5.
無事に終わった。足元の沼が消えているのが証拠だ。遅くなったが、崩れた岩と上履きに手を合わせた。
時代がいつだったかは、記事を読んだ詠はわかっている。なのにまだ、このトンネルがあるのを見て、確信があった。ここだ、と詠は思っていた。
神様も仏様もなにもない、それだけが違うことだったが、今までとは違ったのだ。ここに未練をいさせたのは生きた人間だったのだから。そこに他の未練が集まったことで、このトンネルは危ないと言われても古くなっても、なぜか存在している。
最後のことは、後ろにいる真言にも見えていないことは聞いている。だから、話さないし話すつもりもない。今回はたまたま会ってしまっただけで、真言は詠を止めてきたくらいだ。なにがどうして、など伝える理由などない。
「終わった。帰るね。まこくんも気を付けて」
「歩けるの? 大丈夫なの?」
「大丈夫!」
本当はそこまで大丈夫ではない。前回同様、今回は優しい未練で易しい任務だった。場合によって、疲れや眠気の程度が違うことを伝える義務もない。
ただ、いくら優しくても易しくても、どちらにせよ送ったあと、眠気は襲ってくる。だからこそ近くに車があって、車中泊のための道具まで買ってあるのだ。
「私は車で寝るから」
暗くなったとはいえ、まだ夕方六時くらい。でももう寝たいと、寝かせろと、詠の身体が訴えている。横になればもう終わりだろう。こんな森のなかでひとりというのは怖い。詠はちからと違い、幽霊もおばけも信じている。神様も仏様も、そういったオカルトだったりスピリチュアルだったり、言われるものを信じる質だった。
だから本当は、すぐそこに、人ひとり亡くなった場所があるここに、夜ひとりになるのは怖い。いくら、あの子が優しい子でも。寄ってくるというから。
「じゃ」
またね、とは続かない。またがあっては困るのだ。今回も予定を狂わされ、詠は違う点での疲れがあった。会いたくない人に会う、というのはこんなにもストレスになるとは思っていなかった。
そこまでふらふらとしていた覚えはない。約二百メートルの距離が長い、と思っていたくらいで、出れば車、すぐ寝られる、それだけの気持ち。
なのに真言が支えようとしてくる。
「いらない」
詠は押しのけた。支えが必要では、これからもだめなのだ。ひとりで歩いていく。
後ろから歩いてくる足音は、近いような遠いような、不思議な距離だった。まるで、いつなにがあっても、と構えているような。
ぴ、
電子音とランプ。それを目標にすぐに入って横になる。意識はそこまでだった。
朝日の眩しさではなく、朝の寒さが詠の目を覚ました。時間を確認すると、まだ六時。平日はとうに起きているが、これの後はもっと寝覚めが遅い。いつもだったらまだ寝ていただろうが、それほど寒いということか。
とはいえ、朝の寒さで目が覚めるということは、昨夜の寒さには睡眠の必要性が勝ったというわけだ。冬にやるときは気を付けないと、それこそ目覚めない人間になってしまう。気を付けよう、と詠は揺れる頭で思った。
今日は日曜日。もう少し、と布団をかけ直し、引きずり込まれたのは沼の中ではなく夢の世界だった。
二度寝して目覚めたのは、昼間だった。十二時を過ぎている。少し身体を動かし、食べないと運転が危ないと、一度外に出る。
布団は暖かいが、少し寒さがある。もう少し厚いものにするか、それとも少し高級な寝袋に変更するか、考えながらドアを開けた。
鍵を閉めていなかった。いくら人がいないとはいえ、防犯上良いとはいえない。鍵は自分で持っている。だから勝手に閉まらない。少し心配になり、詠は周辺を一周した。
「ま、まこくん?!」
車を走らせてきた方向から、真言が歩いてきた。自分も車で来ていたのではなかったか。気を付けて帰れと促した記憶もあるのに、なぜここにいるのか。
「あ、起きた!」
「君、なんでここにいるの」
走りながら寄ってくる。ずいぶんと慣れ慣れしい。もう詠と真言に関係するものなどない。ただの知り合いであり、協力者ではない。詠はわざと、冷たくした。
「そりゃ心配だったからに決まって」
「決まってない。ひとりでできるって言ったでしょ」
「でも半日寝てたんだよ、寒いのに」
