【第一部 完結】 第四十五話『夜明け』
アルフリーダはエクリア=ノクスをゆっくりと水平に構えて見せた。
「ええ、その通りです」
柄を握る手が僅かに震える。
ずっと怯えていた。ずっと孤独だった。でも誰かに助けてもらおうなどとは、考えたことはなかった。
考えても無駄な事だと切り捨てて、諦めて——。
封印が解かれ、時間が動き出したとき。瞬きが出来ることに気が付き、恐る恐るドアを開けた時、目の前に彼がいた。みすぼらしい装備を身に着け、それでも近衛騎士に負けないほどの威厳と誠実さを纏って、跪いたエリアスが。
「彼は言って下さった。『私があなたをお守りします』と。あの瞬間、私は迷わず彼に縋った。それの何が間違いだったと言うのですか?」
「いいや。間違いだとは言ってはおらぬ。どのみちお前は、アレの中に価値を見出した。”こいつは使える”とな。更に言い添えるなら、アレの目の前でアレを”選んだふり”をした。そして——時間をかけてゆっくりと飼いならした」
「飼い・・・ならした・・・?」
喉の奥が狭まり、呼吸の度にひゅうひゅうと風のような音を立てる。そんなつもりはなかった。その否定の一言がどうしても出てこない。
彼の為に食事を作り、家事をこなし、笑顔を作り・・・。飼いならすつもりはなかった。ただ、姫として、一人の人間として、自分の良心の限り彼に尽くしたいと思った。それが、ただ飼いならすための餌だったと——?
リアムの声が、揺れるアルフリーダの想いを容赦なく踏みつぶしていく。
「ああ。自分の孤独を埋めるため、自分の弱さを隠すため、空っぽな自分でも”誇りがある”と思い込むために——お前は都合よくアレを利用した。見事な手管だ」
リアムの言葉は、最も認めたくない、本当の自分の姿を正確に言い当てていた。
唐突に収穫祭の事が頭をよぎる。エリアスに安易に「お優しいのですね」と言ってしまった時。あなたの本質を分かっている。などと賢しらに口走ったあの時。エリアスは、自分の何が分かると返した。
胸の奥がヒヤリとした。もしかしたら、彼は気が付いていたのではないだろうか。浅ましい女め。本質を分かっているだと?こちらこそお前の本質など、とっくに気が付いているぞ。と。
そうかもしれない。でも——
「言いたいことは・・・それだけですね」
アルフリーダはゆっくりとエクリア=ノクスをリアムに差し向けた。カアッと目の奥が熱くなる。紫焔が燃えているのが分かる。今までの人生で、これほどまでに激しく紫焔を燃やしたことなどなかった。最後に自分の紫焔で焼かれて終わるのも悪くないのかもしれない。
左手で柄を握り直し、ゆっくりと抜いていく。刀身から漏れ出した紫色の光と、繭の光とが融合して、辺りを不気味にそして、この世のものとは思えぬほどの神々しい色で包み込んだ。
眩しい。真っ白だ。その白い世界を凝視していると、ポツンと丸く赤いものが見える気がした。リンゴだ。無骨な手がそっとこちらにリンゴを差し出している。
『どこまでも、あなたをお守りいたします』エリアスの声が脳内に響く。アルフリーダの瞳から涙が零れ落ちた。
ああ——あなたは私にリンゴを下さった。だから私は、あなたのリンゴに報いなければ。
「その剣の力を知らぬわけではあるまい?いくら王族とは言え、抜き放てばお前とて無事では済まぬぞ」
爪一枚分。そして、赤子の拳一つ分。刀身が露になっていくたびに、繭の表面が焼け爛れ、パキパキと亀裂が走る。
ヴェル=アリムが苦しんでいる。リアムが苦痛に身を捩っている。その手応えに、アルフリーダは自分でも知らぬうちに笑みを浮かべていた。
これは復讐だ。冷たい城に閉じ込め、孤独に沈め、誇りを踏みにじり、国を滅ぼした男への——正当なる報い。
アルフリーダは全身を駆け抜けていく復讐の愉悦に身を震わせた。目からは涙を流し、唇は笑みで歪んでいる。繭の中で、影がめちゃくちゃに暴れ狂っている。人の姿を取ったかと思うと、指を広げた巨大な手になり、竜の翼に、祈る乙女の姿に。像が千々に乱れて、不格好な影絵を幾つもアルフリーダの目に晒していく。入った亀裂から、溢れ出ているのはなんだろう?魔力の雫が黒く細い糸を引いて枯れた雑草の上にボタボタと滴っていく。もしそれが血だとするのなら、これほど愉快なことはない。
「怖くはありませんよ」
アルフリーダは甘い声で語り掛けながら、刀身を更にスプーン一つ分、鞘から引き抜いた。
「愛する女と共に逝けるのですから——」あなたも本望でしょう?
