【第二部】 第四十六話 『悪夢の始まり』
「チクショウ!」
カミルは、酒場の外壁を力任せに殴りつけた。拳に痛みが走るが、それすらも腹の奥で暴れ狂っている怒りと悔しさを紛らわせるにはまるで足りない。
この三日と言うもの、カミルは”世間”と言うやつを、嫌というほど思い知った。現実がいかに自分が知っているものとかけ離れ、いかに脆く、いかに簡単に崩れ去るものなのか。煮えくり返る腸を、吐き出すようにカミルは怒鳴った。
「どいつもこいつも・・・!勝手に決めつけやがって!」
殴った弾みで、せっかく手に入れたパンが籠から飛び出しそうになり、慌てて籠を抑え込む。籠の底に転がるたった3個の黒パン。これを手に入れるまでに、どれだけの店や家々を回った事か。万に一つでも、落として泥で汚すわけにはいかない。
「今日は店じまいでね」「悪いな。もうなくなっちまった」「パン?あいにく今日は焼いてないんだ」
どこの店でも家でも、返ってくる言葉は似たり寄ったりだ。——ったく!一体この町は、いつからこんなに早くパンがなくなるようになったってんだよ!
アルフリーダに食わせる物がいるんだよ。交換できるものならある。ウサギの皮だろうが鹿の角だろうが好きなだけくれてやる。でないとあいつまで、倒れちまう。
いくらそう怒鳴ったところで、誰もが首を振り彼を拒絶した。最後の頼みで酒場の扉を開けた瞬間、それまでざわついていた店内が一気に静まり返った。数人の男たちがわざとらしく顔を背けて、エールをあおる。
聞いていなくても分かる。どうせアルフリーダの事を噂していたんだろう。
——あの女は狂っている。自称騎士ももう終わりだな。お前見たか?あの女が、あの男の体をまるで繕い物でもするみてぇに縫い付けたところをよ?
あんな風に——壊れちまったんじゃな。
ギリッと奥歯を噛みしめる音に重たい咳払いの音が重なった。見るとカウンターの向こうからブラントがこちらを見ている。
ブラントは黙ってため息をつくと、顎を酒場の裏口の方に動かした。裏に回れ。と言う事か。
カミルは突き刺さる視線を背に受けながら酒場の外に出た。酒場の裏に回り込むと、見計らったように裏口のドアが開いて、女が一人出てきた。いつかの娼婦だ。娼婦の膨らんだ袖が、不自然にぼこぼことしている。その中に何かを隠していると言うのが一目で分かる。娼婦はにこりともせず、素早く視線を薄汚い路地へと動かす。誰もいないことを確認すると、黙ってカミルに歩み寄ると、空の籠の中に袖の中身をそっと空けた。丸いパンが二、三個転がり出る。焼きたてではない、硬くなった黒パンだ。それでもカビ一つついていなかった。
「お前・・・」
ああ、こいつは違うんだ。他の連中とは。そう言えば言ってたもんな。アルフリーダの事を聖女とかなんとか——
そう思いかけた時、娼婦が何も言わずに背を向けた。
「おい——」
待てよと呼びかけるその鼻先で、薄い扉がピシャっと閉まった。まるで「これをやるから、もう店に近づかないでおくれよ」と言われたような気がした。
一しきり、壁に向かって悪態をついた後で、カミルは籠を抱えなおすと、酷く重い足取りで歩き出した。
胸の奥では、怒りが嵐の後の海のように、まだ尖った波を立てている。その波の底に、別の物が静かに沈んでいた。それは、痛みと温度を同時に持った、ある種懐かしさを含んだ記憶だった。
冷たい土砂降りの雨と暮れていく空。自分の顔が濡れているのは雨によるものなのか、それとも涙なのかすら分からなかったあの夕暮れ。
あの時と——同じ気持ちだ。
カミルは顎を持ち上げて空を仰いだ。昼の陽光はこの季節にしては眩しいほどなのに、胸の中は湿気を含んだ風が吹き荒れている。
——三日前。
早朝に悲鳴が上がった。カミルはいつものように酒場の二階で高いびきをかいていた。まだ日が登ったばかりだと言うのに広場が騒然となる。その騒ぎが酒場の一階にまで浸食し、誰かが階下をバタバタと騒がしく走り回る。その足音が、カミルの眠りを妨げた。もう一度眠ろうとするも、ひっきりなしに聞こえてくる一階のドアの開閉音と床を踏み鳴らす音に、カミルはいよいよ観念して体を起こした。
なんだよ。盗人でも出たってか?
どんよりとした頭のまま、いつ洗ったのかすら覚えていないチュニックを着こむ。チクチクするウールの服に袖を通したとき、誰かが階段を踏み鳴らして登ってきた。その足音がドアの前で止まるや否や、蹴破らん勢いでドアが開け放たれる。
店主のブラントが肩で息をしながら仁王立ちでこっちを見ている。
あ?何だよ。ブラントの親父かよ。宿代の請求か?いや、結構前払いしといただろう?まだ足りねえってのか?
