3.
岩の手がほどけてくる。小さなヒビができたと思ったら、だんだんと広がり、がらがらと岩から石に大きさを変えてきた。
詠は握られた手で体が持ち上がっている。はたからどう見えているかはわからない。が、もし事実持ち上がっていたら、石に変わって崩れた場合、落ちることになる。
どしん、
反対の手にあった金棒が、崩れ落ちた。
この手も、どんどん壊れていく。このままでは。
石が粉々になる。砂になる。そして、落ちて、
「詠さん!」
どん、と衝撃があったが思ったほどではなかった。落ちる寸前に真言が体当たりしたようだ。地面にぶつかってはいるが、擦り傷でどうにか済むくらい。
「大丈夫?!」
「ありがと待ってそれより」
まだ形を保っているのは、顔だった。だんだんと岩が風化したようにさらさらと形を変え、女性の姿になった。まだ高校生の法子。でも立派な女性だ。母親の顔とは、こういうのをいうのだろうか。
「会いたい」
「でも、会えない」
「なら、早く迎えに行ってあげてください。待ってます。あなたの子が」
実際に生んだわけではない。おなかに授かった命。儚くも消えてしまったが、命であったことに変わりない。
なら、母親が恋しい赤ちゃんは、待っている。絶対に。
——ぃぇあ、ぃぃあ
赤ちゃんの泣く声。どこからか。
「あたしの娘? どこ?!」
法子は探し始める。岩から離れられないのか、そこを動き回るだけだが、声のもとをたどる。
と。
ぁぁあ、いぁぁ、
岩が、ちょうど法子の腕に収まる小さな岩が、赤ちゃんのかたちになった。
「あ、あれって」
生まれられなかった魂も、未練があったのか。
真言はなにも言わない。
——あれは、法子の子供?
ふわふわと飛んできた子供を、法子はキャッチする。やさしく、包むように、傷つけないように。
やさしく、やわらかく。
「会えた、会えた、やっと」
「あたしの、子」
この赤ちゃんは、記憶で見た、法子の夢の赤ちゃんそっくりだ。
「迎えに来てくれたの? ありがとう」
法子の頬に涙が流れる。泣いていた赤ちゃんの涙は止まり、泣き声もだんだん小さくなっている。
「あなたの父親はね、とっても素敵な人なのよ。あたしをあたしだってわかってくれる人なのよ。あたしも、あなたがあたしの子ってわかったよ。夢オチじゃなかった」
話し始めると、それが子守歌だったかのように、赤ちゃんはすやすやと眠り始めた。
「名前、まだ考えてなかった。それは帰ってからでいい?」
赤ちゃんに聞いている。迎えに来てくれた赤ちゃんと、帰るのだ。それなら。
帰ろう、帰ろう。
この子には、帰る場所がある。その母親であるあなたはもちろん、帰る権利がある。
テンポがよく、楽しい感じのこの曲は合わないかもしれない。でもこれで、心置きなく帰れただろう。
だって、大切に娘を抱えた法子が、岩でできた階段を上っていったから。
「ふぅぅぅぅぅ、夜にがんばったぁ、早く寝たいいいい」
「お疲れさま」
「死んじゃった赤ちゃん、来てくれてよかった。ほんとに抱っこできたよ」
「その赤ちゃん、ほんとにその人の子供なの?」
「え?」
そう言われると、どうなのかわからない。
勝手に思い込んでいた。法子が見た夢の記憶から入ってきたその赤ちゃんは、あんなかんじだった。だが、生まれたての赤ちゃんとは、みな見た目は同じような気がする。取り違えがまれに起きるくらい。もしも、違ったとしたら、本当の法子の娘の魂はどうなる。
あの赤ちゃんは、子供を求める母に引き寄せられてきたのだとしたら。もしそうだとしたら。二人とも救われた。だが心に残るものがある。本当の赤ちゃんは。それでいいのか。
「どうして、そんなこと、言うの」
それこそハッピーエンドだと思ったところ、今夜の任務は終わったとすっきりしたところ、それこそ詠自身に未練が残る。確認などできるはずもない。
夢で、助産師は娘だと取り上げていたし、法子自身も娘だと思っていた。だから女の子と信じて疑わなかったが、男の子だったらどうなる。
岩の積みあがった壁は、もとどおりになっている。ひとつが、ころんと落ちた。詠の心に、重みを残すように。
「ごめん、会いたかったなら、会えたんだから、いいんだよね」
「よくない」
——よくない!!
