第四十九話 『聖女の御使い』
——ヴァルド。
エリアスの口からその名を聞いた時、アルフリーダの濡れた心に眩いまでの光が差し込まれた。
『私はただの女の子。あなたと同じ』
ほんの少し気まずそうにもじもじしながら手を差し伸べてくる、銀色の髪の少女の面影が蘇る。お転婆で良く笑う子。私にとって、たった一人の親友。そしてたった一つの光だった。
乾いて突っ張った唇で、そっと少女の名前を囁いてみる。
「・・・シア・・・」
声がかすれて言葉にならない。
アリシア。
アルフリーダは時折震えを見せるエリアスの手に自分の手を重ねながら目を閉じた。じわっと闇が瞼の奥に広がり、記憶の中の春の光がアルフリーダの視界を照らした。
修道院の庭。いつも静かで、洗濯物のはためく音と小鳥の声しか聞こえないあの場所。遠くから午後の祈りの声が厳かに聞こえてくる。少女には大きすぎる洗濯籠を引きずりながら、アルフリーダが一本の木の下を通りかかった時。急に枝が落ちてきた。
「ねえ!そこの子!」
頭上から降りかかる少女の声。アルフリーダは驚いて洗濯籠から手を離してポカンと顔を上げた。
「そう!あなたよ!」
眩しい木漏れ日に目を眇めながら見上げると、少女が一人木の枝に腰を掛けていた。色は地味だが上質な絹のドレスの裾からは、流行だと言うレースがふんだんに重ねられたペチコートがひらひらと風になびいている。その裾を気にも留めずに、少女は足をぶらぶらさせながら、こちらを遠慮なしに指さした。
「ねえ、こっちに登って来なさいよ」
登って来い?ですって?アルフリーダは思わず周囲をきょろきょろと見渡した。
「何やってんの?あなたに言ってんのよ。そこの金髪のあなたに!」
「わ、私?」
少女は枝の上で得意そうに顎を上げた。
「そう、あなたよ。ねぇ、小鳥の卵を見たくない?」
ハーフアップに結い上げた髪がキラキラと光を受けて輝いている。初めて見る子だ。あの子は誰だろう?もしかして聖女様の御使い様?背中に羽があったりしない?
「ちょっと!人の話聞いてんの?」
御使い様が不機嫌そうに眉毛を跳ね上げた。
「え?あ、ごめんなさい。小鳥の・・・卵だっけ?」
御使い少女が満足そうにうなずいた。
「ここに小鳥の巣があるの。薄青色で、カルセドニーみたいな縞模様なうっすらあってね。とってもきれいで可愛いの。ねえ?登ってこない?」
小鳥の卵!?ふわふわの羽で作られた丸いおうちの中にある、カルセドニーのみたいな綺麗な卵!見たいに決まっている。しかし、その宝石を見るために必要な技能があるかと言うと・・・。自分ではどうにも自信がない。アルフリーダは木の根元から角度を変えて”お宝の巣”が見えないかと目を凝らした。御使い少女がプッと吹き出した。
「そんなところから見えるわけがないわ。登って来なきゃ、ね」
そうか。宝石の前に出られるのは試練を通過した者のみ。と言う事ね。アルフリーダは洗濯籠をひっくり返して木の根元に置くと、おもむろにその上に上った。体重で籠がたわむ。けれども、そのままよじ登るよりはいくらか手助けになるだろう。
「ほら、手を貸してあげるわ」
やっぱりこの少女は聖女の御使いだ!アルフリーダは木の幹に飛びついた。とっかかりはある。そこに足をかけて次は枝を手で掴んで——
「え?ちょっ!・・・本気!?」
御使い少女の目がまん丸に見開かれる。その瞳の美しい色——
アルフリーダは息を飲みこんだ。カルセドニーどころではない。御使い様の瞳の色は、金よりも価値があると言われているエメラルドのような緑色だ。なんて綺麗なんだろう・・・
思わず見とれた瞬間、靴が滑った。
「あっ——」
御使い少女のグリーンの瞳が更に大きく見開かれる。ああ、綺麗だな。なんて思う間もなく、アルフリーダは自分が伏せた籠を押しつぶすようにして木から滑り落ちてしまった。
「大丈夫!?」
御使い様が、するするとしなやかな蛇のように滑り降りてくると、不格好に籠にお尻をめり込ませているアルフリーダの手をグイっと引っ張った。
「もう!本当に登ってくる姫がどこにいるって言うよ!」
地面に立たせると、御使い少女がアルフリーダの服をポンポンと叩いて埃を払い落としてくれた。
あれ?羽が、ない?
