第六十三話 『狼ズシャ!の剣 <完>』
長い間、カミルはみっしりと茂った木々と同化するように制止していた。時折風が微かに木々を揺らす物音に心臓を掴まれ、遠くで鳴いている鳥の声に背中を震わせる。やがてその音も止んだ。
シーン・・・。これほど不気味な静寂、滅多に体験できねぇんじゃね?カミルは自分を奮い立たせるように、声を立てずに、唇の端だけで笑った。
無音。
それなのに、カミルの第六感が奴らの存在を感じ取っている。声なきざわめき。
何だ?誰だ?何をしに来た?
濃密な気配がカミルにまとわりつく。後ろと言わず、横と言わず、あちこちから。警戒心剥き出しの視線がカミルの一挙手一投足を観察している。縄張りを侵す者よ。これ以上の侵入は警告だけでは済まさぬぞ。
沈黙が真っ赤な舌をチラリと出して、低く唸るように脅しつけてくる。
いや、マジで縄張りに入るつもりなんてなかったんだって!なんて通じる筈がない。あいつらに言葉は通じねえ。
がさり。
目の前の茂みが大きく動いた。カミルは猫みたいにその場で跳ね上がりそうになるのを、必死で堪える。汗がこめかみをツーっと流れ、しがみ付くようにロングソードを抱えている手に、ぽたりと落ちた。その汗が更に掌の方に流れて行って、手元を濡らし鞘が滑って落っこちそうになる。
大丈夫。気のせいだ。狼なら唸り声とか、息遣いとか聞こえるもんだ。茂みの方からは何も聞こえねえ。きっとウサギかなんかだろう。
カミルは浅い呼吸を繰り返しながら、薄暗い茂みのその先を凝視した。
ついでにその間抜けなウサギを狼たちが見つけて、追ってってくれればいいのに。そしたら、その隙に逃げられるのに。
そんな都合の良い希望を打ち砕くように、また目の前の茂みが揺れた。今度は大きく——
ウサギだとしたら、犬くらいの大きさってことになる。犬——つまり狼サイズ・・・。
カミルは、いよいよその場にへたり込んだ。ああ、俺、終わった・・・。
闇色に塗りつぶされたよな茂みが、ガサガサを押し分けられる。カミルはギュッと目をつぶった。もう何も見たくない。自分が食われるとこなんか、なおさらごめんだ。ああ、食われるってどんな感じだ?どうせなら、さっさと終わってくれ。爺さんが鶏を絞める時みてぇに——
「・・・カミル?」
懐かしい声がカミルを呼んだ。狼の唸り声でもなく、鋭い牙をギリギリ言わせる音でもない。恐る恐る目を開けると、そこにはエリアスがいた。
「エ、エ・・・エ」
思わず情けない声が口から漏れ出した。狼じゃない。エリアスだ。いつもの服にいつものベルト。弓術大会から飛び出してきたからか、その腰には”いつもの”剣は下がってはいなかったが。地獄に仏とは事のことだ!思わず飛びつこうとしたカミルを、エリアスが左手の掌を向けて制した。カミルはハッとして動きを止めた。
”止まれ。”の合図だ。
次いで右手の指先を唇に当てる。
今度は”静かにしろ”。エリアスは一度カミルを見て、そして目線を鋭くあちこちに動かした。
奴らがいる。そこと、そこと、そこに。迂闊に動くな。
エリアスの視線では狼は三頭。カミルの背後。右。更にその奥。視線の角度から見るに、そこそこ距離はある。けど安心できるほどの距離じゃねえ。エリアスの態度がそれを物語っていた。
今度こそ動けねえ。動いたら、終わる気がする。
そう思っているのに、カミルの足は主人よりも先に降参して、その場にへなへなとへたり込んでしまった。その動きに反応するように、気配が一つ、近くなる。
エリアスの唇が焦ったように、「お前は逃げろ」と小さく動いた。カミルはロングソードを杖みたいにして縋りつきながら、同じように唇を動かした。
”足が動かねぇ”
エリアスの眉が僅かに寄った。怒っているわけでも、呆れているわけでもない。ただ、”動けないカミル”をどうやってここから逃がすか。その一点に集中しているようだった。
エリアスは丸腰だ。いつもなら、最低でも短剣くらいは持ち歩くのに。
俺のせいだ——
——お前のせいだ!——
空っぽのエリアスの腰ベルトが、カミルを指さすようにかすかに揺れた。
弓術大会でなきゃ、短剣くらい装備したさ!森に逃げたのは勢いだったかも知れねぇけど、お前が余計な事をしなければこんな目に遭わずにすんんだんだ!お前のせいだ。お前のせいだ。
——お前なんか、大っ嫌いだ!!——
あの時の捨て台詞が耳の奥で弾け飛び、その破片がカミルの中のあちこちに刺さった。息が詰まる。喉が小さな悲鳴のような音を漏らす。視界がぐらりと傾きそうになる。
足は震えて使い物にならない。もし動けたとしても、俺一人逃げ出して、丸腰のエリアスはどうするつもりだ?
