第六話
緊張しましたね」
司祭に礼を言って礼拝堂を出ると、アルフリーダが恥ずかしそうに、小首をかしげて言った。
「ええ。私もです。手が今にも震えそうでした」
「そうなのですか?あなたの誓いの言葉、堂々としていて素敵でした」
素敵でしたと言われて、エリアスは頬が熱くなりかけた。
「あなたなら、このような儀式や式典など慣れておられるものと思っておりました」
「いいえ」とアルフリーダが頭を振る。後れ毛がキラキラと夕昏時の光を透かしている。
「私は今まで一度も、儀式にも式典にも出席したことはありません」
エリアスは驚いて目を見開いた。
「なぜですか?城での祭祀や、祭りの時に行われると言う馬上槍試合などは、貴婦人も観戦されると文献で読みましたが」
騎士たちが技と栄誉を競う試合。物語で読み、あるいは祖父母が話してくれる昔話で聞く試合には、幼いころから心惹かれるものがあった。
騎士たちの華々しい活躍を、この姫も眺めたのだろうか?という想像は、あっけなく霧散する。
「王が・・・。戦う騎士の前に姿を見せるなど、姫君らしくない。と」
なるほど。いくら試合と言っても、やることは実戦とほとんど変わりはない。怪我人や時には死者も出ることもあっただろう。兄なら、そんな血なまぐさい試合を姫の目に入れたくないと思うのも無理はない。
通りには夕暮れの気配が漂っていた。秋の夕暮れは早い。まだ日没の鐘は鳴ってはいなかったが、エリアスは少しだけ足を速める。礼拝堂のある地区とは、それほど離れていないとはいえ、日があるうちに家に着きたかった。
今では廃屋が目立つ職人街を抜け、エリアスは粗末な我が家へ急いだ。アルフリーダの時代、ここは様々な工芸品を作る工房が軒を連ね、職人たちが技を競い合っていたと言う。
彼女の目には、この城塞都市の姿はどのように映るのだろうか。うらぶれた路地裏と大差ない大通り。物乞いのようにうずくまるゴミと瓦礫の山。
どうにか居住区に入った時だった。
「うっ・・・!」
アルフリーダが小さく呻いて、額に手を当てた。急に立ち止まったせいで、エリアスの手がアルフリーダから離れる。
「ひ・・・、アルフリーダ」
思わず姫と言いかけて、エリアスは慌てて言いなおす。
背中から抱きかかえるようにして支えると、アルフリーダが顔を上げた。
「すみません、また頭痛が・・・」
薄暮の中では顔色が分からない。一瞬迷いはしたものの、エリアスはアルフリーダの細い体を抱き上げた。
「ほ、・・・本当に大丈夫ですから」
「いえ。歩かせた私の責任ですから」
アルフリーダの細い指が、エリアスの胸当ての端を掴む。
「あなたのせいでは、ありません。それに」
「では、婚約者としてあなたを運ぶことを、お許し下さい。これは私の務めです」
アルフリーダが一瞬言葉を詰まらせ、ふと視線を逸らせる。しばしの沈黙の後で、コクリと顎が上下する。
アルフリーダの腕がおずおずと首の後ろに回され、エリアスはそのまま夕闇に背中を押されて歩き始めた。
一歩踏みしめるごとに、両腕にアルフリーダの体重がかかる。華奢な見た目通り、重さはそれほどではない。
そう。重さなど問題ではない。真の問題は——
家に近づくにつれて、通りには家路につく者たちの姿が目に付く。老若男女の視線が突き刺さる。そのことごとくが、こちらを見て目を丸くしたり、口元を押さえたりしているのが気に食わない。
町の連中が何を思っているのか。そんなことは聞かずとも、手に取るように分かる。
——あの変わり者の男が、女を運んでいる。どこから連れてきた?どういう関係だ?——
誰一人、声に出して尋ねるものはいない。それでも、物言わぬ声が、雄弁にエリアスを質問攻めにしてくる。
いい加減にしてくれ。
エリアスは胸の内で叫んだ。
いつも俺と目が合っても、わざとらしく視線を逸らすか、遠巻きにするだけなのに。俺が女性を連れているのがそんなに意外なのか?
