第四十八話 『聖騎士の煌めき』
アルフリーダの手がカミルの手を引いている。曇った宝石のような、光のない瞳がカミルを一瞥した。そしてカミルの手からパンを取ると、ゆっくりとそれを口に運び始めた。ひび割れだらけの指が、硬い黒パンを千切るパキッ、ルメリメリと言う音が、浅い呼吸音の上にそっと重なる。
肩の上で子供がほうっと息をついた。その音が思いがけなく柔らかくて、自分の肩に目をやると、肩の上で子供が小さく微笑んでいた。
「食べたね」
子どもがニッコリとカミルに笑いかけてくる。その笑顔にカミルは思わず目頭が熱くなった。
「まったく——ガキはよぉ」
子どもを床に下ろし、カミルはさりげなく背を向けると鼻を啜った。
「んで?お前の名前、何て言うんだ?」
背を向けたままぶっきらぼうに問いかけた時だった。
ガン!
鎧戸が鳴った。子供がビクッと肩を震わせる。続いてベシャ!微かにだが、聞えよがしの下卑た笑い声も。
カミルは荒々しく窓に近づくと、勢いよく鎧戸を開けた。タタタッと逃げ去る足音。身を乗り出して鎧戸を外側から見るまでもなく、腐った甘ったるい吐き気を催す匂いが鼻を突いた。
「っ野郎——」
カミルは考えるよりも早く窓から飛び出した。卑怯者が!冷たい空気を胸の奥底まで吸い込みながら、カミルは足音の消えた方へ無我夢中で駆けた。狩人の感覚へと瞬時に切り替わるのが分かる。微かな獲物の足音、動く空気の匂い。カミルは口元を笑みの形に歪ませた。こいつは猪よりもウサギよりもバレバレだぜ。
サッと黒い影が通行人の向こうに隠れるようにして角を曲がる。
逃げ切ったつもりかよ。
カミルは走りながら足元の石ころを拾い上げた。角を曲がると、下卑た笑い声が耳を汚した。逃げ切った安心感からか、二人の男が足を緩めながら笑い合っている。カミルはその一人の背中に狙いを付けて、ためらいなく投げつけた。
「ぎゃっ!」
潰れたネズミみたいな声にカミルは思わず笑いを堪えた。
「何しやがる!」もう一人が声を荒げて、振り返った。どちらも若い男だ。カミルよりは年上だろうが、年長者と呼ぶには若すぎる。二人とも襟や裾がほつれた冬用の外套を引っかけている。
「わりぃ。当たっちまったか」
石が当たった方の男の手に汚れたバケツが握られている。その中にドロドロに腐った何かが見え隠れした。カミルは鼻を鳴らした。
やっぱりか。こいつが腐った何かを投げつけやがったんだな。
「お前、あの騎士の仲間だろう?」
肩を撫でさすりながら、もう一人の男がこちらを指さしてニヤリと笑った。手袋の指先が破れて、煤けた指先が丸見えだ。
「ハッ!いいザマだよなぁ!騎士の家系だか何だか知らねえけど、偉そうに剣なんかぶら下げてる割りに怪我したって?」
「調子に乗って振り回して、自分で切ったんじゃねえのか?」
カミルは腕を組んだまま何も答えず、男二人を舐めるように見つめた。もう一人の男が汚れに汚れた頭巾を目深に被りなおして、クックッと喉の奥で笑う。
「騎士様の具合はどうなんだ?もうあの呪われた魔女に殺されちまったか?それとも生贄にでもされたってかよ」
バケツ男がそれを聞いて、さも堪えきれないと言うように、黄ばんだ歯をむき出しにして吹き出した。
「今頃、あの騎士の肉で、もう一つ人形でも、こしらえてんじゃないのか?」「いや、違ぇだろ!あいつの肉で炊き出しだろ?」二人で腹を抱え、互いに肩を叩き合って笑い転げている。
こいつら・・・。吐き気がする。怒りが毒のように血管をものすごい勢いでグルグルと巡っている。その毒がとうとう脳天を突き抜けて、カミルの思考は吹き飛ばした。
「アハハハハハ!」
