第五話
礼拝堂は、相も変わらず、かろうじてそこに立っていた。まるで、自然に崩れてなくなるのを待っているかのように。なんなら、遺跡と言っても過言ではないかもしれない。
礼拝堂に続く階段は、階段と呼ぶにはあまりにもお粗末だ。あちこち崩れたレンガの間に小石などを詰め込んで、どうにか階段の体を保っているだけに過ぎない。ぐらぐらする足場を、エリアスはアルフリーダの足元を確認しながらゆっくりと登る。司祭か信者か知らないが、どっちにしろこの階段を直した者は、酷く不器用に違いない。
「夫婦の誓いを立てるのかね?」
階段を登り切ったところで急に老人の声がかかり、エリアスは思わず足を踏み外しそうになった。つないでいた手がグッと引かれ、逆にアルフリーダに支えられる。
「大丈夫ですか?エリアス」
彼女の肩が、小さく揺れている。
笑われている。でも、何故だろうか?不快ではない。むしろ、心地よいとさえ——
咳払いがわざとらしく響き、エリアスは慌てて老司祭の方に向き直る。
「それで?夫婦の誓いを立てるのかね?」
「いえ。婚約の誓いを」
真っ白になった眉が持ち上がり、司祭のグレーの目がエリアスをマジマジと見つめた。
「ほう。婚約に誓いを立てるとは、今時珍しい。では祭壇の前へ」
老司祭は、とても白とは言い難い色に変色したローブの裾を引きずりながら、薄暗い礼拝堂へ誘った。
「本当に、良いのですか?」
「何がです?」
司祭の背中を、そのまま追おうとするアルフリーダの肩を掴んで引き留める。アルフリーダの目が驚いたように丸くなるが、すぐにいつもの柔らかさを取り戻して、こちらを見上げてくる。無防備に——。
「いえ・・・。だからその、このまま誓いを交わしてしまっても・・・」
アルフリーダは不思議そうに瞬きをして、頷いた。
「私に迷いはありません。ですが、誓いとは互いの思いが揃ってこそ意味を持つもの。ですから、私も問います。あなたは、どうなのですか?」
エリアスは、喉の奥に言葉が張り付くのを感じた。
もちろん、あなたと誓いを交わしたい。
——と言いたい。けれど、それを言ってしまっても良いのか?
エリアスは答える代わりにアルフリーダの肩に手を置いたまま、礼拝堂の奥、祭壇の方に足を向けた。
「・・・行きましょう」
アルフリーダが小さく笑った気がしたが、とてもそちらを見る勇気は出なかった。今、彼女を見たら、多分確実に笑みを返してしまう。
祭壇の前で老司祭が迷う若者達に対して、なにやらぶつくさと文句を言っている。きっとアルフリーダはそれに対して笑ったんだ。と。
今は、そういう事にしておこう。
「誓約者は、ここに名前を書きなさい」
言われるままにエリアスとアルフリーダは、祭壇に置かれたやけにガサガサする質感の紙に、互いの名前を署名する。
「ほう。二人とも家名持ちとは・・・。これはますます珍しい」二人の名前を見て司祭が眉を上げる。
司祭の言う通り、近頃家名を名乗る者など滅多にいない。百年の間に家名を忘れてしまったのか。それとも、何の助けにもならない家名など、自ら捨ててしまったのか。
古びた絨毯の上に跪き、エリアスとアルフリーダは祭壇の前で頭を垂れる。アルフリーダの小さな包みは、彼女の傍らで黙って祈りを聞いている。
「神と、聖女アマリアの御名において。ここに契約の儀式を執り行う」
老人とは思えない浪々とした声は、天井のアーチが一部抜け落ちていても、どこまでも荘厳に響き渡る。
司祭の皺だらけの左掌が、厳かに二人の前で開かれた。
「ここに、二人の手を重ね、未来を誓わせる。この男——」
エリアスは震えそうになる右手を、司祭の掌の上に乗せた。
「この女——」
アルフリーダの左手が司祭の掌に伸び、エリアスの手の甲に指先が触れる。
「互いに未来を誓い、絆を結ぶことを、ここに示せ」
エリアスはゆっくりと顔を上げる。心臓が耳の奥の方で、うるさく打ち鳴らしている。
