第七話
眩しい光に、エリアスは目を細めた。狭められた明るい視界の先に、見覚えのある影が差す。
老齢になっても衰えを知らないような、鍛え抜かれた体が、開けた原っぱのような場所で、一心に剣を振っている。
懐かしくも頼もしい姿に、エリアスの唇から自然に笑みがこぼれた。斜め下構えから、上段に払い。斜め上に構え、左手で刃を握る。そして繰り出される突き攻撃。全ての技が冴え、流れるようで無駄のない動き。美しく俊敏、そして一振り一振りが力強く、エリアスは祖父の技に圧倒された。
と、祖父の剣が急にエリアスに向けられる。ヒュウっと刃が空気を薙ぎ、距離があるのにも関わらず、斬られた空気の感触までもが伝わってくる。
「良いか、エリアス」
キリッと引き上げられた、氷のような水色の瞳がエリアスを見据える。朧げにしか覚えていない父と同じ、そして自分と同じ色の瞳だ。
「エクリア=ノクスは王家の剣。その刃はヴェル=ノクスの力を帯びている。”紫焔”なき者が使えば、即ち死あるのみ」
この言葉の一つ一つが、懐かしい。毎日のように聞かされて育った。お祖母様が「また、始まったわ」と呆れるほど。毎日毎日、エリアスの魂に刻み付けるように。
「どのような理由であろうとも、エクリア=ノクスに触れてはならぬ。ヴァルドは王家を守り、民を守る者。己の欲を捨て、ただ己の剣を誇りとせよ」
祖父の声が、胸を抉る。
誓いと戒めを破った今のエリアスには、祖父の言葉は、まるで断罪の刃のように響いた。
「お祖父さま。・・・俺は、ヴァルドの誓いを——」
エリアスは、視線を逸らした。それ以上先の事も言えずに。
子供の頃、好奇心に駆られて、カミルと共に祖母の指輪を持ち出したことがあった。食糧庫の床にある隠し扉の下。祖母の指輪は王家の剣を守る鍵でもあった。指輪を溝にはめ込むと、敷石が外れる。少年のエリアスは兄弟同然に育ったカミルと目を合わせ、笑顔を交わした。しかし、少年たちの冒険は唐突にそこで終わりを告げた。厳重に保管されているエクリア=ノクスを見ようと敷石を二人でずらしているまさにその時、祖父の雷が落ちてきたのだ。
「何をやっとるか!?」エリアスは縮こまり、うつ向いたまま何も言えないでいた。祖父の顔が怖くて見られず、握りしめた拳が震える。
俺は、アルフリーダの封印を解くために、二つの罪を犯した。
一つは、ヴァルドの誓いを破り、エクリア=ノクスを使った事。そして、二つ目は、自分の孤独を埋めるために、彼女を目覚めさせたこと。
——己の欲を捨て、ただ己の剣を誇りとせよ——
祖父の言葉が、エリアスの胸を深く強く抉ってくる。分かっている。自分のしたことが、どれほど利己的でどれほど卑劣な事か。
そこには何の忠義も、大義もない。ただ、いつ終わるとも知れない”自称騎士”と言う立場から、救い出して欲しかった。いや。もっと言うと、単に孤独を癒してくれる誰かが欲しかっただけだ。
何をやっても、どんな努力をしても、得られるのは”孤独”の積み重ねだけ。ただ一人きりの騎士として、誓いを抱き誇りを掲げながら生きる。その生き方が、エリアス自身を蝕んでいく。孤独を終わらせたい。誰かに騎士としての自分を認めてもらいたい。いや、認められなくとも、せめて主君が欲しい。次から次へと溢れてくる切望。誰に打ち明けるでもなく、長い間自分の内だけに抑え込んできた願い・・・。
この二つの罪が、もしアルフリーダの知るところとなれば——
ゾクリとした恐怖がエリアスを満たしていく。彼女の瞳に映る自分は騎士ではなくなる。アルフリーダに失望され、婚約も白紙に戻されるかもしれない。
嫌だ——!
