4.
体を絞める縄が、冷たくなっていく。湿り気を帯びた。
あの子の涙で、湿っている気がした。
「詠さん! 詠さん!」
いくら近所に家がないとはいえ、あまりに名前を呼ばれると人が来てしまう。やめてほしい。ただ、今回は真言に訊きたいことがあった。
「犬、な、の!」
まだ縛られた態勢。なんとか声が出た。
これは、この縄は、この家主が犬のために作った、リードなのだ。ずっと拒否していた犬だが、一度くらいはお礼として散歩に行けばよかったと最後に思った。
それが、未練。
「犬ぅ?!」
故人の未練と聞いていた。それが動物も含まれているとは、詠は思ってもみなかったが、真言も同じだった。
入ってきた記憶のこの家主はとても優しい顔をしていて、嫌がられるから首輪はつけなかったのだろうが、犬のことを家族と思っていた。妻がいなくなった隙間を埋めたかったのもあるかもしれない。実際に犬は、家主のさみしさを埋めていた。
家主が死んでいるかも生きているかもわからない犬。
もし生きていたら、きっと迎えに行っただろう。
とすると、犬のほうは死んだものと理解しているはずだ。
お礼も言えず、散歩もできず。
贈られたものは受け取ってきたが、唯一縄だけは拒否していた。なんのためのものか、知っていたから。
きっと犬は、飼い犬になることにプライドが許さなかったわけではないのだろう。
縛られるのが怖かったのだ。
近しい繋がりができて、いなくなるのが怖かったのだ。
一人で生きてきた犬は、あたたかみを知ってしまった。帰る場所をもらってしまった。
もう、帰れない。
帰れたとしても、そこに家主はいない。
どこに行けばいいのか、迷った犬は、一度くらいは、という未練を持って、ここにいるのだ。
土地の神様として祀られていたこのお社。もう家主はおらず、この家も空き家。神様がまだいるかはわからない。
だが犬は、自分より大切にされていた神様のもとへ、帰って来た。帰ったつもりはなくとも、未練がここへとどまった。家主との散歩に行くために。
結局家主はいない。
いつのまにか帰る場所になっていた家が、いつのまにか帰る場所ではなくなっている。
大切な人はいない。見た目も違う。
——そっか、帰れないんだね
——それなら、迎えに来てもらおう
童謡。犬のおまわりさん。
これを、詠は犬と猫を逆にして歌った。
——迷子の子犬さん、
——泣いて…… 吠えてばかりじゃ、わからないよ
ボクは、どこへ行けばいいんだ?
どこにじいさんはいる?
どうすれば散歩できる?
——泣きたくなるよね。後悔って、そのままだよね。後になって悔いるんだもんね
——もっと泣け、もっと泣け、鳴け
——もっと鳴け!!
——届くように、おじいさんに、届くように!!
——迷子を見つけたとき、私だったらどうするかわからない
——でも、なにかで聞いたか読んだことはある
——大きい声で泣いてもらうこと
——探している親なら、きっと声をたよりに見つけてくれるから
——大きい声で吠えて!!
——おじいさんを呼んで!!
——きっと、来てくれるから!!
「お、やっと呼んでくれたんか」
じいさん!!
「わしは呼んでもわらんと来れなかったんだ」
ありがとな、とおじいさんは犬を撫でまわす。
救急車で運ばれた数時間後、おじいさんは息を引き取った。後悔は、置いてきてしまった家族の——犬のこと。ただそれだけ。無事に生きていてほしい。それだけ。
「一緒に散歩に行ってくれるかい?」
縄を出した。作ったという縄。先は輪っかになっている。
「注連縄の作り方でがんばったんだ」
嫌がらない犬の首に、輪っかをかけた。
輪っかの先には、ビニールテープがくっついている。
「やっと夢がかなった」
顔をくしゃくしゃにするおじいさんは、犬を抱きしめる。
「あ、これはおまえの名前だよ」
縄につけられたビニールテープ。黒いインクで、“陽太郎”と書いてある。
「朝のお散歩にふさわしい名前だろう?」
さぁ、と縄を持ったおじいさん。
「あっちでばあさんと家族三人で散歩しよう」
わん!