刀身を更に引き抜く。紫焔が繭を焼くのと同時に、アルフリーダの全身も炎で炙られるような、痛みを伴う熱に包まれていく。
とうとう中身の影だけでなく繭の形そのものがぐにゃりと、身悶えするように変形する。
もっとだ。もっと苦しめ。
あなたが奪った分だけ。あなたが壊した分だけ。あなたが私を苦しめた分だけの——報いを——
今、受けよ!
アルフリーダは、完全にエクリア=ノクスの鞘を払った。その瞬間——両腕の自由がなくなった。
何も知らぬ赤子のように、アルフリーダはただ無垢な瞳で茫然と動かない自分の腕を見下ろした。
私は、押さえつけられているの?一体誰に?
強い力で両の手を腕ごと絡めとられ、真っ白に焼かれる視界の中で、閃いたクロスガードにこびり付いた血の色がやけに鮮明に見える。
リアム?いや、リアムは繭の中だ。しかもエクリア=ノクスに焼かれて虫の息のはず。だったら、これは何?今私の腕を抱え込んでいるのは——誰?
グンッ!
エクリア=ノクスの柄がこちらの意志を無視して、手から飛び出そうと回転する。止められない。
驚いて見開いた視界いっぱいに、アイスブルーの耀きが閃いた。血で汚れたクロスガードがエクリア=ノクスのクロスガードに絡み——
カチン!
あっけないほど軽い音。手に痺れを残し、焔裂の剣がガタガタの石組みの上に落ちた、二度、三度、跳ね返るたびに、嘘のように光が収束していく。必殺の剣が。リアムを倒せる唯一の武器が。エリアスを騙してまで手に入れたエクリア=ノクスが——自分の手を離れていく。
「い——いやぁぁぁ!!」
必死で手を伸ばすが、身動きするだけで精いっぱいだ。両腕の付け根から何者かの脇に抑え込まれている。アルフリーダは、泣きわめきながら、自分を止める邪魔な男——エリアスから逃れようと滅茶苦茶に身を捩った。
離せ!邪魔をするな!私に——私に——
「あれを、討たせて——っ!!」
濁りきった泥水のように割れた声が、痛みと共に喉の奥から迸る。その声は、おおよそ自分の声とは程遠く、まるで傷つき恐怖と孤独で我を失った獣の咆哮のように聞こえた。
何故止める?何故私の邪魔をする?何故、私に復讐を遂げさせてくれない?
自分の中の獣が、エリアスに対しても黒い殺意を向ける。
「離せ——!離してぇぇぇっ!」
また目の奥が熱くなる。紫焔が燃えている。邪魔をされた怒りと、獲物に逃げられる焦燥感。それが本能的に紫焔を燃やしていた。
焦るアルフリーダを嘲笑うように、繭が——ヴェル=アリムの繭が微かに脈動した。血のような魔力の雫が止まり、焼かれて亀裂が入ったところが淡い光に包まれながら緩やかに再生していく。命を捧げて刻み付けた傷が、見る見るうちに元通りに待って行く。
「そんな・・・っ!」
エリアスに阻まれ、動けないアルフリーダの目の前で、リアムの影が皮膜の内側でゆっくりと形を取る。根を下ろすように伸びていた光の触手が、するりと解けて繭の中に取り込まれていく。それがどんな意図を孕んでいるのか、教えられずともアルフリーダには分かった。
逃げる気だ。
リアムが笑う。さざ波のような音を立てて、複数の声を入り混じらせながら、嘲笑っている。
「エリアス=ヴァルド」
唐突に、リアムがエリアスの名を呼んだ。腐った果物のように甘く、毒入りの酒のような舌にねばつく声で。
「その忠勤、まことにもって見事であった」
何を——何を言っているの?アルフリーダはリアムの影を凝視した。繭が放つ妖しい虹色の光を纏い、リアムの影が王の形を成す。尖った王冠を揺すりながら、その影がゆっくりと、こちらに向かって手を差し伸べてくる。
「今、この時をもって——お前を我が直属の騎士に任命する」
これは、アコレード。
アルフリーダの呼吸が止まった。
リアムは、叙任式の再現をしようとしているのだ。エリアスが最も欲し、最も強く願っているもの。主君から与えられる騎士の称号を、こんな残酷な形でリアムは与えようとしている。それこそ、彼を手なずけるための餌として。
アルフリーダの中で、怒りが血に混ざりこみ、逆流し煮えたぎり、脳を侵していく。
「よくぞ姫を押さえ、我を守ってくれた」
リアムの声は明るく、そして堂々としていた。晴れがましい式典に相応しい声。その声が耳に入り込むだけでアルフリーダは吐き気を催した。リアムはエリアスの栄誉を称えているのではない。侮蔑だ。嘲りだ。そして、ただの利用価値の再確認だ。「こいつは使える」と。
「誇るが良いぞ、ヴァルド卿。お前は選ばれたのだ」
全身から力が抜け落ちた。
ああ——
私の騎士。私の誇り。私の——たった一人の守護者が。リアムに奪われてしまった。紫焔が急激に熱を失い、凍てつくような絶望感で全身が満たされていく。