感情が爆発しそうになったその瞬間、震える手が、ふわりと柔らかいものに包まれた。
「あなたは、お優しい方なのですね」
驚いて見開いた視界一杯に、アルフリーダが微笑んでいる。神々しい光の中で、さらりと金の髪が零れ落ち、エリアスの腕に触れる。
「アルフリーダ。・・・私は」
声が無様に揺れている。彼女は微笑んだまま、僅かに小首を傾げた。
「あなたの忠誠は、私にとって何よりの支えです」
アルフリーダの輝くように美しい笑顔が、逆にエリアスの言葉を黙らせた。
罪を口にすれば、この笑顔を壊してしまう。だが言わなければ、罪は胸に残り続ける。アルフリーダの手はまだエリアスの手を包み込んでいる。
——その温もりが急に強くなり、爪が食い込むのを感じた。
「・・・いっ!」
エリアスは目を開けた。少し乱れた呼吸音が、夢の残滓のように耳に届いてくる。
部屋には灯りはなく、夜の闇がわだかまっている。その中に、自分以外のもっと荒い息遣いが混じっていることに気づき、彼はハッと身を起こした。
手に、先ほど感じたのと同じ痛みが走る。エリアスの横で、アルフリーダは必死に彼の手を掴んでいた。その指先が震えるほどに。
「アルフリーダ?どうしたのですか?」
エリアスは、握られた手をそのままに、彼女の肩をそっと揺すった。
「嫌・・・」
拒むようにアルフリーダが身をよじる。触れられるのが嫌なのか?
エリアスが揺する手を離しても、アルフリーダの手は相変わらずエリアスの手を掴んで離さない。どころか、もっと強い力で握りしめてくる。
「触らないで・・・」
アルフリーダの体が小さく震え、リネンの夜着に包まれた背中が強張る。見えない手が、彼女の肌に触れてでもいるかのように。
夢を見ているのか?悪夢を。
「放して・・・!」
急に捕まれた手が勢いよく引かれ、エリアスは思わずアルフリーダの上に、前のめりになった。夜目にも白いアルフリーダの手首が目の前に迫る。間近で見る彼女の手首。手枷のように手首に纏わりつく赤い痣が、黒く浮かび上がって見えた。
放して。とは、この手首を掴んだ者の記憶なのか?夢の中で、アルフリーダはまだその”何者”かに抗い続けているのか?
胸が怒りに燃えた。しかし、同時に痛々しさが波のように押しよせてくる。
彼女が、どれほどの恐怖に晒されてきたのか——
エリアスは一瞬躊躇ったが、そっとアルフリーダの震える背中に寄り添った。
そのまま出来るだけゆっくりとした手つきで、背中から抱きしめる。彼女の柔らかい体が、ピクリと腕の中で震えた。
「大丈夫です。私がおります」
腕を回してアルフリーダの昼間彼女がそうしたように、震える手をそっと包み込む。
「私が、あなたをお守りします」
その言葉に答えるように、ゆっくりとアルフリーダの手から力が緩んでいき、呼吸が落ち着いてきた。そして、彼女は再び眠りの中へ戻って行った。
彼女の手は、眠ってもまだエリアスの手を離さない。夜の闇とまどろみの中で、二人の手は、確かに繋がっていた。
鎧戸の隙間から、聞こえてくる鳥の鳴き声に、エリアスは目を覚ました。起き上がろうとして、クンと手を引かれる。朝日を遮る鎧戸のせいで、部屋の中は夜中とさほど変わらない。その薄闇の中で、白い手がエリアスの手をギュッと握り、胸元に引き寄せる。
柔らかさと温もりが、指先から一気に胸にまで彼女の熱が伝わってくるような気さえする。
アルフリーダはまだ眠りの中にいる。無垢な仕草に、エリアスは完全に囚われた。
朝から、心臓に悪い・・・。
エリアスは、アルフリーダを起こさないように、そうっと指を解く。微かにアルフリーダの眉が動き、エリアスは思わず息を止める。
昨夜の痛みと切なさ、そして甘さの記憶がよみがえってくる。
「訓練に、行って来ます」
ほとんど吐息と言ってもいいくらいの微かな声で呼びかけ、エリアスは寝室を後にした。
町はずれの空き地。元は何かの倉庫だったのか、今は崩れた石組みだけが残され、地面はただ草がそよいでいるだけ。通りかかる者もほとんどいないその場所が、エリアスの訓練場だった。
早朝や夕方。彼は、毎日ここで己の技を磨いた。子供の時は祖父に鍛えられ、長じてからは一人きりで。
構え、型を一つ一つ律義に繰り返す。剣が空を裂く音が、夜明けが近づいた朝の気配を震わせる。
