第四十七話 『光無き聖女』
ふと視界の端が更に異様なものを捉えた。
裂けた皮膚から垂れているアレはなんだ?カミルは暖炉の灯りの元、目を細めた。傷口の端っこから垂れている糸のようなものは何だ。
破れた布切れ同士を縫い合わせて、更にその部分に力を入れて引き裂いた縫い目の残骸のように見えるのは?
カミルの手がアルフリーダの肩からずり落ちる。
自分を止める者がなくなったアルフリーダは、迷わずハサミをエリアスの脇腹持って行き、確かな手つきで、ぶら下げた糸ごと皮を切り取った。
周囲から悲鳴が上がる。
意識がないはずのエリアスの体が、ピクン、ビクンと陸にあげられた魚のように跳ね上がった。
「何をやっているんだ・・・」「エリアスを殺す気か!」そんな声が、そう広くはない家の中に、血の匂いと共に充満していく。思わず後ずさったカミルの背中を、誰かの手が押した。
「お前、止めろよ!エリアスの友達だろ?」
カミルはゆっくりと後ろを振り返った。青ざめた中年配の男の顔が、助けを求めるように迫ってくる。一年の半分以上町を空けているカミルには、その男がどこの誰かも分からない。
「このままだと、あの女に殺されちまうだろ!」
馬鹿言え!んなわけねぇだろ!?アルフリーダはなあ、エリアスの惚れた女で、婚約者で——
言いかけた言葉が喉の奥で張り付いたまま、声にならずに固まった。耳元で、もう一人の自分が怯えきった声で囁いてくる。
——本当にそうなのか?
カミルは淡々と手を動かすアルフリーダを見やった。その紫色の瞳には光がなく、顔には恐ろしいまでに表情と言うものがない。その頬に白い涙の筋がいくつも走っている。それが唯一、彼女に残された人間らしさの片鱗のようにカミルには見えた。
アルフリーダは泣いたんだ。俺たちの知らないところで。こんなに顔に痕が残るまで。それなら、彼女がやっているこの行為は——
アルフリーダが席を立ち、用意していた針を手に取った。彼女がいつも縫物をするときに使っている、ごく普通の縫い針だ。テーブルを回り込んで、アルフリーダはそれを暖炉の炎に近づけて針先を炙る。どういう行為なんだ?あれは?カミルの目にも、アルフリーダの行動は常軌を逸していた。
「ま・・・魔女だ」
誰かが小さく呟いた。「魔女」。その言葉が今のアルフリーダを的確に表現していて、カッと頭に血が上るのと同時に心底下腹の奥が凍えた。カミルの中で、縮み上がったもう一人の自分が、物陰に隠れるようにして震える声を上げる。
——本当に、アルフリーダはエリアスを治療しているのか?
針に、ワインが滴るやけにキラキラする糸を通し、アルフリーダはエリアスの傷口をそっと確かめるように指先でなぞる。
「あれ、絹糸じゃないかい?」
女の震える声が囁く。ワイン、炎で炙られた針、絹糸。それらの全てが怪我の治療とは程遠く、得体のしれない狂った儀式にしか見えない。
ワインに浸した布で傷を拭うとエリアスが小さく声を上げた。いつものエリアスからは想像も出来な程の弱々しい声。その残酷なまでの脆弱な声音に、更に何人かが家を出て行く。目を背け、顔を覆い、逃げ出するように。
針が皮を貫いて、絹糸が通る。その一針、一針がまるで切られた尻尾の断片を残していくようで、カミルの胸にジワリと痛みを残していった。
やがて——。傷口を破けた枕か何かのように縫い留められ、新しい包帯で巻かれる頃には、家の中で二人を見守っているのは、カミルだけとなった。
籠を抱えて、足早に駆け抜けていくカミルに、町の連中の目線が冷たく投げられる。皆、表向きはいつもと変わらないが、明らかに纏う空気が違っていた。カミルがまき散らす不機嫌さにも原因はあるかもしれないが。今では「エリアスはどうだい?」と気遣わし気に聞いてくる者もいない。それでも、こうして通りを歩くだけで町の連中はこそこそとカミルを指さし、噂し合った。
魔女の家に通う男。と。
漸く家が見えてきた時、カミルは一瞬目を瞬かせた。ドアが——開いている?
