06
盛大な音がして、家が揺れた。
一瞬、鍵盤を叩く指が止まる。逡巡した後、聞かなかったことにして、私は再び指を動かした。
ちょうどいいところなのだ。もう少しで、 靄 のように曖昧なものに、美しい形がつきそうなのである。
音の正体は気になるが、どうせ今の音と揺れ具合から推測して、碌なことにはなっていない。嘆くのは後でも出来る。優先させるべきは、目の前の作業だ。
だが数分後、遠慮がちにドアがノックされたことで、半強制的に私の作業は止められることになった。
半ば諦めた気分で返事をすると、アンドロイドが恐る恐るという 体 で、ドアの隙間から半分だけ顔をのぞかせる。
「マスタ、ボクですよ」
「解ってるよ」
「あのですネ、実は」
「今度は何をやらかした?」
アンドロイドは、わざとらしくエヘヘと笑った。
よほど後ろめたいことがあるらしい。私は本格的に作業を諦めて、鍵盤の前から立ち上がったのだった。
リビングを見て、絶句する。
一部、床が見えない。ああ――――否。訂正しよう。
一部しか、床が見えない。
「……何をやったの」
元は二十畳ほどの石畳だったはずだ。それが今や、見る影もない。
「あのネ、そこにかかっている、時計のね、ネジを巻こうとして、ね、ネ」
アンドロイドは、リビングの奥を指差して言った。そこには、忘れられたように壁にかかっている柱時計があった。
「なるほど」
止まって久しい時計のネジを、巻こうとした。それはいい、理解できた。しかし、何故?
「玄関のドアまで、壊れているんだ?」
倒された本棚。その向こうに食器棚。真っ二つに折れている木のテーブル。床にはその木片のほかに、硝子。舞う紙片。それに小物が散乱。カーテンまで破けているし、ついでとばかりに窓ガラスも割れている。どこを見ても、いちいち大事だ。頭を抱えた。
いくら古いとはいえ、テーブルなんかは、そう簡単に真っ二つになったりはしないと思うが、それより何より一番理解に苦しむのが玄関だった。アンドロイドの指差す柱時計は、玄関とは対称の、一番奥にかけられている。巻き込みようがないと思うのは、私だけだろうか。玄関の板は凹み、蝶番は外れ、プラプラしている隙間から、外の風景が見えている。
「巻こうとして、巻こうとして、ネ」
壊れた旧式のオーディオのように、アンドロイドはそこから先を言おうとしない。仕方がないので、続きは私が引き取った。
「巻こうとして、隣の本棚を倒した?」
「うん」
「それで慌てているうちに、反対側の食器棚にもぶつかって、こっちも倒した?」
「うん」
「二つの棚がテーブルにぶつかって、テーブルも壊れちゃった?」
「うん」
「おろおろいていたら、床の紙切れで滑って転んで、カーテンを掴んだら、カーテンも破けちゃった?」
「うん」
「で、玄関に倒れこんで、中途半端に体当たりしたもんだから、玄関までがこの有様か……」
なるほど、理解した。理解しがたいが、アンドロイドは慌てふためき、踊りながら玄関まで突進していったのだ。溜め息をついていると、アンドロイドは眸を輝かせながら喚起の声を上げた。
「すごい! マスタ、何で解ったの? もしかして見てた?」
「バカタレ」
小突くと、アンドロイドは痛そうに顔をしかめた。アンドロイドが玄関を壊すのは、これで二度目だ。溜め息だって吐きたくなる。堅牢なはずの玄関が易々と壊されることについて、研究でも始めたほうがいいのかもしれない。
さて、これをどうすればいいのか。どこから手をつけていいのかも見当がつかない。
頭を抱える私の様子に、反省したのか、アンドロイドが不安げな顔で見上げてきた。溜め息をつく。
「怪我は?」
問うと、アンドロイドは不思議な顔をした。
「あるの?ないの?」
「えっと、ココ?」
今、私が小突いたところを指差す。
「バカタレ、他にだ」
「ナイです」
「そう」
アンドロイドといえども、 躰 の強度は人間と大差ないはずだ。切れば簡単に裂けるし、折れる。これだけのことをやらかして、無傷というのは結構なことだ。私は安堵の息を吐いた。