言い返す言葉の代わりに、カミルの口から出てきたのは、笑い声だった。狂気を孕んだけたたましい高笑い。
二人の男たちの顔が、ゲスな馬鹿笑いのまま凍り付く。
「お前らには、感謝しかねえぜ!」
カミルはゆっくりと二匹のゲスどもとの距離を詰めた。
「丁度、俺も憂さ晴らしがしてぇところだったんでなあ!」
二人の顔から笑みが消え、代わりに小さな悲鳴にも似た声が漏れる。さっきまで背中を叩き合っていた手は、互いを支え合うように取り合い、揃ってカミルから後ずさる。
拳を固め、二匹のゴミに踊りかかろうとした刹那——ヒュッと小石がカミルの頭上を掠めて飛んで行った。
「コノヤロー!」
ヒュンヒュン!背後から小石が飛んでくる。それも狙いも滅茶苦茶に。
「いってぇ!」
一つがカミルの肩に当たって、思わず声を上げながら振り向いた。そこには、さっきエリアスの家にいたあのガキがいた。枝のような両足で地面を踏ん張り、懐いっぱいに小石を抱えて。そしてブンブンと目くらめっぽう投げまくっている。
「やめろ、やめろ!おま!助けに来てくれたのはありがてぇけどよ、いてっ!俺にも当たってるっての!」
「コノヤロー!カミルをいじめんなー!」
その声にカミルの時間が止まった。
——カミルをいじめんな——
ガキの頃、年上の奴らにからかわれる度に、エリアスが拳を振り上げながら走ってきた。同じ言葉を叫びながら。アイスブルーの瞳が正義に燃えている。子供の瞳とエリアスのソレとが、カミルの中で驚くほど重なって見えた。
少年は顔を真っ赤にして石を投げまくる。投げれば投げるほど、余計に狙いが定まらない。ゲス野郎どもだろうが、カミルだろうが、そこらの樽だろうがお構いなしだ。
二人組は、「なんだ、あのガキ!」と悪態をつきながら、反撃のつもりか、ゴミバケツをこちらにぶん投げて駆け去って行った。中のゴミが意外と重量があったのか、バケツはさほど飛ばずに生ごみを盛大にぶちまけながら転がっただけだった。
漸く打ち止めとなり、カミルが駆け寄ると、少年がハアハアと肩で息をしながらニカッと笑いかけた。
「オレ、リュカ!」
「・・・は?」
カミルは何を言われたのか分からずに、目を丸くして少年の顔をマジマジと見つめた。
「カミル、さっきオレに聞いたよね?名前は?って」
薄汚い路地に差し込む光を浴びて子供が、もう一度ニカっと笑った。陽光がアイスブルーの瞳に、まとも跳ね返り、見覚えのあるようなないような輝きが生まれる。カミルは思わず目を細めた。
「オレの名前!リュカ!」
カミルは完全に毒気を抜かれて、茫然と立ち尽くした。ゆっくりと魔法が解けていくように、少年の姿からもエリアスの面影がほどけていく。やがて、カミルはポツっと呟くように言った。
「お前って・・・あいつみてぇだな」
「え?あいつって?」
「怪我して寝てるあいつだよ」
「エリアス兄ちゃん?」
カミルは肩をすくめた。
「お前、エリアスのことは”兄ちゃん”って呼ぶくせに、なんで俺のことは呼び捨てなんだよ?」
リュカは一瞬キョトンとしたあと、考え込むように小首を傾げて見せた。
「分かんない」
カミルは腰をかがめて小さなリュカの脇に手を入れると、ひょいっと持ち上げる。
「ったく。エイム力まで同じって。・・・勘弁してくれよ」
大人しく肩に乗せられながら、リュカがまた不思議そうに首を傾げる。
「なんのはなし?」
「いや。お前って・・・カッコいいよな」
アルフリーダの待つ家に足を向ける。リュカは、なんだか分からないまでも「カッコいい」と言われたのが嬉しいのか、カミルの肩の上で嬉しそうに笑い声を立てた。 その笑い声に釣られて、カミルもプッと小さい笑いの欠片を吹き出した。




