4.
民泊に戻ってきた頃には、観光客がどんどん動き出している時間だった。途中、朝ごはんを買っていたこともあり、想定していた時間には間に合わなかった。
特に声をかけずに鍵を開けて入る。ただいまもどりました、と言いかけて、すぐの部屋に誰もいないことに気づいた。
——まだ、起きてない?
シャワーを浴びている可能性も考えられなくはなかった。昨日シャワーを浴びたのは傷の手当のためで、清めるためではない。すぐに就寝した。だが水の音がしない。
こっそり隣部屋への襖を開けてみると、まだ布団に横になった人の姿があった。エアコンは効いているため、この暑さでも快適に寝ていられるが、あまりに遅くはないか。
毎日の睡眠時間が何時間かは知らない。でも体内時計が一度は目を覚まさせるはず。時間を見れば、詠なら起きると思っていた。
襖を大きく開け、障子と日よけを開け放つ。これだけ光と音が入れば、目が覚めるのではないか。
目が、覚めない。動かない。
怖くなった真言は詠の顔にそっと触れてみた。生きている人間の温かさがある。布団から出ていた手にも触れてみる。脈はきちんと、正常に打たれていた。
生きている。
なぜ、こんな当然のことに安心しているのだろう。
目が覚めないだけで、なぜこんなに怯えているのだろう。
高くなった陽が照らす詠の顔は、ほんのりと曇っているように見える。疲れが溜まっている。隈もある。これは、今日は、やめよう。真言は決めた。
「詠さん、」
ずしんと体が重い。頭に霧がかかったようにはっきりしない。まだ布団でごろごろしていたい。
「詠さん、」
それでも、呼んでくる声がある。
「朝です」
そんなことはわかっていた。これだけ明るければ……
——あっ
「仕事! 寝坊?!」
勢いよく体を起こした反動か、眩暈がしてバランスが崩れた。たとえぶつかるのが布団でも痛みはあるはずだが、なにかに支えられて防がれた。
「今日は休日、土曜。任務に来たんだよ」
「あ…… そか」
そのまままた、横にされた。なにも話さなければ、また眠りの沼に沈んできそうだ。
「あ、ごめ、早朝から動くんだったよね」
「場所は見つけた」
「ひとりで? ごめんね、寝坊して」
「今すぐ帰ろう」
「え?」
場所を見つけたならすぐに向かい、終わらせて、ほんの少し観光して帰ればいい。だが真言は帰ると言う。
「なんで、行こ、せっかく来たんだよ」
「そんな体調だよ。場所が見つかったなら、また来ればいい」
「お金も時間ももったいないよ」
「詠さんの体のほうが大切」
きっぱり言い切る真言。真剣さが伝わってくる。心配も含んでいる。これは嬉しいことだ。
だが、
「見つけたなら行こう」
これは曲げない、詠の意思。未練があるなら、早く断たなければ、苦しむ魂がいるのだから。
「帰るなら一人で帰って。私は行く」
「でもそんな体で」
「嫌なの!!」
大きな声が出ていた。
「あんな気持ちで終わらせたくないの! せめてここで、他のことでも、きれいにさっぱり、終わらせて、すっきり帰りたいの!」
「ごめん、僕が余計なことを」
「言ったね!」
真言がびくりと震えた。触れていた手から真言の手が離れる。
「ものすごく、心が重くなった。私自身に未練ができた。断つことができない未練!」
真言は無言で、俯いている。
「だからね! 行くの! 次のをきっちり終わらせて、プラマイゼロで終わらせるの! いい? だから早く場所教えろ一人で行ってくるから! そんであんたは帰って! あんたなんていなくてもなんとかなったって報告待ってて!」
首根っこを掴む勢いは強かった。自分に言い聞かせているものだと二人でわかる。
「僕がいなければなんともできない」
「なに?」
思い切り不快感をぶつける詠。顔色は悪いままだが、言葉と威勢だけは強いままだ。
「僕が教えないと、詠さんはそこまでたどり着けない」
今度は詠が口を噤む番だった。
「だから僕も行く。連れていく。詠さんが危ない時は助ける」
約束だから。
「わかった。すぐに準備し」
ぐぅぅぅ、
詠のお腹が鳴る。かぁぁ、と顔が赤くなった。顔色が良くなった。別の意味で。
「有名店のお弁当、買ってきた」
真言が視線を向ける先には、ほんのり湯気が立ち上るビニール袋があった。
一緒に食べる。和食で、朝から胃にやさしいおかず。やわらかめのお米。元気を取り込んでいる気分だった。真言はほんの少しではあるが、詠の顔色がよくなったと思った。
だが安堵してはいられない。もう一件、やるべきことがあるのだ。
さぁ出発。
民泊先にお礼を伝え、バスで移動、下りたら自転車をレンタルしてまたがった。漕ぎながら会話をする。見つけた地蔵のことだ。
「というかんじで」
真言自身の勝手な想像だが、どうに見えたかは伝えておこうと話した。話しながら、後ろについてくる詠の様子も確認する。昨夜のように自転車をこげないほどではないようで、会話をしながら進んでいける。
