2.
日本を救う。
ずいぶんとスケールが大きい話をしてきたと思った。手伝えるならしてやろうと上から目線で、詠自身が巻き込まれることを決定した。
それらの負担は、すべて、詠が背負うことになる。
さすがの詠も、動揺した。
「すべ、て」
二人だからこそ、やっていけると思った。なにかあったら助けてくれる人がいるという頼もしさというのはありがたく、存在は大きい。
「もう、見えなくなってきてる」
「見えないって、あの影みたいなやつ?」
「違う。未練の影は見える」
「故人の記憶は私だけに入ってくるし……」
では、なにか。
「詠さんが歌ったあと、昇っていく未練のあった人たちの姿」
「見えない、の?」
霊能力者ではないが、真言は見えているものだと思い込んでいた。だからこそ、話題を振った。
では、法子の子供のときも、見えていないからの発言だったのか。
犬の陽太郎も、もしや家主のおじいさんのことだと認識しての言葉だったのか。
「ごめん」
ごめんと言われても、もう返す言葉もない。最初、キヨと幹彦のときは見えたという。だが、その後からは見えなくなってきたと話した真言。
「もし、未練に飲み込まれそうになっても、連れていかれそうになっても、僕はなにもできないかもしれない」
助ける、という約束だった。それができなければ、詠は死に至る。未練に体を奪われ、飲み込まれてしまう。
「なんでもっと早く言ってくれなかったの?」
「それは」
「傷つくのを恐れてる。どっちをとっても、まこくんは自分に与えられた任務をまっとうできないから」
詠をやめさせれば仕事ができない。やめさせなければ、詠の寿命は縮まる。どちらかを選ばなくても、最終的には任務もできないし誰かが傷つく。
「逃げてるだけじゃん! 覚悟が足りない!」
真言の肩がびく、と震えた。
「それくらいの覚悟もないくせに日本を救うとかでかいこと言ってたわけ? ちっさい男だな!」
「逃げてない」
「じゃあなんなの」
「逃げたくないから、こんな仕事してる。逃げられないんだよ! この任務からは!」
「それなら私を巻き込むくらいしなよ!」
「嫌だよ!」
「選択をすぐにできない人は信用するな」
これは家訓でもある。
決める力がない人を信じてはいけない。心が揺れているのだ。揺れているということは、後悔して選ばなかったほうにもう一度、振り子が揺れることになる可能性が高い。
すぐに選べる人間は、覚悟を持っている。決めたことをまっとうする人間だ。
「もうまこくんは信用できない」
まともに話ができないようになってしまったため、終わらせることにする。
「私一人でやるから! まこくんがいなくてもやるから! 私の存在なんて忘れて、まこくんは好きに動けばいい!」
——そうすれば、心が軽くなるでしょ
——帰って
詠は真言を追い出した。
ずるずると立ち上がった真言は、なにも言わなかった。一人でやるという宣言に意見もしない。無言で、部屋から出ていった。
「生命力、寿命、命、ねぇ」
故人はそれが尽きてしまった。だからこちら側にはいない。残された強い未練が、生きているものの心に、吸い寄せられてきている。助けを求めて。
生きているからこそ、心があって、たくさん感じるなにかがある。
死んだあとのことなんて、わからないのだからどうでもいい。
詠は、今を好きに生きたかった。
あの人のように、自分の思うままに、生きたいと思う。
それで決めたのに、否定されるとは思ってもいなかった。
詠のためだというのは、本心だと伝わってきた。だとしたら、今後どうするのか。日本を救うのは誰になるのか。力がないからと頼って来たくせに。
怒りを覚える。
逃げればいいと、真言に言った。逃げればいいのだ。詠に任せられたのだ、それなら別の、そういう知り合いにでも、頼んで任せてしまえばいい。任せる相手を見つけることで、任務をまっとうしたことにする、という方法で。
若者が、日本のために、未来のためになんて生きている必要がどこにあるのだろう。今を楽しまねばならない。いつか、なんて言っていたら、それこそいつくるかわからず、こないかもしれないのに。
もっと、自分を大切にしてほしい。もっと。
詠がこれから考えなければならないのは、自分でやる方法だ。羅針盤がない今、できることは少ない。そして、眠気と疲労により自分ひとりで帰ってこられないとわかったのだから、なるべく近い場所から潰していくしかない。
これから休日は神社巡り、寺巡り、そういうものがありそうな場所の観光をしよう。前にできなかった観光をしながら、そういうところを見つければいい。
危ないことにならないよう、わざと昼間を選ぶのもいいかもしれない。怪しい人物と思われても、精神的な病ということで収まるだろう。実際、歌うだけでなにもしていないのだから。
詠はネットで調べ始めた。なにかしていないと、怒りが弾けていまいそうだった。
ノートパソコンをテーブルに置く。テーブルには口のつけられていない二つのマグカップ。もったいないから両方飲む。
頭を使うには糖分がほしいと、買ってあったドーナツを持ってこようと台所に移動した。返せばよかった、あのケーキの箱。
ひとりでは食べきれない甘味。嬉しいはずなのに、なにも感じなくなった。
翌日日曜日、詠はとにかく神社やら寺やらなにやらを探し、地図に印をつけていった。歩いていくのが大変なところもありそうで、勢いで車に自転車を乗せるための機材まで購入してしまう。痛い出費だったが、後悔はしていない。
翌週から、近場の神社仏閣を回り始める。近場なら車で行ける。ご挨拶を済ませてあとはまわる。ここ何回かでわかったのは、あの薄暗い影に呼ばれた先には危ないなにかがあるということだ。
