3.
「よくきたねぇ」
わしゃわしゃとかきまぜられるのは嫌いじゃない。ボクはもふもふと言われるくらい立派な毛並みをしているからな。
「ほら、用意しといたよ」
お食べ、と出されたのはドッグフードではなく、人間が食べる米だ。肉がほしいとは言えないし、伝わらない。まぁ、食べるものだけでもあるならいいほうだ。
ボクはどこで生まれてどう育ったのかわからない。ごみを漁って、どこかで見つけた雨水やらなにやらを飲んで、適当なねぐらを借り、生きてきた。暮らしてない。毎日なんとか生き延びた。
とある雨の日、ここんちの縁の下で雨宿りをしていた。それを、ここんちのじいさんに見つかった。
人間はボクのようなのをノライヌと呼ぶ。悪者にされて、いつしかホケンジョに連れていかれると人生の先輩犬から教わってから、人間には近づかないようにしている。
ボクは見た目がかわいいらしく、近づいてくるやつは唸り声と鳴き声で遠ざけてきた。見た目で惑わされるなよ。
じいさんは、ちょうどあの端っこにある小さな家に、挨拶に行ったらしい。置いてあったガラスのコップを持って戻ってきたところ、見つかってしまったわけだ。
「雨宿りかい? 好きなだけいるといい」
じいさんは縁側に座った。好きなだけなんて言われても、どうせおまえもボクをホケンジョに連れていくんだろ、その前に逃げてやる。きっとここに座っているのも、ボクを見張っているんだろ。
「今日は妻の命日でねぇ」
メイニチとはなんだ。持ってるコップは関係するのか。
さて、ここを出るか。出ないか。
きれいに手入れされた植木。雑草の一つない庭。隠れるところは少ない。
「お客さんが来てくれるなんて、嬉しいよ」
嬉しい?
「今日にひとりぼっちだと、さみしさが増してしまうからね」
じいさんはそれきり何も言わないで、中に入ったかと思ったら、古びたタオルと米を、濡れないところに置いた。
「お食べ。かわいいのに、なんて顔してるんだろうねぇ、あったかくしておなかいっぱいになれば、いいかおになるだろう」
かわいいとは、嬉しくない。ボクはオスだ。かっこよくなければいけない。かっこよくなければ、人間から逃げられない。
縁の下を覗いてくるじいさんと目を合わせていた。少しでも近づいたり、暴力をふるうようならすぐにでも噛みつけるように。
「泊まっていきなさい」
それだけ言い残し、じいさんは家の中へと入った。家のなかとは、それほどいいところなのだろうか。雨風を凌ぐには、ちょうどいい構えをしている。
人間はこういう形のところに、夜になる頃には入ったきり出てこない。朝になるとまた出てきて、どこかへ行くのだ。
じいさんがいなくなってから、ボクは古びたタオルで体をこすった。濡れた体が冷たい。少しはましになったかと思えば、今度はおなかがすいた。仕方ない、米ももらうことにする。
うまい。
ただの米なのに、うまいとはなにごとだろう。今まではゴミ箱を漁っていたからか。人の持ち物を盗んできたからか。
縁の下の上では人間の動く気配がある。だが、雨の音がなぜかいないはずの母親を思い出させ、ボクはうかつにも眠ってしまったのだ。
「おお、まだいてくれたのか」
じいさんは明るくなった向こうから顔を覗かせ、ボクを見た。
あれ、寝てしまったのか。
「メシ、喰うか」
出されたのはまた米だ。じりじりと近づいて、前足で器を叩いた。地面に落ちた米を無心で食らう。
「おやおや、お行儀悪いねぇ」
悪いね、行儀なんて教えてくれたやつなんざいないんだ。
そのあと、ボクはじいさんのところを出た。たまに見に行くと、じいさんは朝にあのはしっこの小さい家に水の入ったコップを置いて、夕方には下ろしているとわかった。
そうか、ばあさんとやらはそこにいるんだな。水だけでは足りないだろう。
それから、じいさんは米もその小さな家に置くようになった。ボクと同じことを考えたんだろう。でもいつも減ることはない。夕方にはまた家の中へと戻されていく。
それなら、とボクは毎日、そこにある米と水をもらった。だんだん量も増えていく。前足より小さな米では生きていけない。増えたのは嬉しいことだ。そして毎日あることも。ボクはここで喰いモンを手に入れたわけだ。
「やっぱり君だったか」
がつがつと米を喰ってるときに、後ろから声があった。臨戦態勢に入る。がるる、と唸り声をあげても、じいさんは一歩下がることもしない。
「毎日水とお米がなくなってるから。ばあさんがとは思ったけど、ばあさんはそんなに食べ散らかす人じゃなくてね」
米粒をひとつも残さず食べているボクにその言い分はなんだと文句を言いたい。コップは横に倒して垂れた水をきれいに舐めているし、茶碗もひっくり返しているというのに。
「迷子かい? それともおうちがないのかい? ここを君のうちにするといい」
カイイヌになれって?
