんか? 会いに行きましょうよ
そうだな。
だがなお嬢さん。
佐知代もここで死んだんだ。なのに会えなかったんだ。
わたしも約束を、果たせなかったんだ。
なのに、一方的に会いに行きたいだなんて。
そんなこと、言えないんだよ。
男の人って、めんどくさいな、と思ってしまったのは、博史さんに通じてしまっただろうか。
理屈で話す男性と、感情で話す女性。
喧嘩をしたことすらないんだろうな、と詠は思う。一度でもしたことがあれば、佐知代の気持ちを考えられたかもしれないのに。
ただこれは確実だ。
だだをこねているのは、固執しているのは、博史のほうだ。
もう一度、見たいんだ。
佐知代の笑顔を。
——それなら、会いにいけばいいんです
——会いにいってください
合わせる顔がないんだ。
まとまらない会話。
歌いながらなのに、なぜ会話ができているのだろう。
——めんどくさい!
——佐知代さんを呼べ!!
爆発したのは、詠のほうだった。




