第八話
「なぜ。今になって私の封印を解こうとしてくださったのですか?」
ドクン・・・!喉の奥で心臓が跳ね、耳の奥にまでドクドクと不快な音が響く。エリアスは、一度唾を飲み込むと、ぎこちなく微笑んで見せた。
「そうですね。率直に言いますと、このヴァルド家は、姫の封印を解くために何世代にも渡って、城の探索を続けていたのです。あなたを自由にすること。それがヴァルドの使命だからです」
アルフリーダの視線が、食い入るようにエリアスを捕えてくる。その不安とも、緊張とも取れる表情の中に、一つの言葉が浮かび上がっている。
”それであなたは、自由にした代償に、私に何をしろと言うのでしょうか?”
エリアスは木のスプーンを置いて、アルフリーダの目を正面から受け止める。紫焔と呼ばれる、王族にのみ受け継がれる紫色の瞳。幼いころから人としてではなく、姫として生きることを教育されてきたのだろう。その眼差しは、王や国に自分の立場を使われることを当たり前とする、悲しい輝きを秘めていた。
「城には死ぬことのない騎士、ノクスベインがいるのに。ですか?」
エリアスは頷いた。
「なぜ、そこまでして・・・」
アルフリーダの声は静かだったが、そこには疑念と警戒の色が滲んでいる。心なしか、鎧戸の隙間から入って来る、町のざわめきすら小さくなった気さえする。
「あなたは、ずっと囚われておられた。魔法による封印だけでなく、姫と言う立場があなたを王家に縛り付けてきた。王も国も失われた今、あなたは自由になるべきだ」
言葉に嘘はない。だがエクリア=ノクスについて聞かれたら、どう答えればいい?私は自由になりました。剣を返してください。と言われたら?
「時間がかかりましたことを、お詫びしなければなりませんね」
テーブルの下で、固く握った拳に汗がにじみ出る。祖父の言葉が、脳裏で繰り返される。
”紫焔”無き者が使えば、即ち死あるのみ。
その言葉には肝心の事が語られていない。
”紫焔を持つ者には、エクリア=ノクスの力は脅威ではない”。などとは、祖父の口から聞いたことはなかった。どころか、どんな文献にも書かれていない。
あの剣が、正当な持ち主を傷つけない保証がどこにある?
エクリア=ノクスの力を身をもって知った以上、彼女にあの剣を返すことが無性に躊躇われる。アルフリーダがエクリア=ノクスで傷つくところを見たくない。例え使わないとしても。
「あなたのその言葉は、嬉しく思います。ヴァルド家の方々にも、感謝いたします。でも、・・・こう言っては、失礼ですが、あなたにどのような”利”があるのですか?」
テーブルの上で細い指を組み合わせ、アルフリーダが一歩踏み込むように問いかけてくる。まるで、剣を構えての睨み合いから、一撃を繰り出すように——
エリアスはその一撃に抗うつもりはなかった。ただ重い盾を掲げるように、アルフリーダの眼差しを受け止める。その衝撃に耐えながら、エリアスは己の澱んだ願いと、それとは全く対照的な、濁りのない光とを同時に見ていた。
自分の形がどれほど歪でも、その動機がどれほど利己的なものであったとしても。
これだけは、間違いなく真実だ。
「あなたが自由でいる事は、ヴァルドの使命を果たされたという事。それが私の誇りです。ただ一つ、私に”利”と言うものがあるのなら・・・。婚約者として、そして騎士としてあなたの隣に立つ事、でしょうか。それ以上の誉れはありません」
アルフリーダの唇が、キュッと引き結ばれた。組んだ指先が、何かを言いたげに微かに動く。
「もしあなたがご自身の生き方を見つけ、その道に私の存在が不要と思う事があれば、いつでも婚約を解消して下さって構いません。あなたが自由であることに、変わりはないのですから」
大きく見開かれた瞳はエリアスを射抜いたまま、彼女はしばし言葉を失った。やがて、引き結んだ唇が解かれ、小さな息が漏れる。
「婚約を望んだのは私自身です。この婚約があなたにとって誉れであるなら、あなたの誠実さに支えられることが、私にとっては何よりの救いです」
彼女の声は柔らかく、静かな温もりを帯びていた。その温もりが、エリアスの胸の奥で張り詰めていたものを、少しずつ溶かしていく。
