第五十四話 『怯える英雄』
カミルは外套の襟元を強く搔き合わせ、歩き出した。もう何も見ねえぞ。俺は帰るんだ。帰る。帰る。
呪文のように心の中で「帰る」を繰り返しながら、視線を地面の石畳に集中させた。別に怖いわけじゃねえ。暗いし寒いし、アルフリーダを一人にしておけねえし。またエリアスの奴が熱を出してるかもしれねぇし。
一体誰に向けての言い訳なのか。とにかくカミルは心の中で思いつく限りの言い訳を並べ立てながら、足早に家に向かって懸命に足を動かした。
家の輪郭が見えてくると、ホッとするのと同時に足首を掴まれるような恐怖心が蘇ってきた。カミルは半ば走り出すような勢いでドアの取っ手に噛り付いた。
逃げ込むように家の中に転がり込む。そんなカミルを落ち着かせるように、ふわりと温かい空気が頬を撫でた。冷たい汗を拭いながら顔を上げると、暖炉の側に引き寄せられたテーブルで眠るエリアスの姿が見えた。決して明るくはない家の中だが、カミルは心底ほっとして思わずその場に座り込んでしまった。
エリアスが起きてたら、「何だ。そんなところに座り込んで」とか言うんだろうな。アルフリーダなら「どうしたんですか?何か怖いものでも見たんですか?」って笑いかけてくれて。
「そうなんだよアルフリーダ。俺、幽霊見ちまってさ!」「まあ、幽霊ですか?」「お前、また飲み過ぎたのか」「違ぇよ!」
そんな普通だった頃のやり取りが、無意識に頭の中で広がって行く。カミルはため息をついて立ち上がった。その時、漸く家の異常に気が付いた。探すまでもない。
アルフリーダがいない。カミルはエリアスの側に駆け寄った。
エリアスをテーブルからベッドへ移そうとする度に、その時だけはアルフリーダは頑なに立ちふさがった。声は発しない。表情も動かない。けれど、テーブルの前に立ちふさがる彼女の姿は、動かない岩のようでカミルは毎回諦めざるを得なかった。結局担ぎ込まれたあの日から、エリアスはずっとテーブルの上から動いていない。今もエリアスは静かな寝息を立てている。
いや、それはいい。異常はそこじゃない。カミルはいつもアルフリーダが座っていた椅子に目を落とした。
何度見ても、少し傾いでガタつく丸椅子が空っぽだ。一瞬、あまりに疲れが溜まりすぎて、椅子から転げ落ちて寝ているのかと思った。けれども床にも何もない。アルフリーダが治療の合間に何度も拭き清めた——それでもどこか血の色が残る——煤けた床しかない。
焦燥感が駆けあがってくる。
エリアスの怪我、壊れたアルフリーダ。魔女と後ろ指を指され、その上幽霊まで徘徊してるってのに、ここに来てアルフリーダが消えるなんて——!
「アルフ——」
「声を・・・たてるな・・・」
弱々しい、だが耳になじみ深い声にカミルはハッと固まった。見ると、テーブルの上でアイスブルーの瞳が薄く開いている。
「んだよ、起きてたのか?」
エリアスはそれには答えず、ゆっくりと瞬きをした。その瞳はどこか怯えているようで、カミルは言い知れない不安感に襲われた。カミルの知る限り、エリアスは子供の時ですらいつも落ち着いていた。愚直なまでに己を研ぎ澄まし、恐怖を瞑想で彼方へと追いやる。そのエリアスが怯えている?