「私は、あなたの優しさを抱きしめ、あなたの勇敢さを信じ、あなたの弱さに寄り添う事を誓います」
次いでアルフリーダが顔を上げる。
「私は、あなたの沈黙を受け入れ、あなたの誠実さを信じ、あなたの鼓動に寄り添う事を誓います」
アルフリーダの澄んだ声が、一つ一つの言葉が、誰もいない礼拝堂の中で厳かな聖歌のようにエリアスの胸に響いた。
司祭の手が上から重ねられる。
「ここに、この男とこの女の誓約を聞き届けた。
この契りは、神と聖女と、そして互いの良心に刻まれるものなり。
今これより、この神聖な誓約に背くこと能わず。
その前には祝福の道が。背後には戻れぬ崖がある。
両の手を取り合い、持てるものを互いに分け合い
同じ道を共に歩むことを願う」
祭壇に光が注がれる。偶然に天井に空いた穴から光が差し込んだだけだろうが、神々しい金色の一筋は、祝福の光に思えた。
「さて」
司祭の手が離れ、自分も引こうとしたその手を、重ねられたままのアルフリーダの手がギュッと握る。驚いて顔を上げると、彼女の微笑みとぶつかった。はにかんだような笑み。今にも光の中に溶けてしまいそうな小さな花のようだ。その笑みと手の暖かさに、彼女が自分の誓いを受け入れてくれたかのような、錯覚に陥ってしまいそうになる。
「結婚ではなく、婚約の誓いを立てる者達は久方ぶりじゃ。そんなお前たちに、私から贈り物を授けよう。聖女の神託を」
唐突にアルフリーダの顔から、さっと笑顔が拭い去られた。戸惑うように視線が空を彷徨う。
「アルフリーダ?」
自分で呼びかけておいて、その気安い響きにエリアスは一瞬頬が熱くなってしまう。
「何か、気がかりな事でも?」
「いえ。神託の習わしを知らなかったものですから」
エリアスは彼女に笑いかけた。頬が強張って、ちゃんとした笑顔を作れたかは知れたものではなかったが。
「私も、初めてのことです」
司祭の咳払いが、若い婚約者たちのお喋りを黙らせる。
「誓約者たちは、静粛に」
老司祭は、ローブを翻して祭壇に身を向ける。まるで聖女の言葉をそのままそこに届けるように、光の筋はまだ祭壇に落ちている。
「慈悲深き、聖女アマリアよ」
アルフリーダの目が、まだ迷うように司祭とエリアスとを交互に見ている。
「大丈夫。どんな神託を聞くことがあっても、私はあなたを信じています」
「我ら塵より生まれ、塵に還る者——」
司祭の声が、祈りの声を捧げている。アルフリーダは、まだ少し硬い表情を見せながらも、こくりと頷いた。
「聖なる御名の元、若く未熟な二人に、道を指し示したまえ。
彼らの影を光に
彼らの沈黙を祈りに
彼らの罪を赦しに。
互いの手を離すことなく歩んで行ける、一筋の導きの光を——」
司祭が頭を垂れ、やおらこちらに向きなおる。
アルフリーダの肩が小さく震え、エリアスの手を心なしか更に強く握ったような気がした。
「ここに、聖女の神託を授ける。エリアス=ヴァルド」
エリアスはグッと顔を上げた。
アルフリーダには「大丈夫」などと言ったが、いざ自分の番になって見れば。なるほど、確かに怖いものだ。今更ながら不安が胸を掠めていく。無理難題を言われなければいいのだが・・・。
「この男よ。いかなる時も、彼女を受け入れよ。その受容こそが、愛の始まりとなるだろう」
エリアスは、ホッと胸をなでおろした。良かった・・・。「饒舌を心掛けよ」などと言われなくて。
「ここに、聖女の神託を授ける。アルフリーダ=レンヴェルグ」
アルフリーダが、ゆっくりと顔を上げて司祭を見つめる。その横顔は強張り、彼女の喉が一度ピクリと動いた。
「この女よ。臆することなく、その道を行くが良い。その決断が愛の始まりとなるだろう」
彼女の唇が、小さく息を漏らした。その吐息が、安堵によるものか落胆なのかは、エリアスには分からなかった。