多分、岩から救われた後、真言に見えたのは法子が嬉しそうに赤ちゃんを抱くところだろう。会いたかったと表現するのもおかしくない。
けど、実際はそうじゃない。自分で生んで、育てて、あのお兄さんと幸せに生きることだったのに。
——違う。まったく違う
——あの赤ちゃんが、法子の娘でありますように
祈ることしか、できない。
「宿、戻ろ」
「……うん」
お寺に挨拶を済ませ、自転車に乗る。
苦しいと痛いと、伝わることがわかった。そういえば蔦のときも、触覚はあった。あれらに捕まると、傷は残ると実感した。泥のときはびしょぬれにさえならなかったが、冷たく息苦しく、重かった。
落ちたときは、ほぼ真横に落ちてくる体に追突するかたちで真言が押してきたことで衝撃は小さくなったが、背面に傷ができている。それ以外には、顔、腕、足の側面など、落ちたときとは関係ないところに、やすりで削ったような傷がところどころにある。
意識が足りなかった。もっと気をつけなければならない。
ゆらゆらと揺れる意識で、自転車を漕ぐ。途中でめまいに襲われ止まり、心配され、押して帰ることになった。タクシーを提案されたが断った。
宿には誰もいない。民泊の主は別の家に住んでいるらしく、たまたま会えたため「おかえり」と迎えてくれたが、戻って来たふたりを見て、驚いていた。自転車でこけたと説明したら、手当の用品をくれた。
おかえり、の一言はとても心に沁みるものだと、改めて感じる。
お風呂に入って手当して、そのまま布団に直行。ホテルより寝やすいと感じたのは、家庭的な雰囲気があるからだろう。すぐにでも寝たいと思っていたのに、なかなか寝付けない。
——ほんとにあの子の娘なのか
——違ったらどうする
そんな考えが頭をぐるぐると回る。答えが出ない。どうにもできないことをやらかしていたら。
——どうしようどうしようどうしよう
法子はそのまま、あの子を自分の子供としていくだろう。
自分がやったことが合っているのか。
——誰か、教えて
——教えて
うずくまる体をつたって、顔に真横の線が、つぅ、と一本作られた。
自分のせいで詠に悪い想いを抱かせてしまったことを、真言はすぐに気づいた。だが、声に出してしまった後。もう戻せない。
恨まれているかもしれない、怒っているかもしれない。
こちらの都合に付き合ってもらっているのに、泣かせるようなことをさせてしまった。うまくいってよかった、とそれだけ言えればよかった。
詠は人の心に敏感なことはとうに知っていた。だからこそ、お願いしたのに。
体を震わせないよう、声が出ないよう、とても気を遣っているのが隣から伝わってくる。部屋は別にしたが、いつもならすぐに寝てしまうはずの詠が寝ていないことに気づき、そっと耳をそばだてていた。
「ごめん」
明日、いや、今日ももう一件、行く。羅針盤の針は、昨日と違う一点を指している。鎖を持つと、ダウジングのように動いた羅針盤はこの土地を選ぶ。
「ゆっくり、休んで」
せめて、詠の心が落ちつき、疲れがとれるように祈って、真言も布団に入ったのだった。
翌朝、真言はこっそりと起きた。隣の部屋に眠る人は襖を開けても気づかない。今日は早朝から場所探しをする予定だったが、一人で行くことにする。自転車を借りて、羅針盤の示す先へ走り出す。
夏の早朝、すでに太陽は昇り始めている。あと数時間ですっかり顔を出すだろう。その前に、場所だけでも確かめておきたい。そして、観光客が増える前に、詠を連れてくる。
本当は今も一緒にいるはずだった。見つかればその場で実行。だがそれはできない状況だ。すぐに寝付けなかった詠を、休ませなければならない。疲れは精神力の面だと詠は言っていたが、多分、それだけではないと、真言は踏んでいる。まだ確信がないから言わないけれど。
自転車を針の方向へ走らせてはや一時間。途中にあった神社もお寺も、いくつも通り越した。あまりに多いから、見つけにくい。でもこのあたりだ。
もしかしたら詠が起きてしまうかもしれない。誰もいなかったら驚くかもしれない。メモ書きは残してきたが、突然心配になった。
——戻るか
ここまで来たなら、一度バスを使ってそのあとに自転車でもなんでも使えばいい。
そう思って自転車を止めたところに、お地蔵様がたくさん並んでいる場所があった。道端にお地蔵様が並んでいるのはよくあること。丁寧に笠も被されている。前に花があげられた形跡もある。この暑さですっかりだめになってしまっていて干からびている。水もあるがこれも乾いてしまっていて、中身のないただのワンカップだ。
花がこんな状況だ。こうして存在を維持してくれる人は少なくなっているとよくわかる。神社や寺だけではないのだと、思った。
胸があたたかくなった。
そこは、シャツのポケットに羅針盤を入れているところだ。もしや。
見れば、羅針盤はぴたりとここを指している。一周体ごとぐるりと回ってみたが、その周辺にいくつもあるだろう神社仏閣を指しているわけではない。針はずっと、このお地蔵様を指していた。
見つけた。
お地蔵様の影が、手となり、お地蔵様自身の口を塞いでいる。言わ猿を見ている気分。この影は、未練とは違うかもしれない。だがこうして見える以上、羅針盤が選んだ場所は、ここなのだ。
太陽はこれから高くなる。影が小さい。人は多いかもしれない。だが真昼のほうが、危険は回避しやすいのではないか。
とにかく民泊に戻ろう。場所はしっかりと覚えた。見られたからといって、未練は動かない。こんなにきつく口を塞ぐのだ。言えないこと、言いたくないことがあるのだろう。
思い込みをさせるのはいけないが、見解だけでも伝えようと、真言は自転車を走らせた。