「それに、もう誓いを交わしてしまいましたから、逃げられませんよ」
アルフリーダが、クスクスと年相応の女性らしく笑った。
「ええ。逃げるつもりはありません」
二人の間に今では緊張も駆け引きもなく、ただその余韻だけが甘い粥の香り混じって漂っていた。
視線が痛い・・・。
周囲から、チラチラと向けられるもの言いたげな視線。エリアスは、極力気づかぬふりを通していた。鎌を振り、麦を収穫する。その麦穂の隙間から、あるいは鎌を振るう瞬間に、こちらを窺う視線がずっとエリアスを追いかける。
いい加減イラついてくる。しかも連中ときたら、こちらと目が合ったとたんに慌てて視線を逸らす。アルフリーダのくれた言葉が、エリアスの胸を奥底まで晴れ渡る気分にさせてくれていたのに、この視線と態度のせいで、徐々に曇っていく。そうでなくても、今年の夏は気温があまり上がらず、収穫が遅れていると言うのに。
エリアスは手早く、そして黙々と麦穂を纏めた。
「なあ。エリアス?」
都市内部の広場に運ぶため、麦の束を荷車に積んでいた時、農夫の一人が声をかけてきた。年長者のヨハン。その少し探るような声に、エリアスはいつものように視線だけで答えた。
彼は、言うなれば耕作地の老騎士だ。秩序を守る風格を漂わせている。そのヨハンが、太い両腕を組みながら、エリアスを見据えてくる。
「昨日、お前が女を抱えて行くのを見たんだが・・・。どういう関係なんだ?」
やっぱりか。エリアスは内心で、うんざりだと溜息をついた。
「彼女はアルフリーダ。俺の婚約者だ。頭が痛いと言っていたから、抱えて行っただけだ」
日に焼けて皺が刻まれたヨハンの顔に、驚きが浮かぶ。婚約者?お前に?そう顔に書いてある。
「そ、そうか。だが町の者の中では噂する者もいる」
「噂・・・だと?」
視線が意図せずに鋭くなる。気がつくと周囲の者達も黙って作業するふりをして、こちらに聞き耳を立てている。
「俺が、彼女を誘拐したとでも?」
「いや、そこまでは言うつもりはねぇ。けどお前が連れてきた女、大層美人だったそうじゃないか」
美人だから何だって言うんだ。苛立ちがエリアスの胸を噛む。
「女じゃない。アルフリーダだ」
「はい。呼びましたか?」
突然アルフリーダの声がかかり、エリアスは無論、ヨハンまでもが飛び上がる勢いで振り返った。
アルフリーダは頭から灰色の頭巾をかぶり、手には籠を持っている。
「ごめんなさい。お話し中に」
「いえ。どうかしたのですか?」
アルフリーダの顔がパッと明るくなり、エリアスに布巾がかかった籠を差し出してきた。その手つきすら優雅な流れのようで、その場にいた者達の目を否応なしに引き付ける。
「今日は、お忙しいのでしょう?収穫が遅れていると、隣の御婦人から伺いました。家に帰る暇もないと思って、昼食になりそうなものを籠に詰めて持って来ました」
アルフリーダの声、仕草、笑顔。すうっと、苛立ちが嘘のように溶けていく。自分でも単純だと思うほどに。
籠を受け取ると、中にはパンとチーズの塊、それから布にくるまれた瓶が入っている。触ると暖かい。水や、エールなどではなさそうだ。
「あの、それはハーブティーです。台所にミントの葉が干してあったものですから」
ハーブには詳しくはないが、ミントやカモミール程度ならエリアスも知っている。子供の頃祖母に言われて、よく摘みに行かされたものだ。身に付いた習慣とは恐ろしいもので、見かけるとつい摘んでしまう。摘んでしまったからには放っておくわけにもいかない。祖母のしていたように台所に吊るし、時々料理に活用していた。彼女が見つけたものは、それだろう。
「ありがとうございます」
急に、笑い声がドッと弾けた。見ると、遠巻きに見ていた若い農夫たちが、こちらを向いて何やら騒いでいる。ヨハンが、やれやれと呆れたように溜息をついた。
「あんまり見慣れねぇもん、見せるんじゃねえ」
「見慣れないもの・・・?」
エリアスとアルフリーダの声が、見事に重なる。ヨハンが「ああ」と顎で、騒ぐ男たちをしゃくって見せる。鎌や鋤を持ったまま肩を震わせている者。土だらけという事も構わず、手で口を押さえてニヤニヤしている者。驚きと茶化しが、笑い声に入り混じる。
「あのエリアスが笑ってるぞ!」
