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この気持ちに名前をつけて  作者: ぬりえ
振り返っても

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3.

「前を向くしかないだろう」


 末っ子のぼくは、家族が、自分が、生きるために、奉公に出されることに決まった。どうしてぼく?

 体の弱いとうさんの代わりを、おにいちゃんがやっている。稼いで食べるには、おにいちゃんが必要だ。ぼくはまだ、できることが少ない。家にとっては、ぼくがいないほうがいいんだ。


 とうさんに、辛いことがあったらどうすればいいか、聞いてみた。最後の晩だった。答えが、前を向け、それ。

 

「毎日前を見て生きてるよ」


 今もとうさんを見ているのは、まんまえだ。


「いつか意味がわかるさ」


 笑ったとうさんは、力なく横たわったまま、手をあげた。ぼくの手をぽんぽんと叩き、次の日、ぼくは奉公先へと連れていかれた。


 その奉公先とは、ぼくの親戚だったみたいだ。でも、ぼくは家族として受け入れられない。雇われの身として、身を粉にするまで働いた。


 言われたことをなんでもやる。

 それでやっと、衣食住を与えてもらえた。ほんの少しの食べもの。寝る場所は冷えた土の上。与えられるのはぼろぼろの布切れ。服は奉公先の親戚の息子が着古した着物だった。


「おまえ、捨てられたんだよ!」


 奉公先の息子は偉そうにしていて、ぼくをいじめるのが大好きだった。だからいじめられてる、というふりを大きく表現することが、一番そいつからの暴力が少なくなると知っていた。


 でも、その言葉で、ぼくの心に釘が刺さったみたいに痛くなった。


 捨てられたって?

 お金を稼いでくるんじゃなかったの?


「なにおどろいてんだよ! 口減らしだよ、家族が多いと、金も必要だからな!」


 そんな大金、おまえんちになんかないだろ、父ちゃんなんて使えねぇ体だしさ。病って聞いたぞ。貧乏神だな。


 いじめてくる息子の言葉が突き刺さる。病じゃない。身体が弱いだけだ。それに。


「貧乏神じゃない!!」


 どん、と突き倒した。突き倒すことができた。体の大きさだけはとっぷりしているけど、力がないのかふいうちだったのか。奉公に出されてからずっと力仕事をしてきたぼくは、かなりの力がついていた。


 その夜、ぼくは奉公先の親戚に体と言葉の暴力を受けた。たくさんの傷がつき、血が出て、動けなくなったさきに、罵詈雑言が降ってくる。


「ほんと、あんたの父ちゃんは貧乏神だよ」

「こんなのよこしてくるくらいだ」


 ぼくのことはなんとでも言え。

 でも、とうさんのことを悪く言うのは、


「許さない!!」


 力がついた、と思っていた。

 が、まだ大人にかなうまでには及んでいなかった。

 ぼくはそのまま何日も水だけで仕事を強いられ、まっとうな衣食住は与えられなくなった。


 前を向け。


 自分に何度も言い聞かせる。

 父さんは、知っていたんだ。こうなること。

 だんだんわかってきたよ、父さんの言葉の意味。

 辛くても悔しくても悲しくても、ぼくは生きていくためには、どんなことも振り返ってはいられない。まだ見えない道を探して、歩いて行かないといけないんだ。


 でも、なんでだろ。前を向いていても、涙は必ず下に落ちていくんだ。


 性格が悪いと有名なのは、ここに来て早いうちに聞いていた。かわいそうにって、言い残して去っていく人もいるし、こっそり食いもんを持たせてくれる人もいた。

 もともと評判が悪いんだ。

 それならもっと悪くすればいい。

 そうすれば、この家は崩壊する。

 ぼくの気持ちを味わえばいい!!


 家と人を観察し、金の動きや人の動きをおぼえる。金がどこにしまわれているかは知っている。あいつらがいつも行く部屋で、覗いたから。あの息子にいじめられ、逃げるために入り込んでいた床下。たまたま見つけた。金のありか。


 盗むこともできた。でもしない。そんなことしたら、とうさんたちが大変なことになる。

 毎日観察した。おかしいな、と気づいたのは、受け取った金のすべてがそこに入っているわけではないことだ。


 ぼくは毎日ちがうところで寝ている。音に敏感になった。何度もいたずらなんてかわいいものではない方法で、いじめられてきたからだ。だから奉公先の男がこっそりと外へ出ていったことに気づいた。


 なにかある。


 ついていったら、そこは遊郭だった。もちろんどんな場所かは知っている。

 そうか、金のすべてが入っていないのではなく、男が使ってるんだ。妻のほうは、女だからと金勘定を任されていない。だから知らない。


 これは使える。


 ぼくはほんの少し金をちょうだいして、かんざしを買った。奉公先の人に頼まれた、と場所を教えればすぐに理解してくれた。このあたりではもう知れていることらしい。なのにそれを知らないあの女は、どれだけ馬鹿者なんだろう。


 そのかんざしを、掃除のときに拾ったと妻に渡した。

 これなに? と女が聞いているのが聞こえた。自分への贈り物とでも思っているのか、責めるものではない。だが男がたいそう動揺したことに、女の勘が動いたらしい。ありがとうと受け取った女は、次の日からそれを売った場所を探すようになった。