「お地蔵様にも未練がたかってるなんて」
「そもそもお地蔵様は神仏だから」
「え、神なの仏なのどっちなの」
「菩薩であって仏とも言われるし」
「だからどっち?」
「神仏習合ってやつ。神様と仏様が合体した、みたいな」
「んんん、ま、どっちでもいいけどお地蔵様もそういう類ってわけか」
「なんか罰が当たりそうな言い方」
だが詠の言うように“そういう類”だからこそ、未練がまとわりついていることになる。
「口塞がれたら、お地蔵様も苦しいよね。未練もそうだけど、お地蔵様にもお勤め果たしてもらえるようになってもらわなきゃ」
「そうだからきっと、詠さんなんだな」
「なに? 聞こえない!」
「なんでもない」
今回は真っ昼間で、人が多い休日になにかをすることになる。観光地だからこそ、なにかがあったとしてSNSにアップする人間もいるだろう。
そういうときの言い訳を考えておいた。昔、旅行のときにこのお地蔵様にいたずらをして、罰があたったことがあると。だから探しに来て見つけて。涙はごめんなさいの意。
詠に不名誉な気がしたが、それで本人はよしとした。ただ、真言が付け加えた涙の件に詠は文句をつけた。泣いてるのはいつもではない、と。
たしかにいつも泣いているわけではないが、今回は昨夜のこともあり、きっと泣いてしまう。真言はそう思ったのだ。
歌って聞いていた人がいたなら、あのとき気に入ってた曲だよね、となだめるふりをして真言がフォローする流れになっている。
実際に近くなってきて、遠くにお地蔵様が見えてきた。有名観光場所のなかでも有名な場所から少し離れているからか、そこまで多くはないが、人の足は途切れない。
なにか起きてしまって見てしまったとしても、この人たちが見て見ぬふりをしてくれればいいのだが。現代、情報は光の速さで伝わる。“炎上”という単語に新たな意味を持たせ、怖い単語にさせている。なにかあっても、こっちの面も真言は助けようと、しっかりと対応策を練り始める。
きゅ、と自転車を止めた。
「わぁ、ほんとに手だ」
詠は特に怖いという感情を抱いている様子ではない。
「ただなんか、太いしさ、絶対話すもんか! みたいな意思がありそう」
「でしょ」
「ぶっといし、動かないし。これはどうしたものか」
まずはお地蔵様にご挨拶。花はこの暑さで持たないだろうと、小さなペットボトルの水と溶けないお菓子を買ってきた。お供えものだ。
いつも詠が形をもった未練に迫られ、送られてきた未練の想いに共感することで記憶が共有されている。だが地蔵の口を塞ぐこの手は、詠に向かってなにもしない。
「いつも触れてからなんぼだったからなぁ」
あ、と詠が思いついたように声を出す。
「それなら私から触ればいいんだ!」
「え? そんな簡単に触れちゃだ」
め、と言う前に詠は、口を塞ぐ太い手をもう掴んでいた。触れると言っていたが、これでは手を離せと思い切り引っ張っているかたちだ。
始まってしまった、と思った。まだなにかがあったわけではない。はたから見ればきっと、お地蔵様のお顔の横で両手をグーにしているだけだ。
とはいえ行動はおかしい。
「ちょっとどかしなさぁい、この手を! お地蔵様が苦しいでしょうがぁ!」
口に出ている。ぱっと周囲を確認するも、とりあえず今は見て見ぬふりで通り過ぎる人の足。
「なんで言いたくないのかなぁ? それとも言わせたくないのかなぁ?」
人の目も気にせず一人ふんばる詠の姿を見て、真言はどうにもできない自分を恥じる。
「昨日は余計なこと言って、ごめん」
ふと、詠が振り返った。でもすぐにお地蔵様に顔が戻る。
「次はないぞ」
真言はそれを、許す、と受け取ることにした。
まずすべきは、未練を断つことだ。
「なんて言っていいのかわかんないけどねぇ、こう、心がもやもやってちくちくってするのをどうにかしたいのよぉう、自分のためなんだけどねぇ! 協力しなさぁい!」
本当は、傷ついた心が嫌だと言っているはず。
たしかに自分のためと詠は言っていたが、それはうまくいけばの話であって、怖いはずだ。もしかしたら、がもう一度、続いたら。
それこそ、恨まれる。
「後ろの男にも、なんて言っていいのかわかんないのよこの感情! あんたらもお口にチャックじゃなくて、開けて話してみぃ! 名前がつかないなにかなんてごまんと」
——あ
詠が掴んでいた手が、地蔵の口から離れる。その手は、詠の片手を引っ張り、もう一方の手は顔に伸びる。
——きた
口を塞がれると思ったが、違った。手は、詠の額にぺたんと張り付いた。
——あれ、なんであったかいんだろう
今までにはない感触を不思議に思いつつ、詠は手に意識を向ける。
——聞かせて、見せて、誰だかわかんないけど、あなたの未練