「珍しいにもほどがある!」
騒めきの一部が、断片的に耳に届いてきて、アルフリーダが首を傾げた。
「そんなに・・・、珍しいんですか?」
耳が熱くなり、エリアスは慌ててアルフリーダから視線を逸らした。その様子に、ヨハンまでもが口元にうっすら笑みが浮かべている。
「ま、仕方ねぇよな。こんな美人の嫁さんが来たんだ。男なら誰だって、顔が緩むってもんよ」
「アルフリーダは、婚約者だ」
「そうですね。まだ」
まるで夫婦になる事を、心から望んでいるかのような「まだ」の一言に、エリアスは完全に言葉を失った。アルフリーダは相変わらず笑みを崩さず、風になびく頭巾を優美な仕草で押さえている。
「ほんとだよ。あんたも昔は私を見て、顔が緩んでたじゃないか」
荷車の向こうからヨハンの妻リーネがひょっこり顔を出した。農夫たちの笑い声が一層大きくなり、ヨハンのわざとらしい咳ばらいが響く。
麦束を抱えた農夫たちの何人かが、こちらに集まって来た。大方、穂束運びと称してアルフリーダに話しかけようという魂胆なのだろう。若い農夫が荷車に麦束を積み込みながら、チラチラとこちらに視線を送ってくる。
「ねえ?あんた」
リーネが荷車を回り込んで、アルフリーダに話しかけてきた。
「はい。何でしょうか?」
「あんた、どこから来たんだい?少なくともこの砦町の女じゃないわね?」
エリアスの胸がドキリと音を立てた。アルフリーダは百年前の姫だ。まさか自分が封印を解いて、城から連れてきたなどと言うわけにもいかない。いつか誰かに聞かれるとは思っていたが、こんなに早く聞かれるとは。今更ながら、言い訳を用意していなかった自分が悔やまれる。
「私は聖レティア修道院におりました」
ふいにアルフリーダの柔らかい声が、エリアスの焦りをふわりとすくい上げた。
「聖レティア修道院?聞いたことねえなぁ」
麦束を置いた若い農夫の一人が首を傾げた。
「おめぇみたいなモンが、知るわけねぇだろ?」隣の少し年かさの農夫が、彼を軽く小突く。
「そう言やエリアス。たまにどっかに出かけてたっけな?それって、その聖・・・なんとか修道院に通ってたのか?」
「聖レティア修道院だっての」
いつの間にか結構な人だかりが出来ている。エリアスは不機嫌そうに眉間に皺を寄せた。そう質問攻めにするなと、ヨハンが人だかりを追い散らす。けれど、そんなことで素直に引き下がる連中ではないことくらい、ヨハン自身の方が知っている。誰も作業に戻ろうとしない。どころかリーネまで一緒になって、こちらにニヤニヤした視線を送って来る。
「しかし、婚約者がいるんなら何で黙っていたんだ?」
やれやれと肩をすくませてから、ヨハンの目がエリアスとアルフリーダを交互に見る。
「婚約は、俺達の誓いだ。あんた達には関係ない」
「まあ、確かにそうだな。じゃあ、何で修道院にいた女・・・アルフリーダだったか、が自称騎士の婚約者に?できれば順序だてて説明してくれや」
自称騎士、か。その通りだが、言ってくれるな。エリアスは内心苦笑した。
ともあれ聖レティア修道院なら知っている。百年前のアルフリーダが幼少期を過ごした修道院。封印の事を調べる為に何度か足を運んだこともある。彼女の話に合わせることは容易いだろう。ただ一点——。聖レティア修道院が今はもう存在しない。ということを除けば、だが。
どう誤魔化すか・・・。エリアスは息を深く吸い込んで、ゆっくりと吐き出した。
「聖レティア修道院は昨年頃、修道女の高齢化がもとで閉鎖された。だから、聞いたことがなくても無理はない」
つっと、服の袖が引かれる。見るとアルフリーダがこちらを見て微笑んでいる。その目が”私に任せてください”と語り掛けてくる。
「エリアスとは修道院で出会いました。調べもので来られていた彼が、私を見染めて下さったのです」
一瞬農夫たちからニヤニヤ笑みが消え、その後の反応は見事にバラバラだった。へぇ、と頷く者。ポカンと口を開く者。「見染めるって何だ?」と隣の奴の服を引く者。
エリアスは顔を覆いたくなった。アルフリーダの”任せて”と言う目は、こういう事だったのか。
「それで?」
ヨハンの咳払いが連中を黙らせ、先を促す。アルフリーダは一歩前に進み出ると、皆の視線を受け止めながら微笑んだ。