開け切らない目で、カミルがブラントを一瞥したとき、血の気が失せたブラントが、地鳴りのような声を上げた。
「エリアスが——エリアスが血まみれで・・・」
最後まで聞かないうちにカミルは駆け出していた。ドアを塞ぐブラントを押しのけて、安普請の階段を半ば踏み抜くようにして。
走っているうちに、町の奴らの声が途切れがちに耳に飛び込んでくる。
「自称騎士が怪我を・・・」「——すごい血だった」「気を失ってた」「鎧も何もなくなってたって」「顔色は死人みたいって——」その中でカミルを一際戦慄させたものが聞こえてきた。
——あの女、正気とは思えなかった——
カミルが駆け付けた時、エリアスの家の前には人だかりが出来ていた。彼を心配すると言うよりも、何か恐ろしいものを目の当たりにして恐れ慄いているような空気が支配している。
「どけよ!どいてくれ!」
野次馬を押しのけ、見慣れた家の中に足を踏み入れた瞬間。カミルの足は、まるで邪悪な魔法の一撃を喰らったかのように止まった。
暖炉に寄せられたテーブル。その上にエリアスが寝かされている。テーブルでは長さが足りず、エリアスの膝から下がはみ出して頼りなく揺れている。誰が熾したのか。暖炉がたった今燃えだしたばかりの炎を上げていた。その炎の前。一筋の赤黒い糸のようなものが筋を引いて落ち、ゆっくりと床にどろりとした血だまりを作り始めていた。
子供の頃、エリアスと二人で火に向かって座り、温かいミルクを飲んだ炉端。時には並んで立たされ、爺さんに叱られたこの場所。幼い日の思い出が、エリアスの血で塗りつぶされていく。
背後で女の息を飲む声が上がり、カミルは反射的にそちらに向いた。
そこにアルフリーダがいた。美しい姿は見る影もなく、ザンバラの髪には半分乾いた血がこびりつき、服もなにもかも血と泥まみれだ。外で手だけは洗ってきたのか、袖をまくり上げた腕の白さだけが、異様なほど際立って見える。
アルフリーダは空の手桶を作業台の上に置き、食糧庫へ姿を消す。ざわざわと周囲から疑問の声が上がる。
「何をする気だ?」「エリアスに何か食べさせる気か?」「まさか——気を失っているんだよ」無責任な雑音がカミルの精神を逆なでした。
やがて食糧庫から姿を現したアルフリーダの手にはワインの甕があった。
ワインで何をしようってんだよ。やけ酒か?
周囲の喧騒などアルフリーダには全く目に入っていない。淡々と手桶にワインを入れ、そこにポーチから出したハサミを放り込む。続いて糸巻も。ざわめきが大きくなる。何をやっている。脳裏にさっき道で聞こえてきた言葉が蘇る。
——あの女、正気じゃなかった——
「見ちゃダメ」
小さくも鋭い声が上がる。見ると、母親らしき女が小さな子供の顔を抱え込むように抱きかかえて、背を向けるところだった。子供が何事かを言っているが母親に口まで塞がれたのか、くぐもった声にしか聞こえない。他にも気の弱そうな若い男が、顔色を失いながらその親子に続く。カミルは耐え切れず、アルフリーダに駆け寄った。
「おい、アル——」言いかけて声が詰まった。
まだエリアスの腰からぶら下がっていた剣帯から剣を外し、アルフリーダはそのまま革の剣帯を肋骨の下あたりにまでずり上げた。
おいおい、何をする気だよ。カミルの言葉が声になるより先に、アルフリーダがそのまま剣帯で、エリアスの腹を締めあげた。
「ぐ・・・っ、は・・・!」
エリアスが喉の奥で潰れたような呻き声を上げ、体がビクンと跳ね上がる。野次馬の何人かがその場でたたらを踏む音が背後から聞こえる。
「見てられねえ・・・」と言う声が、自分が発したものなのか、それとも野次馬の声だったのか。その境目すら曖昧にまるほど、カミルは混乱していた。ただ、エリアスの苦し気な息遣いと、アルフリーダの冷徹なまでに淀みない動きだけが、やけに鮮明だった。
ワイン桶から引き揚げたハサミ。まだワインが滴っている状態のまま、アルフリーダはエリアスが寝かされているテーブルの前に立ち、傷口を巻いている包帯にハサミを入れた。ジャキ、ジャキッと包帯が断ち切られ、ムワッと血の匂いが立ち込める。何人かが怯んだように後ずさった。耐え切れずにドアの外に逃げ出る者もいる。
エリアスの脇腹は無残にも横に一閃した傷が出来ていて、そこから真っ赤な血肉が見えていた。その傷を目の当たりにした瞬間、カミルに現実が一気に戻ってきた。この傷はただの怪我じゃない。剣で斬りつけられた傷だ。
「おい!一体何があったってんだよ!?」
恐怖が足元から這い上って来て、カミルの声を大きくした。あのエリアスを剣で傷つけられる者がどこに——まさか・・・
カミルはアルフリーダに詰め寄った。細い肩を掴んで揺さぶる。手荒なことをしていると言う自覚を持てるほどの余裕は、今のカミルにはなかった。
「何とか言えよ!こいつは誰にやられたんだよ!」
アルフリーダがゆっくりと顔を上げてカミルを見上げた。乱れた髪が目にかかる。その瞳は絶望に暮れていると言うよりも、もっと得体のしれない何かを映していた。
光がない。例えるなら、底の知れない真っ暗な穴。ただの紫色の空洞だ。
カミルが揺さぶるたびに彼女の顎がガクン、ガクンと、おもちゃのように揺れる。
「アルフリーダ・・・」
カミルの背筋がそわりと冷えた。ここにいるのはアルフリーダじゃない。空っぽのガワだけだ。中身のない人形だ。
その瞳の暗さは、人間の感情と言う形をとっくに失っていた。