カミルはエリアスに向かって唇を動かした。
”お前だけ逃げろ”
エリアスは一瞬驚いたように目を見開いたが、きっぱりと首を横に振った。なんでだよ・・・!
ずるっと手からロングソードが滑り落ちそうになり、カミルは慌てて力を入れた。手の方も限界だ。痛みを通り越して感覚がない。ああ・・・せめて、俺が剣をまともに使えればなあ。俺には弓があるから、剣なんてショートソードが使えりゃ十分。なんて言わずに、もうちょっと真面目に爺さんの訓練に、身ぃ入れときゃよかった。そうしたら今頃、コイツで狼なんて——
カミルはハッと顔を上げた。エリアスとバチっと目が合う。互いにぶつかり合った視線が、この場を切り抜ける唯一の、そして最も合理的な答えを同時に導き出した。言葉なんていらない。ただ、そこには絶対的な確信があった。
カミルは息を整えると、片方の膝を立てて座り直し、鞘をその膝の上に斜めに固定した。ロングソードの柄を、抜きやすい角度に。
カミルが動いたせいだろうか。また一歩。狼の気配が濃くなる。
エリアスに向き直り、カミルは頷いた。エリアスが静かに頷き返す。
アイスブルーの瞳と、アンバーゴールドの瞳。幼いころから見つめ合い、笑いあい、時には睨み合って来た双方の目にはもう恐れはない。迷いもない。あるのは互いへの信頼だけ。
一瞬の間——次の瞬間エリアスがダッとばかりに駆け出した。背中でグワッと獣の声が上がる。森の空気全体が牙を剥いた。それでもカミルはもう目を閉じなかった。角度の調整。鞘の傾き加減。グングン近づくエリアスとの距離を正確に計算し、カミルは絶妙な角度で柄を差し出した。
ガッと鞘を支える両手に衝撃が走る。
エリアスの手が柄を掴み、抜きざま、カミルの背後に向かって刃を払い上げた。風が震え、光が跳ねる。すぐさまカミルは振り返ったものの、後ろを向いた時には既に、ドウと重い毛皮を纏った肉の塊が倒れこんでいた。
エリアスは目は、もう次の獲物の方に向いていた。新品のロングソードから、今しがた斬りつけた狼の血が滴っている。狼の足運びが、ずる賢くエリアスの背後に回り込むように弧を描く。
させるかよ!
カミルは石ころを掴むと、狼に向かってぶん投げた。ビュンッっと飛んだ石が、うまい具合に鼻先にヒットした。きゃいん、と無害な子犬みたいな声を上げて狼の態勢が崩れる。それを逃すはずもなく、エリアスのブーツが狼の頭を地面に縫い留めた。ブーツの下で、陸にあげられた魚のようにビチビチと身もだえる狼。何で止めを刺さないんだ?と思う間もなく、今まで茂みの奥で息を潜めていた最後の一匹がエリアスに飛び掛かった。いや、もしかしたら最初から、エリアスの攻撃の合間を狙っていたのかもしれない。
エリアスが歯で噛みしめるような、唸り声にも似た低い音を喉の奥で鳴らした。
思ったよりも距離が近い。振り上げも、払いも、間に合わないかもしれない。青くなるカミルの目の前で、エリアスの手が落ち着いた動きでリカッソを掴みなおすと、そのままの勢いで狼の眉間に鋭い突き攻撃を喰らわせた。リカッソを持つことで、柄を握るよりも素早く、また確実な攻撃を繰り出せる。
最初から計算済みってことかよ。
バキッ!と骨が砕ける音。そして、力なく倒れ伏す灰色の塊一つ。
エリアスが踏みつけた足をどかすと、先ほどカミルが石を当てた狼がよろよろと這い出した。もう威嚇する気力もないのか、足を引きずりながらも、それでも全力で狼が森の奥に駆け去って行った。
ふう。と息をつき、エリアスがこちらを振り返る。漸く森の中に真の静寂が訪れた。
「お、お、おま・・・」
「カミル、無事か?」
歩み寄って来たエリアスがカミルに手を差し伸べた。見上げるエリアスの頬には、狼の血が散っている。カミルは思わずその手に飛びついた。
「お前!お前って、やっぱすっげえよ!」
カミルはエリアスの手を痺れる手で思いっきり引っ張った。力加減なんて、これっぽっちも考えていなかった。
「おわ!」と剣を持ったまま、草を落ち葉と腐葉土の上に膝をつくエリアス。その煽りを喰らって自分も土の上を転がりながらも、カミルは「すっげぇ!」を連発した。それ以外の言葉が出てこない。本当は「ごめん」とか「ありがとう」とか言うところなんだろうけど。
戦闘の興奮もそうだが、それよりも何よりもエリアスの剣術の鮮やかさを見た後で、「すげぇ!」以外の言葉を吐ける人間がいるかよ!