一口に剣の型と言ってもその種類は多岐に渡り、それぞれ構えも異なる。全てを網羅するには朝と夕では時間が足りないくらいだ。他の武器の訓練も合わせるとなると、寝る暇もないだろう。「騎士たる者、あらゆる武器を使いこなさねばならん」祖父の声が耳の奥で聞こえる気がする。剣術のみならず、槍術に弓。盾ですら、使いようによっては十分に強力な武器になる。
やがて、褐色に変わった草の上に朝日が差し始めたころ、申し合わせたように礼拝堂の鐘が鳴る。外郭の一日が始まる。エリアスは剣を収め、滴る汗を拭った。
「あ、おはようございます」
家のドアを開けると、アルフリーダが笑顔で出迎えてきた。服の上からリネンのエプロンをかけ、髪もきちんと結っている。その血色の良い顔からは、昨夜の悪夢の欠片すら感じられない。
家の中は暖かい湯気と、どこか甘い匂いに満たされている。
「一人にして申し訳ありません」
剣を暖炉の脇に立てかけながら、ちらりと台所に目をやった。重い鉄の鍋が竈にかけられ、ふつふつと麦の粥が煮られている。
「あの・・・、勝手な事と思いましたが、朝食を作りました」
「姫が、朝食を・・・?」
「姫ではありません。ここでは、ただの私です」
鍋を掻き回していたアルフリーダが振り向いて、少し強い口調で言った。その瞳に宿る確かな決意に、エリアスはふと瞬きをした。
「そうでしたね。アルフリーダ」
笑みがふわりと湯気に混ざり、すっきりとした顎が頷いた。
「私がやりましょう」
薄い布巾をミトン代わりに、黒い鉄なべを持ち上げようとするのを、横からエリアスが手を出した。一瞬、アルフリーダの指に手が重なり、細い肩がピクリと震えた。
エリアスが首を傾げる。
「あ、ありがとうございます」
顔を見ようと振り返るが、もう彼女はエリアスに背を向けて、忙しく椀を用意している。
昨日の夕食の時にも感じたことだが、誰かと食事をするのは久しぶりだ。カミルが長じて出ていき、祖父母が亡くなり。それと同時にエリアスの食卓はずっと、音と温度を失っていた。
アルフリーダが椀に麦の粥を盛りつけ、古びた瓶をテーブルに置いた。見覚えのない無骨な素焼きの瓶。こんなもの、家にあったか?
「それは?」
「ハチミツです。戸棚の奥にしまってあったのを見つけたのです」
すんなりとした指が、優雅な動きでエリアスの椀にハチミツを一匙入れた。薄茶色の粥の上に、金色の蜜が丸くわだかまる。
と、急にアルフリーダが、ハッとしとように顔を上げる。
「もしかして、甘い味はお嫌いでしたか?それとも、貴重な物を使ってしまったことに、お怒りですか?」
両手を祈るように組み合わせ、アルフリーダが瞳を震わせる。エリアスは慌てて首を振った。
「あ、いいえ。麦の粥にハチミツを入れたことが、なかったものですから」
と言うよりも、ハチミツ自体がこの家にあった事すら、今の今まで忘れていたくらいだ。料理と言えば、根菜類のスープや、雑穀のシチューと言った程度のものしか作った事がない。
「私には、ハチミツを使う料理など出来ません。あなたが使って下されば、そのハチミツも喜ぶでしょう」
エリアスとって、たまに取れた時だけ分けてもらえるハチミツなどと言う貴重品は、むしろ無用の長物だった。
粥の上のハチミツは、長い間放置されたせいで、ところどころ結晶化している。アルフリーダが、エリアスの視線を気にしながらも、自分の椀にもハチミツを一匙入れる。
「この家にある物は、どんなものでも使っていただいて結構です。とは言え、大した物はありませんが」
「いいえ。修道院ではハチミツ入りの麦のお粥が、私には一番のご馳走でした」大切に頂きます。とアルフリーダの笑みに真剣さが混ざる。
エリアスは、木のスプーンで粥をすくって口に入れる。麦のほのかな甘味にハチミツの甘さが足されたことで、温かみさえ増した気さえしてくる。舌の上に残る、丁寧にローストされたナッツから、香りがふんわりと鼻へと抜けていく。
「おいしいです」
「本当ですか?」
鎧戸を開け放つと明るくはなるが、外の寒さが容赦なく入り込んでくるため、これからの季節はほんの少ししか光を入れられない。その頼りなげな光の中で、彼女の笑顔は眩いばかりだ。
ひとしきり粥の話をした後で。アルフリーダがスプーンをテーブルに置くカタンと言う音が響いた。
「あの・・・。あの、一つお聞きしたいことがあるのですが」
「何でしょうか?」
「なぜ。今になって私の封印を解こうとしてくださったのですか?」