粗末な我が家が見えてきた時、ふっと目の前に影が落ちた。
誰だ。自然と目が鋭くなるのを抑えながら、エリアスは顔を上げた。
「エリアス。その子どうしたんだい?」
ニンジンが入ったバケツを持ったまま、隣家のマルタが驚きと心配が混じったような表情を浮かべて立っている。彼女だけは、いつもと変わらない。どことなくきょとんとした声色。気遣う言葉に漂う揺るがない落ち着きに、エリアスは少しだけホッとした。
腕の中でアルフリーダが身を起こそうと、首に回した腕に力を入れる。
「あの、私は——」
「彼女は、アルフリーダ。俺の婚約者だ」
目じりに皺が刻まれたマルタの目が、一瞬大きく見開かれる。
「すまないが、今彼女は気分が優れないんだ。失礼する」
エリアスはマルタに軽く一礼すると、右側に見えている家のドアを開けた。ドアが閉まる瞬間に、何やら騒がしい声が聞こえたような気がしたが、エリアスは構わず騒音を締め出した。
「あの、もう大丈夫ですから」
アルフリーダが軽くエリアスの胸を押して、下りようと身じろぎする。エリアスは一瞬ためらったが、ゆっくりと彼女を床に下ろした。
「先ほどの方は、よろしかったのでしょうか?」少し躊躇うように、アルフリーダがドアの方に目をやる。
「心配はいりません。また改めて挨拶に行きましょう」
薄暗い家が、二人を迎えている。納得したのか、アルフリーダの視線がドアから、家のあちこちへと興味深く移動する。
左手奥にある小さな台所。裏庭に出る勝手口のドア。つたうように視線が動き本棚で静止する。アルフリーダの足が本棚に引き寄せられるように近づいていく。
寝室手前の壁に押しつけられるように、古い本がぎっしりと詰め込まれた本棚。これらの本は、エリアスが物心ついたときには、すでにこの古びた本棚に整然と並んでいた。ヴァルド家がまだ騎士として名を馳せていた頃、先祖の誰かが集めたものなのだろう。
「本がお好きなのですか?」
ランプに火を灯しながら尋ねるが、アルフリーダは答えない。そちらを見ると、彼女は熱心に細い指先で背表紙をなぞっている。エリアスは字が見えやすいように、アルフリーダの隣でランプをかざした。
「ああ、ありがとうございます。ヴァルド家の蔵書ですね。素晴らしいです」
目を輝かせるアルフリーダに、エリアスは苦笑した。
「蔵書・・・と言うほど大したものでもありませんし、ヴァルド家と呼ばれるほど大層な家ではありません。」
御覧の通り。とエリアスは部屋をぐるりと示した。
「そのような事はありません。お部屋も清潔で整っておりますし、蔵書はどれもこれも貴重なものばかり。剣術に関する書物や戦術書ばかりかと思いましたが、魔導書や詩集もあるのですね」
「お詳しいですね」
黒い魔導書の背表紙は、金箔で装飾されていて、他とは一線を画している。ほとんどの金箔は劣化で剥げていても、僅かに残った薄い金の筋が、魔術の輝きのようにランプの光を跳ね返す。
「王家には魔導の才を持つ者がいると、聞いたことがあります。あなたも魔術を使えるのですか?」
アルフリーダの部屋の封印は、彼女の兄であるノルヴァン王が来るべき戦争から彼女を守るために、自ら施したと文献には書かれていた。魔法とは才能であり、技術であり、そして血でもあるのだからアルフリーダにも魔術の才があっても不思議ではない。
アルフリーダがふっと顔を上げて、こちらを見た。紫色の瞳が、もの言いたげにエリアスを射抜いてくる。
「何か?」
「いえ」とアルフリーダが首を振る。
「残念ながら、私には魔導の才能はありません」
長いまつ毛がベールのように瞳を隠し、表情が翳る。
なんだ?また、なにか気に障る事でも——
狼狽えかけた時、唐突に紫の瞳に柔らかさが戻った。
「私としたことが、不躾で申し訳ありません。あの、家の案内をしていただいても?」
「案内できるほど、広くもありませんが——」
ほんの少し違和感は残った。けれど、彼女は敢えて語らなかったことを聞きだすつもりはない。
エリアスはそう広くはない家の中を、アルフリーダに一つ一つ説明して歩いた。台所、半地下になった小さな食糧庫、井戸と裏庭、暖炉とその使い方、チェスト、そして本棚。
「奥は寝室になっています」
奥に続くただ一つのドアを開けて、アルフリーダを通す。何の飾り気もない小さな机と椅子。そして藁にシーツをかけただけの粗末なベッド。
「私は、こちらの部屋におりますから、寝室はご自由にお使い下さい」
机に包みを置き、部屋を見回していたアルフリーダが、振り返った。
「私一人で?それでは、あなたはどこで休むのですか?」
「私は、こちらにベッドを作りますので」
エリアスの言葉にアルフリーダが目を見開き、そして小さく首を振った。
「神と聖女の前で交わした誓いを、お忘れですか?閨は分け合うのが習わしです」
アルフリーダの言葉に、エリアスの脳天に衝撃が走った。誓いの言葉を忘れたわけではなかったが、まだ正式な夫婦ではない。それなのに、そこまでする必要があるのか?もしも間違いがあったら——。いや、間違いなどあるはずがない。許されないことだ。しかし——。
頭の中で大議論が繰り広げられ、一歩遅れて頬に熱が集まってくる。
「その誓いは、婚姻の儀式が終わってからのものではないでしょうか。私たちはまだ夫婦ではありません」
どうにか、理論でうけ流そうとする。が、アルフリーダの言葉が、エリアスの誓いを根底から揺さぶってくる。
「婚約期間は、夫婦になる前に与えられた云わば準備期間のようなもの。ですから、共に過ごさなければ意味がありません」
アルフリーダの靴がまるで踏み込みの間合いでも計るように、一歩こちらに向かって踏み出される。寝室に彼女の影が長く落ちた。
「あなたが私を遠ざけると言うのなら、それは責任の放棄になります。責任を果たさない誓約は、偽りです」
アルフリーダの言葉がエリアスの防御をかいくぐり、急所を刺し貫く一撃のように響いた。誓いを盾にする言葉は、彼女の言葉の前では脆くも崩れ去るしかない。エリアスは俯いて拳に力を籠める。
「承知しました。・・・習わしに従いましょう」
自分の声が遠い。心臓の鼓動が耳の奥でガンガンと打ち鳴らされ、自分の声どころか全ての音と言う音をかき消していく。
「・・・水を、汲んで来ます」
ともすれば、ふらつきそうになる足に力を入れ、エリアスは勝手口に向き直った。狭い家。それなのに、裏口までの距離がやけに遠く感じた。