「仕方がない、片付けるか」
嘆いていても片付くわけじゃない。片付くまでの過程を考えると途方に暮れるが、やらないと終わらないのだ。こういう時に限って、貴重な人手、隣の家に住む、お隣男は出張でいないのだった。
そんな私の傍らで、アンドロイドはにこにこと笑顔だった。さっきのしおらしさはどこへいったのか、反省しているのか、していないのか。問うように睨むと、途端に顔色を変えて慌てだす。
「ボ、ボク、かたづけるの、手伝います!」
「当たり前だ」
あたふたと駆け回りだしたアンドロイドだが、その途端、床に散らばっていた紙片に足を滑らせて、宙を跳んだ。
あ、と思う暇もない。ぶつかった先は、中途半端に破損している玄関のドアだった。
ちょうど良いところにあったのだろう。ドアノブを掴んで、体当たりを食らわせる。
辛うじてつながっていた、最後の蝶番が、根こそぎ取れた。ドアは、体当たりをしたアンドロイドと一緒に、そのままバタンと向こう側に倒れた。沈黙が降りる。
玄関が、なくなった。
もはや私も、アンドロイドも声を発さなかった。
言いようのない虚脱感が私を襲い、アンドロイドは外れたドアと、ドアノブと、私の顔を順番に見比べて、顔色を蒼くしていく。
涼風が一陣、ドアの消えた玄関から入り込んで、散らばった紙片をひと撫でしていく。私はアンドロイドを手招きした。
「怪我は」
「ナイです」
「ちょっとこっちに来い」
「ハイ……」
アンドロイドに正座をさせて、私は仁王立ちになった。
「玄関までなくして、今晩、戸締りどうするの」
呆れが怒りにシフトしていく。
「部屋をひっくり返した直後だっていうのに、慎重に動こうとか思わないわけ?」
アンドロイドはドアノブを持ったまま、小さくうな垂れている。
「だいたい、時計だって無理に取ろうとしないで、台に乗るとか、頭を使え。高性能な思考演算装置がついているんだろうが」
「……ハイ」
「悪いと思ってんの?」
「……ハイ」
「じゃあ、何か言うことあるんじゃないの?」
そう言うと、アンドロイドは泣き出しそうな顔を上げた。
「『ごめんなさい』。悪いことをした時は、まず『ごめんなさい』だ。相手にちゃんと伝えること。いい?」
「……ごめんなさい」
「もう一回」
「……ごめんなさい」
「まったく、リビングが壊滅状態じゃないか。どうすんの、これ」
「……ごめんなさい」
「バカタレ、あほ、まぬけ」
「……ごめんなさい」
「ったく、締め切りが近いってのに余計な仕事ばっかり増やして。ここら辺の粗大ごみと一緒に出してやろうか」
何を言っても大人しく項垂れているのが面白くて、つい口が滑ってしまった。さすがに言い過ぎたとアンドロイドを伺うと、案の定、眸に涙を溜めて、私を見ていた。涙を流す機能までついているのかと関心する一方、その様子があまりに可笑しかったので、私は思わず噴き出した。
「ま、マスタ……」
「ごめんごめん、調子に乗りすぎた。今のはなしで」
私が笑うのと反対に、アンドロイドは泣き出してしまう。
「マスタ、ごめんなさい、ごめんなさい、捨てないで!」
泣いてすがりつかれる。どうやら最後のが効いてしまったらしい。怒りに任せて口が滑ったとはいえ、さすがに言い過ぎてしまった。私も少し反省をして、泣き出したアンドロイドの頭をなでて、を宥めてやった。
「捨てない捨てない。さっきの『ごめんなさい』で帳消しだ。私も言い過ぎた。ごめん」
頭をなでると、目の周りをびしょびしょにしたアンドロイドが、私を見上げた。うわ、目だけじゃなくて、顔から出せるものが全部でている。
変なところまで高性能だなと笑いながら、シャツの袖でぬぐってやると、ぐずりながらもアンドロイドは泣くのをやめた。
「さて、しょうがない。あとは頑張って、綺麗に片付けるぞ」
そう言うと、アンドロイドは涙を拭いながら笑って、「ハイ」と応えた。