5.
「帰ってきてくれ」
それができるならどんなにいいか。
それを何度願ったか。
法子は、もういない。僕は結局法子と結ばれることはできなかった。彼女は僕の人生が幸せになることを選んでくれた。それなら、僕はまっとうに、幸せに生きるのが彼女への最大のお礼であり、贖罪だ。
と、思うのは傲慢だろうか。
「健さん、次の患者さんですよ」
今の妻は、僕のことをすべて知っている。知ったうえで、僕と結婚して、子供を産んでくれた。僕の二人目の子供。男の子だ。
一人目はきっと、法子に似た女の子だろうなぁ。
はい、と返事をして、しゃきっとした顔に戻す。僕は先生だ。僕が健康で元気でいないと、患者さんは安心できない。
父の後を継ぐことになっていた。大きな病院で、そのまま継いでいたら僕は大富豪になって、院長という地位を与えられ、先生と呼ばれ、前までの父のようにふんぞり返っていただろう。
だが僕は家族を捨てた。勘当されたのではなく、自ら出た。
自分のことと病院のことしか考えられない院長が、患者の気持ちに寄り添うことなんてできない。自分のことと大きな病院という顧客のことしか考えられない顧問弁護士とつながっているようでは、もうだめだ。
婚約者がいたが、僕はそれもきっぱり断って、遠い小さな田舎へと引っ越した。息子相手に言うべきではない暴言を背中から浴びせられたが、まったく刺さらなかった。あれはもう、父ではない。
田舎というのはゆっくりと時間が動くらしい。幸い蓄えはあったため、落ち着くまで、心の整理がつくまで、のんびり過ごしていた。
引っ越しの際にこんな田舎になぜ、と聞いてくる人がほとんど。糞おやじから逃げてきた、と話したら、翌日から野菜やらお惣菜やらいろいろとわけてくれるようになった。
最初は同情かと思ったが、田舎というのはそういうものらしい。ご近所づきあいが一番の防犯になるというのは本当のことだった。おかげで食べ物には困らなかった。ありがたい。
なんの仕事するの、と尋ねられ、前は医者をしていました、と答えたら、それなら、と紹介されたのが、そろそろ引退しそうな内科だ。先生は本物のいい人だった。
すぐに手伝うようになり、待ち時間に疲れた奥様と会話をして、いつからか代わりに回診をするようになって、なんてやっていたら、いつのまにか事業を継ぐことになった。
結局僕は医者にしかなれないのか。と思ったがここならいいと思ってしまった自分がいる。上司がいいとこんなにも違うのか。正直収入は前よりずっと少ない。だがゆっくりとした時間と、人の好い人たちのおかげで、とても過ごしやすい。
この村から出て医者になろうと勉強している子がいるのは聞いていた。その子が帰省で戻って来たとき、僕は相談に乗ってあげて、と言われていて、実際に話した。
未来の希望に目をきらきらと輝かせているかと思いきや、俯いた曇った目をしていた。もともと垂れ目みたいだが、上を向いていたらやさしい顔立ちがもっとよくなるだろうに。いい関係が築けなかったのかもしれない。
噂によると、どこともなじめず帰って来たという。帰省ではなかった。
なら、と仕事の手伝いを頼みたいと雇って、雇用者になった。
そして、いつしか彼女は妻になった。
「その子のことを忘れてほしいとは言いません。むしろ覚えていてください」
妻は、法子との話を聞いてなお、そう言った。一緒にいられるだけで嬉しい、最初はどんな毒医者かと疑っていたが、雇われてからだんだん好きになりました、と。
結婚し、ハネムーンに行っておいでとまわりの人から背を押され、回診の人のことを心配したが行ってきた。国内の有名観光地だ。
神社へ行き、お寺へ行き、おいしいものを食べ、いい宿に泊まり、忙しなく時間が過ぎていく。地元のほうがゆったりしていていいかもね、なんて妻となった彼女と笑い合った。
とある道端に、お地蔵様を見た。何体か並んでいる。
法子はもうこの世にいないだろうと思っていた。失踪ということになっているが、そんな気がして。中絶したのだから、一人目の子供ももちろんこの世にはいない。二人とももう会えない存在だ。
お墓によく並んでいるお地蔵さまは、水子供養のためだと聞いたことがあった。亡くなった患者のお墓参りに来てほしいと言われることがあり、父の目を盗んでこっそり行ったときに聞いた気がする。
見つめていたら、妻は僕の心中を察したらしい。
妻と、手を合わせて祈った。
無事に、天国で会えていますように。
僕はまだこっちにいる。やるべきことがある。
それを果たしてから、会いに行くよ。
法子と結婚はできなかった。法子自身も助けられなかった。
お地蔵さんに、水子供養のつもりで手を合わせていたが、もしかしたら救ってほしいのは自分なのかもしれない。あのとき彼女たちを助けられなかったこの苦しい想いから、救ってほしかったかもしれない。