そんなエリアスの瞳の色が、どうにも落ち着かない。カミルはわざといつもの調子で語り掛けた。
「何か飲むか?」
エリアスは目を閉じて、僅かに首を横に振る。
「あ、あー。そういやシチューがあったんだけどなあ、リュカのヤツに全部くれちまったからなあ。お前の分も残しときゃ——」良かったぜと言いかける声に、エリアスの声が被さった。
「・・・声を立てるなと、言っただろうが・・・」
先ほどよりも少しだけ強い声。カミルは思わず口をつぐんだ。
「なあ、エリアス」
カミルは声を落として、エリアスに顔を近づけまでは良いものの。言葉が続かない。
何があったんだよ。何を知ってるんだよ。アルフリーダはどこに行っちまったんだよ。ってか、お前、怪我の具合はどうなんだよ。
言葉がカミルの口の中で、グルグルとただ回っている。子供の頃、寒い霜の朝に歌いながら輪を作って回った、あの遊びみたいに。
カミルがまごまごやっているうちに、エリアスの視線がスイッと視線を煤けた天井に逃げた。
「俺は・・・眠っていた・・・」
はあ?と思った時、エリアスがこっちを向いた。アイスブルーの瞳が鋭くカミルを射抜く。
「いいな?」
その一言には、いつものエリアスの重みが確かにあった。そしてその言葉の通り、エリアスは瞼を閉じてしまった。
おい?何だってんだよ。
しかしカミルはそれ以上問いかけるつもりはなかった。こう言い切るエリアスに何を話しかけたところで、口を割らないだろう。カミルにせいぜい出来ることと言えば、黙ってエリアスに従うだけ。ちぇ!癪に障るぜ!その澄ました鼻でも、くすぐってやろうか。
カミルは折り曲げていた腰を伸ばして、眠るエリアスを上から睨みつけた。
しかし、エリアスはそう言ったが、アルフリーダを放っておいて良いのだろうか?いくら魔女だとか恐れられているとは言え、女性が一人でこんな夜中に姿を消したわけだし。それにエリアスはどういうつもりなんだ?アルフリーダは婚約者だろう。
胸の奥がまたグルグルと回り始めた時——
ガタ。裏口のドアが静かに開き、アルフリーダが入って来た。手には何やら大きな布の塊を持って。
んだよ。洗濯かよ。
全身から力が抜けそうになる。アルフリーダはそのまま窓辺のチェストに歩み寄ると、立ったまま洗い立てのシーツを静かに畳み始めた。
「珍しいな。お前が洗濯物を取り込み忘れるなんてよ」
アルフリーダは反応しない。カミルも返答を期待していたわけでもない。ただ、少しでも自分から遠ざけたかったのだ。不安を。
カミルはチラッと眠るエリアスの方に視線をやった。エリアスは相変わらず完璧なまでの眠姿を晒している。呼吸も乱れておらず、瞼もまつ毛も動かない。これは本当に眠ってしまったのかもしれない。「俺は眠っていた」とわざわざ言うくらいだ。おそらくアルフリーダには、自分が目を覚ましたことを黙っていろ、と言うことなのだろう。
「さっきさあ、リュカを送って行った帰り、俺もなんか変なもん見ちまったわ」
アハハ、と笑うカミルの声とシーツの衣擦れの音が重なる。
「広場に差し掛かった時、酒場の看板のとこでさ。確かに女みてぇなほっそい影だったなあ。よく見ようとした時、急に夜鳴き鳥が泣きやがって。ったく、心臓止まるかと思ったぜ」
途端、衣擦れの音が止まった。アルフリーダを見やると、手を止めてジッとこちらを見つめている。その顔は、礼拝堂の壁に描かれた、聖女アマリアの無機質な表情そっくりだ。見ているようで、何も見ていない。それなのになぜ手を止めたんだ?何故、そんな風に俺を見る?
「あ?え~っと、今の話、アルフリーダも怖かったのか?」
冗談めかして問いかけると、スッと視線が外れた。手が動き、何事もなかったようにまたシーツを畳み始める。
いつもの夜。いつもの家の匂い。安心できる空気のはずだが、カミルはどこか落ち着かなさを感じていた。幽霊の話なんかをしたせいで、細い影の欠片を家の中に招き入れてしまったような気がして、カミルはぶるりと肩を震わせた。