「それは君も同じでしょう。子供は帰りなさい」
「子供じゃない!」
「そう噛みついてくるところがすでに子供」
「寝てる間になにかあったら、だって、寒いし、誰か来たら」
「心配なんていりません。そもそもそんな間柄でもありません。なんとでもできますなります」
「心配くらいさせてよ!」
「勝手に巻き込んで勝手に捨てた君が言う言葉?」
う、と真言は言葉を詰まらせる。
「明日のために体調整えます、私は帰るから、君も気を付けて帰りなさい」
「詠さんは僕のこと心配するの、いいんだ」
「私は大人なので」
子供の心配をするのは当然のこと。
「おい、こんなところでなにをやっとる」
真言が来た同じ方向から、古い軽トラが来た。乗っているのは老人。
「ここに近寄るな、危ない」
「申し訳ありません、車中泊をしておりまして」
嘘ではない。老人は真言と一緒と受け取ったようだ。
「このトンネルはいわくつきでな、よくけしからん人間が近づく。連れていかれたくなければ、入るなよ」
「ではなぜ、もっと頑丈に閉めてないのでしょうか」
「理由なんていらん。とにかく、ここでまた死体を見るなんてまっぴらごめんじゃ。まったく、今朝は夢見が悪いから来てみれば」
「すみません、すぐに出ますので」
「気をつけろよ」
「はい、ありがとうございます」
詠は車を出した。仕方ないから真言も助手席に乗せる。ミラーで見えたのは、おじいさんが花を持って、トンネルのなかに入っていくところだった。
「車あるんでしょ」
真言は無言に徹してくる。詠は車を停めた。
「下りて。さっきのはたまたまだから」
「下りない」
「じゃ、根競べね」
さっきのおじいさんが帰ってくれば、なぜまだいるか、と聞いてくるだろう。知らない男が乗ってきて下りてくれないと説明すればいい。詠の勝ちは決まっているのだ。
「絶対下りない。なにがあっても。通報されても。下りないから」
「なんでそこまで」
真言は学生。アルバイトをしているとはいえ、収入は詠よりは少ない。タクシーを使うか、公共交通機関でここへ来るか、どうにかしなければいけない。お金が必要になる。
「話する」
「なんの」
話したいことなど詠にはない。欲しいものならある。その羅針盤だ。時間短縮にはもってこい。さすがにもらうことは気が引ける。ずっと引き継がれてきたものだからだ。借りるくらいならいいだろう。もし詠から話をもちかけるとしたら、それくらいだ。
黙る真言。話をすると言ったのは真言のはずだが、話を始めない。
「次はどこに行くの」
「決まってない」
それは真言のほうがよく知っているはずだ。詠には羅針盤のような力はないのだ。行ってみるしか方法はない。そんなこと、真言もよくわかっているはずだ。
「わかった。じゃ、下りる」
「へ?」
下りてほしかったはずだが、あまりにあっさりとしていたため詠は虚をつかれた。ただ、安心だ。やめろ、と言ってこなかったことに。
安心したが、どこかなにか、この気持ちはなんだろう。
とりあえず成功した、第三回目のおひとりさま未練断ち任務。この寿命が残るうちに、なるべく多くの未練を。
詠はそのためにも、もっと稼がなくては、とお金のことのほうを考えていた。
どうすれば、行動を止めてくれるだろうか。真言の頭はそれでいっぱいだった。あれだけ注意したのに、自分の命を削ることになんとも思わない。普通なら、やめるのではないか。
詠が怒ったのは、早く言わなかったことだけだった。そんなことをさせていたと、怒ることはなかった。
羅針盤がなくなっても、少なくとも今回を含め二回、未練を断っている。もしかしたらもっとやっているかもしれないことを真言は想像し、それは当たっている。
手当たり次第ではあるが、だんだん詠は、未練の場所をわかりつつある。お願いを聞いてくれないならば、やっているときに止めればいい。だが、どうすればいいか、まだ答えが出ない。
真言自身も、未練を断つための方法を探さなければならない。その間に、詠の行動も止めなければならない。
喧嘩別れのような別れ方をして、三か月ほど経った。それでもまだ見つからない、方法。どうすればいいか。
教えてくれる人は、いないのだ。