地図上でそういう場所がわかるところから進めていった。今のところ、なににも出会わない。ご挨拶をし、もしもの場合は助けてもらえるよう、お願いしてしまった。もう詠に相棒はいない。
今頃真言はどうしているのだろうか。考えても答えはでない。こちらからメッセージも着信も拒否したため、連絡手段はない。
知らない誰かが自分のせいで怖い目に合っていると考えると、なにもしなかった自分を嫌いになる。後悔する。だから詠は動いている。
それらしき場所をまわったが、その休日ではなにも見つけられなかった。いいことだとは思う。未練が少ないという意味で。
が、もし自分が死んだらと考えると、多分未練たらたらで、あの世に簡単には逝けないと思っていた。
必ず、近場でどこかに、影はある。
さらに翌週。とにかく端から端まで潰していった。策は考えてある。見つけたら、夜まで待つ。その場で。誰かが呼ばれたりしないように。
人が少なくなったら、行動開始。それまでの間に、できる限りあの影が残したものを感じ取れるよう努力するのだ。
先が見えないことが、こんなに怖いとは思わなかった。今度こそ、と期待しても、なかなか現れない。
そして初めて一人で見つけたのは、一人で行動し始めてから一か月経ってからの土曜だった。羅針盤はたいへん便利なものだった。一か所見つけるのに一か月。これはなかなか難しい。
今後、県外に出るならば、有給を多く消化することになる。探すのに時間がかかるため、一日では終わらない可能性が高くなるからだ。休日をこのために使おう。少しずつ、潰していく。真言ができないことを、詠は自分でやってやろうと意気込む。
見つけたそこには、雨が降っている場所があった。山の上にある境内のまわりはもちろん山林。もう少し時が経てばきっと、紅葉が美しく、参拝客も増えるだろう神社だ。長い階段を上った先にある境内は、きれいに整備されている。
山林と境内の間に、最初のあそこのように「入るな危険」のロープが張ってあることはない。誰がどう見ても、その先は森。散策路ではない。行ってみようと考える者などいないだろう。
ちょうどいい天気。運が良ければ雲海も見られるという。だが空は高く青く、雲一つない。本当にいい天気、そのものの空だった。
なのに雨が降っている場所がある。よく、墨汁を垂らしたような空が、という表現で空の曇りを表現することがあるが、その雲をそのまま水にして降らせているような、そんな雨だ。
どう考えても雨は降らない空。
降っていると見えるのは、境内の裏側の山林に入って先。
行くしかない。
待たなくても、誰も見えない。誰かに見られさえしなければ、追いかけられることもない。
参拝客は多い。足が途切れるのを待ち、詠はロープを跨ぎ山林へ足を踏み込んだ。
突然、寒くなった。季節の変わり目ではある。標高が高く、山に囲まれたこの場所なら寒さを感じてもおかしくない。
だが、さっきまでは感じなかった冷たさ。まだここは雨が降っていないのに。一線を越えると、もうそこは未練の敷地内に入ってしまうのかもしれない。
今までは、温度など考えていなかった。その場のそのままの気温だった。だがここは寒い。冬に温かい部屋からいきなり外に出たときのような、腕をさすってものどうにもできない寒さ。
——ここだ
詠は雨が降っている場所まで、足を進める。
自転車は用意したが、靴は古びたスニーカー。山らしき場所へ来るときは、簡単なトレッキング用の靴にしようと思った。
雨が近くなるとともに、足場が悪くなっている。高い場所にあったお社が見上げないと見えない。ということは、下っている。このまま足を滑らせれば、誰にも見つからないまま死を迎える。
だんだんと雨が体に当たり始めた。水に灰を溶かしたような、雨。この雨そのものが、今までの手や蔓や縄や、あれらのような未練だったら、詠はすでに未練に掴まっていることになる。
——進んでいいのかな
——でも、進むしかない
——ひとりで、やってやる
——ひとりで、できる
証明したかった。
誰も、見てくれている人など、いないのに。
雨が降っている。傘はない。
あの辺りに雨が降っている、と境内から見ていた。だが正確な場所はわからず、ただ足場の悪い山林を下りていくだけだ。
前に前にと、足を進める。
——なぜ、こんなことをしているのだろう
寒い空気、冷たい雨。ぬるりと粘る足元。
もっと暖かくしてくればよかったと後悔が募る。
今まではもう一人いた。それだけで安心した。これだ、という言葉に返事があった。
失ってしまった相棒。もういない。
心配を含んだ目で、詠のために選択をしてくれた、真言。
もう、ひとりでやってやる、と誰かを助けようとたどり着いたときは、ただ寒くて孤独な空間だった。
いつまで歩いても、今まで見てきたようなものが見えない。
本当は、怖い。
怖くてしかたない。
いつの間にか、下りながら泣いていた。大声をあげてではない、勝手に滑り落ちてくる。この雨のように。
灰色の雨を体中に浴び、服がぴたりと体に張り付ついて。でもやると決めたから、探して進む。
怖い。
このまま進んだら、もしかしたら、そこは、黄泉の世界かもしれない。
まだ生きていたい。
なにか価値を自分に与えることで、生きていてもいい理由を、作っていた。
与えてくれたのは、真言。
捨てられて、怖い。
怖い。
……こわいよぉ
声がした。
……こわい、とうさん、かあさん
——来た。これだ
怖いのは、詠も同じ。
——シンクロするんだ。きっと詠の恐怖に寄せられた。子供の声
——教えてほしい、君はなにに、怖がっているの?