ひとしきり「すげぇ!」を連発して落ち葉をまき散らした後、カミルはやっとエリアスから手を離して、落ち葉の上に胡坐をかいた。
服の、胸や腹を落ち葉塗れ、土まみれにしたエリアスは、ポカンと口を開けた後、カミルにふっと笑みを零した。
「弓の天才が・・・何を言ってるんだ」
「言うって!ってか、言うだろ!走り抜けながらの切り上げをキメた後で、足で狼の野郎を踏みつけて、最後にリカッソ突き!こんなコンビネーション出来る奴、大人でもそうはいないぜ!」
エリアスの動きを身振り手振り付きで説明しながら、カミルは興奮して感覚が戻り始めた腕を振り回した。
「お祖父様なら出来る」
「ありゃ、別だ。あの爺さんバケモンだもん」
エリアスは何か言おうと顔を上げたが、何か言う代わりに、ゆっくりと体を起こした。そして、ポツリと呟いた。
「石・・・」
「あん?」
「投げてくれて、助かった」
いうや否やエリアスは立ち上がると、服で剣を拭った。
「うわ!きったね」
「仕方ないだろう!このままにしといたら錆びんだろう!?」
「さっさと仕舞えよ!」カミルはエリアスに鞘を放った。
けど——「助かった」か。ポッと温かい火が胸の奥の方に灯った。いつかのような、燻るような熾きとは違う。寒い日に家族総出で作業に出てやっとのことで家に戻った時。真っ暗な家の中、手探りで婆ちゃんが付けてくれる蝋燭の灯りのような温もりを、カミルは感じていた。
「なあ」
「うん?」
腰のベルトに真新しい剣を手挟んで、エリアスが向き直った。そうしていると、最初からエリアスの持ち物みたいに見える。カミルは剣を指さした。
「その剣にさ、名前付けねえ?」
「はあ?名前?ただのロングソードにか?」
「ただじゃねえよ!二人で取ったソードだよ!」
「二人でじゃない。お前が取ったんだろ?」
「何でだよ!お前がいなかったら俺、今頃狼の夕メシになってたとこだっつーの!」
エリアスはやれやれと肩をすくめた。
「じゃ、・・・お前が付けろよ」
「へ?」
カミルの口から間抜けた声が飛び出した。お前が付けろ。そう来るとは予想してなかった。
「歩きながら考えろ。直に日が暮れる」
腕組みして首を傾げるカミルをエリアスが急かした。その口調は、いつものエリアスの物だ。呆れながら、笑いながら、そしてちょっぴり怒りながら。それでも辛抱強くカミルに付き合ってくれる、いつものエリアスの物だ。
「よし!決めた!」
歩きながら程なくしてあげた声に、エリアスの背中が一瞬ビクッと震える。「大声出すなよ!奴らがまた戻ってきたら、どうすんだ!」と言うエリアスを完全に無視して、カミルはビシッと剣を指さした。
「狼ズシャ!の剣!」
エリアスだけでなく、森そのものが凍り付いたように固まった。長めの沈黙。思いだしたように揺れる枝葉。そのさやさやいう音が笑われてるみたいで、なんか気に入らねえ。
「・・・却下」
「何でだよ!?」
「説明するまでもないだろう」名前にすらなってない。
エリアスがくるりと背を向ける。
「なってるじゃねえか!狼をこうズシャ!とやった剣だ」これ以上分かりやすい名前はねぇ!
カミルがその背中を追う。
洞窟のような森を抜け、木々の向こうにいつもの訓練場が見えてきた。真っ赤な夕空が草原を眩しく染めている。遠くから流れてくる祭りの音楽が、途切れることのない二人の少年の言い争いに、静かに寄り添った。