 最終的に、ぼくの思った通り、遊郭に通っていることを男は女に知られてしまった。そのうえ、これはぼくも知らなかったけど、貢ぐための金をつけにしていて、大きな借金を抱えていた。


 もうこれで、この家は崩壊だ。ぼくは解放される。

 確信した。


 が、それは間違っていた。


 たしかに崩壊したこの奉公先。が、矛先はすべてぼくにきた。

 ぼくがかんざしを渡したから、と女はぼくを責める。

 夫の不倫に気づかないような女が何を言う。

 男はぼくを疑うことはしなかった。でも怒りを暴力でぼくにぶつける。

 息子は、ぼくが来たから家が壊れたと、泣いて罵った。貧乏神、と。


 嫌われ者の家族は、それから信用を失い、石を投げられ、逃げるように町から出ていった。

 それからは森の近くのあばら家にいる。森の水を売り、金に変えている。水売りだ。神聖な森の水、と男は嘘を吹き込んでもいる。

 女のほうはあばら屋なんかに住んでいられない、と町から出るときにそのへんの男についていって、居場所は知れない。息子も後ろ指を指されるのが辛くなって、水売りの手伝いさえしない。ぼくは家のことしかできない。男がいない間、女がしていた仕事をできるのはぼくだけだった。


 ぼくの思い描いたとおりになった。

 この家は崩れた。

 僕はいらない。奉公はやめて、別の仕事を得て、稼いで、家に帰る。


 水を汲みにいく途中、男はぼくを、そこで待っていろ、と森の深い場所に置いていった。ここでお前の父ちゃんが迎えに来る、と、


 やっときたと思った。この瞬間。


 口減らし二回目。男はぼくがいらなくなったのだ。

 

 父さんがくる、と言われるとは思っていなかった。

 迎えに来るから、とか適当な嘘をつかれて、捨てられると思った。

 でも、父さんが迎えに来るって言われた僕は、不覚にも期待を持ってしまったんだ。



 待つ。父さんがくるまで。



 あの父さんがひとりでここまで来られるとは思えない。きっと母さんかお兄ちゃんが一緒だ。

 前を向こう。いいことを考えるんだ。

 少し持たされた金と食料。金を使える場はないけど、ずっと待つ。水はある。


 待つ。


 待つ。


 来る日も来る日も、待つ。


 どこかに移動したら、探してしまって森から出られなくなるかもしれない。


 待った。


 でも、来なかった。

 父さんは、来なかったんだ。


 前を向くしかない。


 父さん、ぼく、前を向くしか、なくなった。

 食料はとっくになくなっていた。毎日水を飲んで凌いできた。そろそろ限界だ。

 川に行こうと歩いたところで、木の根に足を引っかけて倒れた。そのまま、顎をあげる。身体を持ち上げることはできなかった。

 もう、どれだけ待ったんだろう。


 前しか見えないよ。後ろ、向けないよ。

 

 前じゃないところ、見ていればよかった。


 父さん、母さん……


 怖いよ、こんなところで、ひとりきりなんて、

 怖いよ、いつくるかわかんないのを、ずっと待つなんて。

 怖いよ、こわいよ。


 



 



 ——お父さん、お母さん、

 ——私も、会いたい



 一緒に、会いにいこう。

 ぼくといっしょに。そうすれば、会えるよ。

 この森を出るには、君が必要なんだ。


「会える? ほんとうに?」


 前向いてたんだ、会えるのを信じろっていう、父さんの言葉に従って。

 会えないはず、ないじゃないか。


「そうだね。最期も、前を向いていたね」


 後ろなんて、もとから見えないんだから。

 前向くしかできないんだよ、ぼくらは。

 ほら、ぼくらは会えるっていう未来を信じて、ずっと生きてるじゃないか。




 ——え?


 ——生きてる?


 ——おかしい






 おかしい、おかしい、おかしい。

 この子は、未練だ。死んだ者の、魂の、残されたなにかだ。

 生きているはずがない。

 少なくともこの記憶は、もう、生きている人のものではない。


 前を向くしかない。


 この子は、間違ってる。

 だって、その言葉の意味は。



 ほら、前見て、行こう。



 聞きたくないのに聞こえてくる、あの子の誘い声。

 雨の音が強く、色は黒くなっていく。

 記憶を俯瞰して見ている詠は、その記憶の持ち主の姿を知っている。その姿の子が、今、目の前に。

 竜の背に乗っている。そういえば、雨の神様は竜神とも言われている。



 ほら、おいで。



 雨が背中を押すように強く当たる。



 君のお父さんと母さんに会おう。



 小さく、動いていた足。それをきゅっと止める。


 ——だめ、行っては駄目

 ——これはおばあちゃんのときと、一緒だ!!




「行かない!!」



 穏やかな顔と声で誘ってきた男の子が、かっと表情を変えた。神聖な竜の背に乗っていると思ったが、彼自身が竜となる。

 竜の顔が口を大きく開けて、勢いよくつっこんできた。食べようとしている。


 私を。


「君は間違ってる!!」


 竜がぴたりと止まった。


「前を向くしかない。それは、前しか見られないんじゃない。正面を見ることでもない。未来を見るんじゃない。後ろを見ることができない人間の体の構造上の問題でもない!!」


「いいことがあるって信じて、人生を積極的に生きろって、お父さんから、あなたへの!」


「愛の言葉だよ!!」


 ぱぁん、と竜が弾けた。


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