人間に飼いならされている犬を、カイイヌというらしい。人間に愛され幸せだそうだ。必ずごはんももらえるし、散歩をしている。気になるのはクビから紐を垂らしているくらいだ。
ボクはそんなのお断りだ。自由に生きるんだ。
米を食べていたことは怒られなかったし、捕まえようともしてこなかった。このじいさん、おかしいんじゃないのか。今までは、怖がられるか追いかけられるかのどちらかだった。
まあいい、仮宿くらいにはしてやろう。
僕はそれから、この縁の下を宿として暮らすようになった。
じいさんはそれから、ドッグフードを与えてくれたり、水を飲む専用の器をくれたりと、なんやかんや尽くしてくれた。ボクに敬意を払う良い人間もいるものだ。
だが代わりに、あの小さな家には行かないようにされた。柵が作られてしまったのだ。
「あそこにいるのは神様だから、食べ物を奪ってはいけないよ」
カミサマとはなにか知らないが、ボクより上の存在らしい。代わりに、縁の下ではなく、あの小さい家より大きい家を作ってくれて、なかにはタオルが敷かれて、仮宿にはちょうどいい環境だ。
このじいさんは悪いやつではない、とボクのなかで決まっていった。
いつか、じいさんが縄を持って近づいてきたことがある。ただの縄ではない、輪っかがついた、特別なものだ。
「毎朝散歩に行くんだ、一緒に行かないかい?」
毎朝どこかに出かけていることは知っていた。同じ時間に出て、だいたい同じ時間に帰ってくる。散歩に行っていたらしい。
一緒に行って、とは、あのカイイヌのようにされるということか。
持っている縄が、ボクの確信になった。縄はカイイヌがつけられているようなものとは違う。あの小さな家に入るな、と柵を縛っているあれと同じ。
縛られるのか? ボクも。
カイイヌに成り下がるのか?
ボクは全力で拒否した。家のなかから一歩たりとも動かない。開けられた場所から覗きこんでくるじいさんに尻を向けた。
「そうか、嫌か。これ、がんばって作ったんだけどねぇ」
縄がないと、散歩とやらはできないのか。なくてもいいなら、行ってやってもいいのに。
じいさんは毎日ボクに訊いた。一緒に行かないか、と。
でもボクは絶対に行かない。ごはんをねだりに行くことは増えたが、散歩の誘いには乗らない。
さらに時間が経つと、ボクはじいさんに触れられるのを嫌がらなくなった。逆に気持ちよさを感じて、そのときに見るじいさんの顔もあたたかくて、なかなかいいと思ったくらいだ。
カイイヌではない。断じて。
敵でない人間ができた、とでも思ってやろう。
ある日、じいさんがいつもどおり夕方に、小さい家から水と米をとって来た。これを奪ったら喰いモンはもらえないと最初に察したボクは、そのときだけはいつも見ているだけだった。
かしゃん、
どさ
変な音がしたと思ったら、じいさんが倒れている。
どうした、こけたか。
違う。死の匂いがしている。
まだ生きているはずだが、確実に、死の匂い。
起きろ、起きろ!
じいさん! 起きろ!
死ぬな!
たくさん叫んだからか、どこかのばばぁがじいさんを見つけてくれた。耳をつんざく音が聞こえたと思ったら、ものものしい人間がじいさんを連れて行った。
「噛み跡のようなものが見られますね」
「あの犬です!!」
ばばぁが怯えた目で、ボクを見て行った。
何を言う、ボクはじいさんを起こそうと引っ張っただけだ。
でも勘違いばばぁもこの人間も、ボクがやったと思っている。これはまずいと本能で察知したボクは、すぐに家に逃げ込んだ。
それが間違いだった。
たったひとりで生きていたころよりずっと、ボクの警戒心は緩んでいたらしい。
そうだ、じいさんがひょっこり顔を見せてくれるくらいだ、この家にいても人間が力ずくで出すことができるのだ。
じいさんはけたたましい音を出す車に連れていかれ、別の車がやってきた。そいつらはあからさまにボクを捕らえようとしている。僕は家のすみっこにはりついたが、無理やり出される。抵抗したのが仇になり、僕は檻に入れられて、どこかへ連れていかれた。
そこがホケンジョだった。
死ぬ順番を待つだけだ、と先に来ていたやつに言われた。
おまえ、野良だったんだろ? 首輪もねぇし。
そうか。もうボクは、じいさんには会えないらしい。
ん? おかしいじゃないか。
これではまるで、会いたいと言っているみたいじゃないか。
そうだ、違う。
せめて、場所をくれた礼くらい伝えたかった。
どこへ行くのかはわかっている。
最初、迷子か、と聞かれたが、もともといつく場所がないボクに迷子もなにもない。
でも今は、帰り方がわからない迷子だ。
じいさん、一回くらいはつきあってやればよかったよ、散歩。




