第五十三話 『あるべき世界と幽霊の影』
今夜は良い夜だった。久しぶりに気のいい仲間たちとも話せたし、美味いシチューにもありつけた。最初のうちは長いこと放置されていた皮を、無理矢理歪めてヒビを入れるようだったカミルの頬も、リュカを送り届ける頃にはもうすっかりとほぐれていた。シチューの残りが入った重たい鍋をガキたちの土産にと持ってやって「明日ぜってぇ返せよな。鍋がねえとアルフリーダが困んだから」「分かった!」と言うやりとりをリュカと交わしから、カミルは一つため息をついた。
一人きりになると、まるで待ち伏せしていたかのように、今となってはすっかり馴染みになってしまった不安がカミルにゆるりと這いずってくる。
——アルフリーダは、ずっとああなの?——
不安の虫がミレイユの声になって、そっとカミルの胸の奥を噛んだ。その言葉の裏側に全ての疑問が詰まっていることを、その場にいた全員がそう感じただろう。
——アルフリーダは何故壊れてしまったの?
——彼女の治療法は正しいの?
——そもそもエリアスは何故怪我をしたの?
それを皮切りに虫たちが次から次にカミルを噛み始める。一つ一つは大したことはない。それでもそれが束となってカミルを蝕む。
虫の一匹が、今度はルークの声を真似た。
——アルフリーダは、もう元に戻らないのか?——
続いてティナの声。
——エリアスは本当に助かるの?——
カミルは、半ば崩れかけた礼拝堂の階段を駆け下りた。右側にくだんのナナカマドの木が見えてくる。幽霊が立っていたとリュカが話していたあの木だ。むろん今は幽霊など影も形もありはしない。それでもカミルは、あたかもそこに子供を怖がらせる幽霊がいるかのように拳を固めた。
「くそ!」
ゴッ。
カミルの拳が冷たい幹に叩きつけられ、骨に響くような鈍い音が夜気に溶けた。痛みが拳から腕へ、腕から肩へと這い上がり、体を這う嫌な虫どもを衝撃で払い落していく。
「・・・いてぇ」
妙に間抜けた声を、耳が捉えた。夜だし、礼拝堂の前だし、いもしない幽霊に見立てて木をぶん殴ってるしさ。おまけに寒いと来た。役満だ。カミルの唇から、ぽろっと笑いの欠片のような音が漏れた。 「・・・帰るか」
カミルはポツリと呟くと、痛む拳をさすりながら夜の道を歩き始めた。冷たい空気は相変わらず寒くて、古い毛織物の外套では夜の冷たさはさすがに防げない。そろそろ毛皮を着ようかな。いや、まだ早いか。
けれど、さっき木を殴った拳には冷たい夜気が心地よい。静けさが波だったカミルの心をゆっくりと沈めていく。そんな静けさの中でカミルはふと思った。
あ~。こんな時、あいつならどうすっかなあ?