分厚い木のドアに隙間が出来、そこから部屋の薄暗さが覗いている。出てきた時は確かに閉めたはずだ。そうでなくてもアルフリーダ一人だ。胸の奥がザワリと波立ち、カミルは思わず駆け出した。
「ひゃっ!」
ドアを勢いよく開けた時、台所の隅で小さな悲鳴が上がった。なんだ?食料泥棒か?いや、そんなことよりも、アルフリーダだ。
部屋の中央を見やると、アルフリーダはそこにいた。出かけた時と全く同じ姿勢で、エリアスを見つめたまま微動だにしない。ひとまず胸を撫でおろしながら、カミルは台所に蹲る小さな影へと、どかどかと歩み寄った。作業台の向こうで、びくりと黒い小さな塊が震えた。
「ご、ごめんなさい・・・」
小さな体をもっと小さく縮こまらせて、ゆっくりと子供が顔をあげた。アイスブルーの瞳が、薄暗がりの中できらりと光る。この色には見覚えがあるぞ。確か、炊き出しの時「あったかいのが、ほんもの!」と言い放った奴じゃねえか。カミルは「ふう」と胸を撫でおろした。
「わりぃけど、この家は今取り込み中なんだよ。腹が減ってるんなら、ほら」
籠から黒パンを一つ出して子供の鼻先に持って行く。が、孤児はきっぱりと首を横に振った。
「オレじゃなくて・・・お姉ちゃんにあげてよ・・・」
アイスブルーの瞳がチラッとアルフリーダの方に流れる。カミルは少し目を見開いた。
「お前、噂が怖くねぇのかよ?」
瞬間、小さな拳がカミルの足を叩いた。不意打ちだったこともあって、カミルは小さくたたらを踏む。そんなことをお構いなしに、この小さな戦士はカミルに拳を振るい続けた。
「バカ言うなよ!お姉ちゃんがマジョなわけないだろう!?」
小さな拳を叩きつけながら、少年は氷の目に怒りを滾らせてカミルを睨み上げた。
「お前だってお姉ちゃんのナカマだろ!?なんで、そんなこと言うんだよ!」
「分かった。分かったって。いてっ。ちょ、やめろって」
暴れ猫のような子供を抱き上げ、カミルはいつかのように自分の肩に座らせる。
「俺が悪かったって。な?落ち着けよ」
トントンと子供の細い足を叩くと、漸く暴れるのを止めた。スンっと鼻を啜る音が耳の近くで聞こえる。カミルは子供を肩に乗せたまま、アルフリーダの側に歩み寄った。相変わらず人形のような感情のない顔。アルフリーダの手がスッと持ち上がったので、二人は思わず身構えた。
何のことはない。アルフリーダは水で濡らした布を取り、エリアスの汗を拭いただけだった。二日ばかり前からエリアスは熱を出していた。怪我をして熱が出るのはよくあることだが、昨夜のエリアスの様子はカミルの目から見ても、明らかに容態の悪化に思えた。
体は熾きのように熱く、そのくせ顔色は曇天のような色。オロオロするばかりのカミルをよそに、アルフリーダは、絶え間なく滲んでくる汗を拭き、乾いた唇に小さなスプーンで薬湯を少しづつ含ませ続けていた。おそらく一睡もしていないはずだ。カミルの口から、やり場のないため息が出た。
「ほら、アルフリーダ。食えってよ」
先ほど子供に差し出したパンをそのまま鼻先に突き出す。それでもアルフリーダの目には入らないのか、ピクリともしない。
「お姉ちゃん・・・」
子供が弱々しく、呼びかけるとも独り言ともつかない声で彼女を呼んだ。その声を聞いた瞬間、カミルの中で何かが弾けた。地団太を踏み、声を張り上げる。ずっと抱えきれなくて、それでも抱えなきゃいけなくて——でも既に両手もいっぱいな何か——
不安?恐怖?焦燥感?そんな生易しいもんじゃねえ。
カミルはその『恐れの塊』を全部投げ捨てるように怒鳴った。
「お前なあ!いい加減になんか食えよ!お前まで倒れられちゃ、こいつの目が覚めた時、俺が殺されんだよ!」
カミルはギリっと奥歯を噛みしめた。怒りが、不安が、痛みが。全部がない交ぜとなってカミルの口から飛び出した。肩の上の子供が、転げ落ちないように必死でカミルの頭にしがみ付いた。いつものアルフリーダなら「危ないですよ」と止めるところだ。それなのに、目の前のこいつは何も言わない。
一体何がこいつをこんな風に変えた?聖女だったんじゃねえのかよ。今じゃ、正気を疑われ、魔女と罵られて——
カミルの中で怒りの矛先が、人形のアルフリーダから浅い呼吸を繰り返すエリアスに向くのを止められなかった。
「お前もお前だぜ!ヴァルドの騎士だろうが!いつまで寝てんだよ!」
怒鳴り声の余韻が消えるよりも早く、グッとパンを持っていた手が引っ張られた。その動きがあまりにも突然で、そして予想外で、カミルは思わず目を見張った。




