2.
「今から、もう一度行ってくる」
足を踏み出す詠を、真言は止めた。
「止めないで」
助け出してくれた真言には感謝している。だが、今はすぐにでもあそこに行きたい。
「色々聞きたいことはあるけど、あとにする」
「だめ」
「なにが?」
「僕が止めたのは、助けるためじゃなくて、詠さんを止めるためだ!」
「止める?」
あのぬかるみから引き出してくれたことには感謝だ。おかげで、飲み込まれずに済んだ。だが、真言がトンネルの外にまで連れ出してくれたのは、止めるためだという。
止める、というのは詠の行動だった。
「命を削るって言ったでしょ! なのになんで続けるの!」
「なんでって、前に話したでしょ」
どちらにせよ命は助かったのだから、もういいのだ。見つけたきっかけを早く使いたい。ここで止められては困る。
「早く行きたいから、離して」
うつ伏せだった体勢から、今は逆になっている。手首をしっかり掴まれて、詠はそこを離れられない。年下とはいえ、男性の力は強かった。
「離さない」
「離して」
「離さない」
「離して! やるって決めたの! 見つけたの! 今度こそうまくやるから!」
「そうじゃない!」
これではなにも進まない。仕方ない、先に事情を聴いて、隙を見てトンネルにかけこもうではないか。足元に気を付ければ、うまくいくはず。詠には見えたのだ。気持ちが。未練が。
「……なんでここにいるの」
「画像見て、まだやってるってわかった」
真言もあの画像を見ていた。投稿者には消してもらったが、先に見ていたのならどうにもならない。
「詠さんが来そうな場所を探してきた。二回目のこと思い出して、たぶん近くのそういう場所、行ってるんじゃないかって思って」
真言の行動は、当たっている。考えることは同じだったわけだ。
「羅針盤もここを指してた。何回か来たけど、詠さんとは会えないし、どうしようかって悩んで、行ったり来たりしてた」
もしかしたら、トンネルの入り口の跡は、真言のものかもしれない。
羅針盤はまだ使えるのか、と詠は思った。力が弱まっているだけで、使えないわけではないのだ。
「休日だし、来てみたら車があって」
真言は詠の車を知っている。人影がないならもう中に入っていると、急いで入ったら詠の顔が地面から生えていたという。薄暗い影よりずっとホラーだっただろうが、詠が地面を掴んでいるのに気付いた真言は、詠を救うため手を引っぱり外まで連れ出したという。
「もう終わりにしてよ、お願いだから! 詠さん、死んじゃうよ!」
確かに、さっきは詠も死んでいておかしくない状況だった。だが。
「今生きてる。それで十分」
「なに言ってんの?!」
「まこくんがどうしてそんなに精一杯なのか、私わかんない」
「前に話した」
同じ言葉を返されると、むっとするものだ。詠は早くやりたい気持ちを抑えていたのに、真言に止められているのがあり苛立ちが大きくなる。
「あのねぇ! 私、早くやりたいの! ひとりでできるってもうわかったから! 邪魔しないでくれる?!」
「僕がいなけりゃ死んでたくせに?!」
「どうにかなったよ、未練がわかったんだから」
「生きたくてはいつくばってたんじゃん!」
生きたくて。
詠の手は、地面を掴もうとしていた指先に土がついている。爪は割れて、ところどころに血が出ている。
「生きる死ぬとは関係ない、とにかく、さっきのでわかった。行ってくる」
たしかに、真言が来てくれなかったら死んでいた可能性はある。が、あのぬかるみは詠に教えてくれた。未練について。
記憶が入って来たとはまた異なるが、うまくいくという確信を得た。
「行かないで」
「私は、生きたいよ。そうじゃなきゃ、任務遂行できないからね。自分自身が未練になっちゃう可能性大だし。だから、生きたい。でも、これもやるって決めたの」
「でもその任務は僕の」
「まこくんのためにやってるんじゃないから、私の気持ちの問題だから」
睨み合いが続く。まだ詠の手首は掴まれていて、動こうとしても止められてしまう。だが、緩まった。詠はすっくと立ちあがり、トンネルに身体を向ける。
「行ってくる。気を付けて帰ってね」
ここにいなくていい、という意味を込めて、詠は振り返らずに真言に言った。
「詠さんが止めないなら、ついてく」
「いらない、私、一人でできるってもうわかったから。何度も言わせないで」
「僕の気持ちの問題だから」
手を取られ、トンネルに向かう真言の背中。ひとりでいいのに、と詠の苛立ちは膨れるばかり。
自分ひとりでなんとかなると、ずっと思ってきたことだった。
だが、なんだろう、この気持ちは。
誰かが傍にいるという安心感。
いないでほしいのに、いてほしい。
矛盾した気持ちが、同居する。
「今回だけにしてよ」
詠は背中に向かって吐いたが、返事はなかった。
再びやってきたトンネルの奥。長さはわからないが、場所としては二百メートルくらいだろうか。すっかり日は落ちて、影すらできなくなってしまった。
足元をしっかりと、懐中電灯で照らす。お互い無言で歩くと、照らしたところに、ひっかいた後があった。これは詠がぬかるみから出ようと足掻いた跡だ。
わかったとたんに、足元がやわらかくなる。少しだけ、とぷんと揺れる。もう一歩踏み出せば、そこにはまってしまうだろう。
「まこくんはこの先に行かないでよね」
「詠さんはどうするの」
「跳び込む」
「跳びこむ?!」
「なに驚いてんの、今までそうやってきたじゃん」
泥にも、岩にも。真言は知らないが炎にも。
だいたいが、薄暗い影に触れることで強い未練の記憶を得てきた。
「せめて手をつっこむだけとかにして」
「なんで、入るのが一番早いでしょ。もう方法わかったんだから」
「歌えないよ、これのなかじゃ」
たしかに、そうだ。
泥のときは、解放されてからだっただろうか。
もしこのなかだったら、どうなのだろうか、詠に答えは出せない。
「じゃ、これに手ぇつっこんでみるから、まこくんはそこで見てて。巻き込まれたら許さないから」
一歩でも前に出たら蹴りとばしてやる、と思いながらしゃがみこむ。沼と思うのは、たくさんの未練であり、本物の沼ではない。
ついさっきは、真言と詠だからこそ沼に埋まるよう見えていたのだろうが、別の人だったらどう見えていたのだろうか。
自分の爪痕を消すように、そこに足を置いてしゃがむ。そして、もぞもぞとうごめく沼に、手を入れた。
りゅるぎゅる、
蔦のあのときと似た感覚。入れた手に巻き付いてくる、沼に溜まったものが、からみついてくる。
ここで引いてはならない。感じるのだ。さっき、思ったことを。感じたことを。
——怖い
——助けてほしい
そう祈ったときのことを。
今でさえ、詠はさっきの恐怖が心を占めている。後ろに真言の存在がなければ、反射で後ろに引いていただろう。だが今は。
——教えて、あなたのことを
入れた手を引っ張られるようになっていた。もう肩まで届いている沼。それはだんだん、広がっていく。
左胸と、額にからまっていた先がくっついた
と思った瞬間に、飛び込んできた。
少年の見た、記憶。
なにが怖いのだろう。
同じ恐怖であっても、理由は異なる。
それを捉えなければならない。
口を塞がれていない。このままでも歌える。
離してもらえれば、そのまま沼に響かせろ、水面のように。
——ねえ、怖かったので、合ってる?
——教えて、あなたのことを