あいつなら壊れちまったアルフリーダにも、根気強く向き合っただろうか?町に蔓延る妙な噂にも(魔女だとか!ふざけやがって)、静かな声を上げて黙らせただろうか?リュカみてぇなガキが「幽霊が怖いんだ」なんて言ってんのを聞いたら、あいつならどう動いただろうか。
そこまで考えて、カミルはふっと口元を緩めて笑った。
あいつなら絶対、聞いたその日の夜から夜回りとかおっぱじめそうだぜ。「来いカミル」って俺のことも引きずり出してよ。「はあ?こっちは疲れてんだよ!ったく、面倒くせぇなあ」なんて文句言いながら、松明かなんか引っさげて奴の背中を追いかけたんだろうな。戻るとアルフリーダが「お疲れ様。寒かったでしょう」なんて暖かい飲み物か何かを出してくれてさ・・・
不覚にも、鼻の奥がツンと痛くなった。
カミルは凍える左手に、はあっと息を吐いて温めた。大丈夫だ。すぐにそうなるさ。それがあるべき本来の姿なんだから。
エリアスの怪我も直に治るだろう。その証拠に熱も下がったし、ほんの短い間なら受け答えもする。縫ったところも腐っているような感じはないし、アルフリーダの様子からしておおよそ経過も順調なんだろう。でなきゃ、あんな風に座ってたりしないもんな。
エリアスが治れば——全部元通りだ。
いつの間にか広場に差し掛かっていた。広場は空っぽで静まり返り、夜の中に深く沈んでいた。ここで収穫祭のバカ騒ぎがあったなんて、まるで冗談ごとのようだ。チラリと、定宿にしている酒場の方を見やる。ブラントの酒場も今夜は寒さで客足が減ったのか、戸口は閉められて薄暗い。燃え残りの松明だけが弱々しい熾火になって、庇から下がった看板の酒瓶の絵を小さく照らしていた。
その看板の下で——何かが動いた。
看板の影の中に、何かの上半身が溶け込んでいる。薄い月明かりを頼りに、カミルは目を凝らした。看板の四角い影の下から、細長い下半身の筋が黒々と石畳の上に伸びている。カミルは自分の喉が鋭く鳴るのを、抑えきれなかった。ヒュウっという甲高い音が漏れ、カミルは慌てて自分の口を塞ぐ。その音が聞こえたのか、細長い影がゆらりとこちらを向いた。影の根元で、明らかにつま先がこちらを向いている。そのつま先の少し上あたりで、何かの布地が冷たい夜風にふわりと揺れた。女だ。カミルは本能的に察した。細いつま先。揺れる布切れはおそらく女のスカートなんだろう。
服の下で、汗がどっと吹き出した。
こいつがリュカの言っていた幽霊だって言うのかよ。確かに細くて小柄な女の影に見える。少なくとも死者の騎士には、どう頑張っても見えない。それでもやはり幽霊かもしれない思うと、怖気が体を凍らせた。
「お、お、・・・」
喉がカラカラで声が出ない。まるで口の中に布切れでも押し込まれてるみてぇだ。カミルは懸命に声を振り絞った。
「おい、お前・・・」
自分でも驚くほど弱々しい声だったが、どうにか喋れた。が、影の女は何も反応しない。先ほどまで揺れていたスカートでさえも、まるで時間そのものが止まってしまったように固まっている。静寂の中でカミルは影と見つめ合った。
たっぷり三十秒はあっただろうか。息を殺して見つめる女の影はやはり動きを見せない。カミルは段々とそれが自分の見間違いかと思い始めた。看板の影と月明かりの角度が、たまたま女の形に見えただけで。それにほら、幽霊って恨み言とか言うもんだろ?こんな風に黙って立ってるだけとかないだろう。せめてもう一人くらいこれを一緒に見ている者がいてくれれば・・・。カミルは視線だけを動かして周囲の気配を探った。家に帰りそびれた酔っ払いとか、せめて猫でもいい。俺以外の目で、この影がどう見えるのかを聞きたい。その瞬間——
「ひぃ・・・」
掠れるような声が、広場の端の方から流れてきた。
「うわっ!」
夜の静寂を破るように、カミルは叫んだ。やべ。と口元を再度押さえながら声の方を振り返ると、広場の端にポツンと立った木から、バサバサッと夜泣き鳥が羽音を立てて飛び立つところだった。
まるで、せっかく寝てたのに起こしやがってと、大きな声を上げたカミルに文句を言うように「ひいぃぃ・・・」と言う鳴き声を響かせながら。
夜泣き鳥の動きが完全に闇空に溶けていくのを見送ってから、カミルは大きく息をついた。
んだよ、鳥かよ。脅かしやがって。
額の汗を拭いながらもう一度先ほどの影の方に向き直る。果たして——影は消えていた。今度こそ見間違いなどではない。先ほどまで黒々と石畳に伸びていた痩せぎすの影が、今では跡形もなく消えている。
今度こそ背筋が、ぞくりと冷えた。