「ちょっと聞いてるの?姫様!?」
「あれ?羽は?え?隠してるの?」
アルフリーダは御使い少女の背後に回り込んで、御使いの翼を探した。
「ちょっと、頭でも打った?」
御使い少女の顔色がさっと青ざめる。あ。心配させちゃってる。アルフリーダは慌てて頭を振った。
「頭は打っていませんし、どこも痛くはありません。ご心配をかけして——」
「ちょっと待ってよ!なんでそんな堅苦しい言葉使いなの?」
「え?だって、聖女の御使い様、でしょう?」それに私の事を姫だってちゃんと知っているし。
御使い少女は一瞬口をあんぐりと開けてポカンとした。その次の瞬間、いきなり降りかかるにわか雨のようにキャハハハと腹を抱えて笑い始めた。
「あなた!本当にそう思ってたの?私が聖女の御使いだって?羽なんてあるわけないじゃない!」
少女が髪の毛をかき上げてアルフリーダに背中を見せた。すっきりと細い少女の背中に銀髪が何本か垂れ下がっている。それだけの当たり前な背中だ。
「だって・・・。光ってたし、木の上にいたし。そ、それに、宝石みたいな小鳥の卵の守りてでしょう?」
真っ赤になって言い返すと、少女の笑いの発作が更に悪化した。ひーひー声を涸らして、木の幹を支えにしながらやっと立っていると言う感じだ。
「私はただの女の子よ!あなたと同じ」
私と、同じ。その言葉が、アルフリーダの中でじわじわと熱を帯び始め、やがて強い光を放った。
修道院の生活は、楽しかった。静かな祈り。人々への奉仕。薬草の種類や、聖典を覚えることだけは正直少し退屈けだったけれど。母と過ごせるし、縫物も料理も、聖歌を歌うことも好きだった。
ただ一つ。
欲を言うとすれば、アルフリーダには遊び相手と呼べる友達がいなかった。施しをもらいに来る子供たちは、いつもアルフリーダの事を遠巻きにしていた。目があったら笑いかけてくれる。少し手を振ってくれることもある。でもそれだけ。修道女たちが遊びを咎めるわけでも、咎められることもなかった。
きっと彼らは幼いなりに気が付いていたのだろう。「この子は自分たちとは違う」と。それがちょっぴり寂しかった。
それなのに目の前の少女は、アルフリーダに真っすぐな視線を向けて「私と同じ」と言ってくれたのだ。小鳥の卵を見ようと誘ってくれた。
嬉しい。でも信じられない。やっぱりこの子は聖女の御使いなんじゃないの?まじまじと少女を見つめていると、目の前にスッと少女の手が差し伸べられた。
「私、アリシア=ヴァルド。今日からここで暮らすの」
ピクっと手の中でエリアスの手が僅かに動いて、アルフリーダを百年前のあの日から今へと引き戻した。ワインと煮出したハーブの匂いが鼻を刺す。バタン、バタンと開けっ放しの鎧戸が寒風に晒されて、虚ろな音を立てている。
横たわるエリアスのまつ毛が僅かに震えたように見えて、アルフリーダは慄いて身を引いた。ガタッと椅子が音を立てる。手からエリアスの大きな手がこぼれ落ちて、テーブルの上で止まる。罪悪感が引き潮のように押し寄せてきて、アルフリーダは体を震わせた。
けれどアルフリーダの浅ましい願いを叶えるように、エリアスの瞼は閉じたままだった。動かないまつ毛を確認してから、アルフリーダは椅子に項垂れるようにして座り直した。
アリシア。ごめんなさい。あなたの大切な子孫を——私は守れなかった。
その上、自分はエリアスを利用した。
ヴァルドと言う名を聞いた時、エクリア=ノクスのことしか頭になかった。それなのに——彼は私のために自分を犠牲にした。
「ごめ・・・なさ・・・」
誰にも届かない声だった。途切れ途切れで。例え横で耳をそばだてる者がいたとしても、単なる吐息にしか聞こえないかもしれない声。
百年前の少女にも。目の前の青年にも。そして自分自身にさえ届かない空しい謝罪。
その言葉は、窓から入り込む冷たい空気に滲むように、静かに溶けていった。