「修道院の閉鎖で、私は生きる場所を失いました。行く当てもなく途方に暮れる事しか出来なかった私に、エリアスが求婚して下さったのです」
アルフリーダがエリアスに向き直る。姫としての威厳を纏った眼差し。そこに女性としての柔らかさが加わり、胸が熱くなる。
「エリアスが私に手を差し伸べて”あなたをお守りします”と——」
彼女の声は澄み渡り、柔らかくも強い響きがあった。場にいた者達は口を開いたまま静まり返り、瞬きすら忘れてアルフリーダを見つめている。皆が彼女の語る”もっともらしい物語”の世界に引き込まれていた。その中で一人、リーネだけが溜息のような声で呟た。
「はえぇ・・・。あのエリアスがねぇ」
もう限界だ。顔が茹で上がって、沸騰しそうだ。逃げ場を求めてエリアスは顔を伏せる。乾いた耕地の砂が、薄ら寒いような秋風に吹かれて、地面の上で小さく円を描く。その視界の中にアルフリーダのたおやかな指先が入り、エリアスの土だらけの手を握った。
「その言葉を聞いたとき、私は心から嬉しく思いました。あの時の事は、生涯忘れることはないでしょう」
アルフリーダの笑顔が、大輪の花のように花開く。俺は、夢を見ているのか・・・?あまりに現実離れした光景に、自分の周囲だけ時が止まったように思われた。アルフリーダの手の柔らかさと、ひんやりとした冷たさだけが今のエリアスの全てに思えた。
小首を傾げたアルフリーダが優しく問いかけてくる。
「あの、エリアスは?どう感じましたか?」
エリアス立ち尽くしていた。自分でも無様だと思うほど、身動き一つできない。声は喉の奥に張り付き、呼吸すら浅い。長い沈黙の後、やがて震える声でエリアスは絞り出すように答えた。
「私も、・・・お、同じ気持ちでした」
その瞬間、魔法が解けたように場が一気に動き出した。沸き起こる歓声。弾けるような笑い声。誰かに肩を強めに叩かれ、エリアスは思わずたたらを踏んだ。
「なんかすげえ話だったが、エリアスもなかなかやるじゃねえか」
「ほんとだねぇ。あのエリアスがねぇ」
目を細めるヨハン。感心したように頷くリーネ。皆がそれぞれに好きに感想を述べあう中、アルフリーダがエリアスにだけ、茶目っ気を混ぜた視線を送って来る。”ちょっと話を盛りすぎました?”と、いたずら好きな少女のように。夢のような物語の後で、彼女の視線だけが現実の温もりを運んでくる。エリアスは苦笑した。
二人の間に、小さな秘密のやり取りが生まれていた。
荷車に荒縄をかけながら、ヨハンが口笛を吹いた。それを合図に皆が作業へと戻っていく。
「よし!この荷車はいっぱいだな。どうだい?アルフリーダ。砦町に戻るんなら乗せてやってもいいぞ」
「砦町?ああ。外郭のことですね。ええと・・・」
アルフリーダの目がエリアスの了承を求めるように見上げてくる。エリアスは頷いた。
「乗せてもらうと良いでしょう。落ちないようにしっかりと藁束を握っていて下さい」
「子供ではありませんよ」
「分かっています」エリアスはアルフリーダの腰を両手でしっかりと支え、荷車へと乗せるために持ち上げた。「きゃっ」とアルフリーダの手が支えを求めてエリアスに伸びる。指先が彼の肩に触れ、ほんの一瞬二人の距離が近づく。
「やっぱり子供扱いじゃないですか」
積み上げた稲穂の上に座り込むアルフリーダはまるで収穫の女神のようでもあり、あどけない少女のようでもある。どことなく頬が膨らんでいるように見えるのは、気のせいか?
「そんなつもりはありません」
アルフリーダの手が肩から離れる。派手さはないが繊細な刺繍が施されたスカートの裾の乱れを、アルフリーダが撫でつけている。
「結構揺れると思います。くれぐれも気をつけて下さいね」
「もう。くどいですよ」
もう一度真剣な顔になるエリアスに、アルフリーダがため息混じりに頷いた。また遠くで笑い声が上がる。
ヨハンが牛の引き綱を持ち、「それじゃあ、行くぞい」と牛を歩かせる。ゆっくりと大儀そうに荷車が進み始め、アルフリーダは片手を軽やかに上げて、笑みを添える。エリアスも、僅かに手を上げてそれに応える。アルフリーダを乗せた荷車が遠ざかり、やがて素朴な日常の風景に溶け込んでいった。