大きい声で吠えたが、明るい鳴き声だった。
「おじょうさん、ありがとねぇ」
——おじいさん、あっちに行ったら首輪部分だけでも作り直してあげて。ちょっと苦しそう
——あとねおじいさん、そのこ、多分、女の子ですよ、その子もオスって思ってるみたいですけど
——でもあの犬は、満足そうな顔をしていた気がするから、まぁいっか
縄が、ほどけていく。うじゃうじゃと生えていた縄が、家主の持つリードと一体化していき、とんとんと散歩のゆっくりしたテンポで昇って行った。
十センチほど、体が持ち上がっていたのだろうか、とつぜん縛りが解けた詠は、足から地面に落ちた。きちんと足の裏で着地したが、膝をクッションにして重力を吸収することはできず、まっすぐ着地したために痛みに悶えている。
「だ、大丈夫ですか?!」
「う、うん、どうにか」
「犬って言ってたけど」
「うん、今回はわんちゃんの未練だった」
「犬も人間の言葉わかるんだね」
「わかるんじゃない?」
記憶のなかで、犬は人間の言葉で思っていた。勝手に詠が理解していたのかもしれないが、家主の言葉はもちろん、犬の心も日本語で伝わってきた。
「記憶って、そういうものなのかも」
心が伝わる。それに言葉は関係ない。
「このお社、もう、神様、いないのかな……」
こういうものもきちんと、対処していなければならないだろう。
またここに誰かが住むなら、神様を前の家主のように、きちんと丁重に扱わなければならないと思う。
「僕にはなんとも」
詠の体から芯が抜け落ちた。なんとか抱きとめる。
「詠さん?! 詠さん!!」
確認すると、ただ寝ているだけらしい。すぐにでも帰りたいところだが、車に乗せると、真言は庭の草刈りを始めた。
鎌など持っていない。うっそうと茂った草をとにかくちぎる。土が固く、抜けないのだ。それだけ毎日、家主はこの庭を歩いていたのだろう。
端に見つけた、ぼろぼろの木。なんとか形を保ってはいるが、少し触れれば崩れてしまいそうなほど苔むし、腐っている。なかには布のようなものがあり、異臭を放つが、これが探し物のようだ。
犬がいるなら犬小屋があるはず、と探すために草刈りをした。近くには縄があった。ビニールテープのカスがくっついている。これはきっとリードなのだろうと真言は思った。
手を合わせる。
——ご開運をお祈り申し上げます
詠はこの土地神様のお社のことも気にしていた。それについては個人の所有物のためどうにもできないが、気にすべきことで、家にも伝えるべきことを伝えていかねばらない、と気持ちを新たにする。
車に戻った真言は、詠の様子を確認する。ただ寝ているだけだと思いたい。が、今回は寝るのが早かった。寝るというより、倒れたに近い。
——もしかしたら、やっぱり
結局伝えられない自分がいる。
次こそ、次こそは。
まったくやすらかに見えない顔で眠る詠。長時間の異動で何回かサービスエリアに寄ったが、声をかけても起きなかった。
起きたのは、またあの駐車場だった。暑さは十月にして異常なのに、暗くなる時間は例年通りでもう真っ暗だ。
「うそ! もう着いたの?!」
ごめんなさい、と謝る詠。悪くないのに謝られる真言としては辛い。
「陽太郎くん、幸せに暮らしてるよきっと、いや、絶対」
「ヨータロー、君? ああ、あの家のね。うん」
「新しい発見、動物ありだね」
「人間も動物なんだからありえるはずなのに、考えてなかった」
「だよね」
「ところで詠さん、具合は?」
「いまいち、かな」
明日と明後日と仕事がある詠を部屋まで送り、鍵がかかったことを確認し、別れる。明日、また朝に連絡することになっている。もしかしたら寝坊するから起こして、とモーニングコールを任命された真言である。大音量にしておく、と詠は言った。
車に戻った真言は、ハンドルに臥せっていた。
体中についていた縄の跡。服の上からであの汚れだ、体にも深く刻まれただろう。明日になれば少しはましになるだろうか。移動中でもなんでも、手当はできたが女性の体に勝手に触れることはできなかった。結局なにもできず。起きるまでの間に手当の用品は購入しておいたため渡した。そこで初めて、本人は怪我があると気づいていた。
痛みを感じると言っていた詠だが、違うのだろうか。
痛みを上回る眠気と疲労なのだろうか。
確認しなければならないことも多い。
羅針盤を使えるのは、あと何回だろう。
真言のなかで、複雑な、それこそ未練に近い気持ちが、どんどん膨れ上がっていく。