それでも、助けられなかった二人のことを思って、祈った。
会いにいくよ。
そう思って心で法子に伝えたが、それは正解なのか。
今生きているのは、こうして子供を授かり妻と平凡に暮らしているのは、法子のおかげ。
なんと言っていいかわからない。ありがとうなのか、ごめんなのか、怒ってほしいでも、向こうの世界で幸せに、許してほしい、でもない。
僕はまだ生きている。生きていることに、後悔が大きい。なぜ、いなくなったのが法子なのだろう。僕は生きていていいのだろうか。
死んで、彼女に会ったとき、どんな顔をすればいいのだろう。なんと声をかければいいのだろう。
「健さん、未来のことは、そのときに考えましょ」
妻の言葉で、そうだね、とその場を離れた。そのときに考えればいい。たしかにそうだね。でも、そのときは必ず来る。
ああ、そのときが来たとしても、僕は地獄に堕ちて、法子たちは天国だから、やっぱり会えないかな。
「拝んでくれておおきになぁ」
通りかかったおばあさんに、声をかけられた。多分、地元の人だ。
おばあさんが教えてくれた。このお地蔵さまは、土地神さまとして道路わきにたたずんでいるお地蔵様。観光客の多いこの地を守るため、または旅人の安全のために、ここで見守ってくれている、と。
そうか、水子供養のお地蔵様とはまた違うのか。
なにかあると繋げてしまう。法子のことに。
妻がいるというのに。
「ごめ」
「謝らないという約束は?」
「ごめ」
「約束は?」
「はい。ありがとう」
僕はいい妻を持った。
お地蔵様、この地を守るためにいらっしゃるならば、大きな罪をかかえた僕なんて入ってきてほしくなかったですよね。でもどうか、お願いです。
賽の河原にいるはずの、法子と僕の子供を、救ってください。
賽の河原というのが本当にあるかわからない。そういう話はしない。話題として患者を不安にさせるから。だが、迷信じみたそういう話は入ってきてしまうもので、知ってることだった。
「わたしも一緒に、背負うから。半分こよ」
「うん」
妻はにっこりと笑った。垂れ目がさらに垂れて、やさしい笑い方が好きだ。法子は釣り目なのがちょっと下がって、力強い笑い方だったな。
「ねぇ、もし法子に会ったら」
新婚旅行にふさわしくないとはわかっているが、聞かずにはいられなかった。
「君はなんと声をかける?」
妻はううんと唸る。ぽん、と出てくるかと思った。見た目に反して、きっぱりと質問に答えてくるのが常だったから。
「わからないわ」
さすがにこの問は難しかった。正解がない。
そう、正解がないし、教えてくれる人もいない。僕が救ってほしいのは、自分ではないのか?
「そろそろ行くわよ」
「たくさん神様仏様がいるんだから、たくさんご挨拶して、協力を頼みましょ」
すっきりするように、と妻は僕を引っぱった。法子とは異なる意味で、力強い妻だ。
妻の言う通り、たくさんの場所をまわり、たくさん食べて、見て、楽しんだ。よい旅だった。
法子、僕は……
帰りながらの電車で、僕は考える。隣ではすぅすぅと眠っている妻がいる。下がりかけたブランケットを慎重にひっぱりあげる。
なんと声をかければいいのかな。
法子はなんて言ってくれるのかな。
今の僕を見て。
見てるんだろう? 空から。
なにも浮かばないんだ。わからないんだ。
診療なら、だいたいに答えが出るのに。あいまいでも、近い答えがある。
心配ないこと、気にしたほうがいいこと、伝えるべきことは必ずあって、口にできるのに。
なぜ、君のことになると、口が動かないんだろう。
君が消える前、最後に一度でいいから会いたかった。
そう思っていた。
でも会ったとして、僕はなんと言えただろう。
それとも、法子になにか言ってほしかったのだろうか。
わからない。
お地蔵様、僕の心のしこりをどうか、溶かすお言葉を、ください。
影のような手が離れる。
この人は、法子の愛した人だ。
ずっとずっと、忘れずに、想っていたのだ。
それを彼女が知ったら、喜ぶだろう。
お兄さん——健はまだ生きている。だが、後悔が大きい。答えが見つからない。なんと言えばいいのか、言うべきだったのか、言ってほしいのか、わからないのだ。
救ってほしい。
ただそれだけではあるが、救ってほしいのは残された未練も同じこと。大きな後悔が、他の故人の未練とつながってしまった。未練を果たすために、この影のような未練は、生きているものの力を欲すると真言はいう。それがお地蔵様の口のまわりの手になっている。
お地蔵様の口を塞ぐ手は、塞ぐのではなく開けてもらい、救いの言葉を、なにかの答えをいただきたいがための、未練の集合体。一回目と同じく手ではあるが、求めるものが大きく異なる。
お兄さんは、なにを言っていいのか、なにを言ってもらいたいのか、わからない。なにかしら、法子からの言葉がほしい。助けてください、