繭がふわりと地面から浮き上がった。
「アルフリーダ」
先ほどまでの嘲るような響きではない。無邪気なまでに朗々とした声で名を呼ばれて、アルフリーダはぼんやりと顔を上げた。繭の中でリアムの顔が大きく浮かび上がる。頼りない影ではなく、はっきりとした色を伴ってくっきりと。
その顔は、最後に見た王としての顔ではなく、ひどく若い——
そう。子供の頃修道院の薬草園で共に遊んだ、王子だった頃の顔。「お兄様」と慕い、月に一度の訪問をアルフリーダが待ちわびていた、あの頃の顔。
「また会おう、アルフリーダ。その日まで——いい子で待っていなさい」
この声。この顔。——訪問を終えて、王城に戻るときに幼いアルフリーダに向けられた言葉。
王子だったリアムの顔を滲ませて光の繭が闇に消えていく。囁き声が闇の一滴のようにポタリと落ちた。
——愛しているよ。アルフリーダ——
その言葉を最後に、自分を包んでいた世界がふっと、蝋燭を吹き消すようにして途切れた。
繭がどのようにして消え、どのようにして夜が戻り、どのようにして主塔の屋上に静寂が降りたのか、アルフリーダには分からなかった。
気がついたら、自分は枯れた雑草とひび割れだらけの石床にへたり込み、茫然と闇を見つめていた。いや、闇ではない。目の前には彼がいた。いつものように片膝をつき、アルフリーダに忠誠を誓うように向かい合っている。その手にはしっかりとエクリア=ノクスが握られていた。きちんと鞘に収められて——
誰が鞘に戻したのか?そんな分かり切った答えが出てくるまで、やけに時間がかかった。エリアスしかありえない。触れるだけで命を削り取る剣を、彼は拾い上げて鞘に戻したと言うのか。
「う・・・」
嗚咽が漏れだし、アルフリーダは堰を切ったように泣き叫んだ。叫んで、叫んで、叫んで——。自分でも何を叫んでいるのか分からないくらい叫んだ。ただ、叫んで、そしてエリアスに掴みかかった。
「どうして、止めたの!?どうして、アレを討たせてくれなかったの!?」
どうして邪魔をしたの!?どうして、どうして、どうして——!
彼の胸を叩き、月光を溶かしたような髪を力任せに引き掴み、幹のような首筋に爪を立てる。指に彼の髪の毛が絡まり、爪の中に彼の血肉が入り込んでもアルフリーダは止めなかった。止められなかった。アルフリーダは狂ったように泣き叫び、執拗なまでにエリアスを責め続けた。それをエリアスはただ、黙って受け止めている。防ぐでもなく、痛みに眉を動かすでもなく。降りかかるみぞれ交じりの雨に耐える殉教者のように。
やがて拳に力が入らなくなり、声も出せなくったアルフリーダは、だらりと腕を落とした。口だけがまだ、苦し紛れのように小刻みに動いている。「何で、なんで、なんで・・・」
その時だった。
ふ、と。闇が僅かに解けた。ぼんやりと見えていた手の輪郭がくっきりと見え始める。朝日にはまだ早い。夜はまだそこにいる。
それでも——夜の底から、ぼんやりとした頼りない光が闇をほんの少しだけ押し出した。
そんな仄明るい世界に、そっと傷だらけの手が差し出された。ゴツゴツと岩のような手が。あちこち泥と血で汚れ、皮膚にはアルフリーダの爪が付けた痕が生々しく残っている。その手が、震えもせず、躊躇うことも知らず、ただ愚直なまでにアルフリーダに向けて差し伸べられる。
「町に——戻ろう」
アルフリーダはコクリと頷いた。そして汚れたエリアスの手に自分の手を重ねる。温かい。彼の手は確かに暖かかった。力強くアルフリーダの手を取り、エリアスは自身も立ち上がりながら、ゆっくりとアルフリーダを支えてくれた。
立ち上がると、ようやく息が吸えた。冷たい冬の空気が胸の奥に滑り込んでいく。
東の方角に、曙光と呼ぶには早すぎる光に照らされた森と、その先に連なる山々が見える。
朝の兆しの光が、エルノヴァを照らしている。その光にアルフリーダの目から、涸れたはずの涙がまた溢れた。
エリアスが優しい手つきでアルフリーダの手を引く。初めて出会った、あの時のように。
復讐は果たされなかった。民を救えなかった。私はまた——勝てなかった。それでも——
エリアスの手が少し強めにアルフリーダの手を握りしめた。段差がある。それだけの理由だ。それだけのはずだが、アルフリーダには気づいたことがある。
その沈黙が、さりげない所作の一つ一つこそが、彼の忠誠なのだと。
黎明の光が、城の崩れかけた狭間から差し込み、二人の足元を小さく照らした。夜が——明けたのだ。
第一部 ——完——
第一部、完結いたしました。ここまでお付き合いいただき、本当にありがとうございます。
次回より、第二部をお送り致します。引き続きお楽しみいただければ幸いです。
ラーナ




