第四十四話 『兄と妹』
螺旋階段を一段ずつ上がる。その一段ごとに、手の中のエクリア=ノクスが重さを増していく。
アルフリーダを息が乱れるのも構わずに、崩れて見る影もなくなった主塔を登り続けた。リアムがどこにいるのか。アルフリーダには、とっくに検討が付いていた。主塔だ。王のいる場所はそれしかありえない。そして、王とは高みから見下すものだ。つまりリアムは——主塔の屋上にいる。
着慣れない豪奢なドレスを身に付けさせられ、重いほどの宝石で飾り立てられているのに、まるで捕虜のようにリアムの前に引き出された日。階段を踏みしめる己の足でさえ、その時の恐怖を昨日のことのように覚えている。
膝を折るアルフリーダを、玉座から満足そうに見下ろしていたリアム。安らぎを与えてくれた修道院から追放されるように王城へと連れて来られ、さあ、これからは王のためだけに生きろと言われたあの日。
部屋から自由に出ることも禁じられ、騎士はおろか、侍女たちにさえ、親しく言葉を交わそうものなら、次の日には城から彼らの姿が消えている。他の者に尋ねても「存じません」と短く答えるだけ。誰もがアルフリーダに目を合わせることはなく、逃げ場のない孤独へと追いやって行く。そして、その孤独にリアムは巧みに入り込んで来ようとした。
「私が守ってやろう」「お前を分かっているのは私だけ」「お前の家族は私だけだ」
リアムの魔手がアルフリーダの居室のドアに触れようと伸びるのを、誰もが止められなかった。
階段が終わり、屋上への入り口がぽっかりとアーチの形を描いてアルフリーダを誘っている。外はすっかり闇が降りている。初冬の日没は早い。それなのに何だろう?この光は。太陽の残光には暗く、北の大地に揺らめくオーロラには明るすぎる。そんな形容しがたい光が、アーチと主塔の内部とをクッキリと色分けしている。
まるで大きく開いた化け物の口のような、苔むした石作のアーチをくぐりぬけ、アルフリーダは屋上へと踏み出した。横ざまの冷たい風がアルフリーダの足元をすくおうと吹き付けてくる。髪飾りを失くしたせいで、髪が逆巻き、視界をチラリ、チラリと見せては覆い隠す。なに?あれは。あの巨大な——
アルフリーダは驚愕した。目の前に広がる信じられないものを確かめたいのに、髪が邪魔をしてよく見えない。それでも、光だけは乱れた髪を通してもハッキリと分かる。
見たことがないほどの禍々しい光。様々な色が入り乱れ、淡くも怪しく蠢いている。アルフリーダはエクリア=ノクスを片手で抱え、邪魔な髪をかき上げた。その瞬間、眼に入ってきたもの。それをなんと言い表せば良いだろう?
広い円形の屋上。その中央で、巨大な何かが根を下ろしている。それは土中で冬を越す球根のようでもあり、今まさに命が育っている何かの繭のようでもあった。——空を突くほどの巨大な歪んだ球体。
赤子を包む薄い膜のような繭の中が、淡く発光している。この世の全ての色を集めて煮溶かして、対流しているような光。虹色。と言うのが一番近いかもしれないが、どの色とも似ても似つかない色だ。
「ヴェル=ノクス・・・」
カラカラに渇いたアルフリーダの喉から、喘ぐような声が漏れた。
「兄、とは呼んではくれぬのか?」
繭がはっきりと声を発した。この世の全ての生き物の声を集めて、同時に喋らせたような声。しかし、その表面に現れている声は、間違いなくリアムのものだ。懐かしい——。一瞬でもそう思った自分にアルフリーダは、ゾッとした。嫌悪しながらもどこかでやはり兄を慕っている。終らせる気でここにいても、どこか信じたい心の欠片がまだ自分にあることが、アルフリーダを凍らせた。
「お兄様」
以前、同じことを言われたときは、礼拝堂だった。あの時は最後までリアムを「兄」とは呼ばなかった。けれど、今だけは呼んであげましょう。これが最後なのだから。
アルフリーダは見るも悍ましい繭に向かって歩を進めた。どう言うわけか、巨大な光の繭を認めた時から、風は身を潜めるように止んでいる。これもヴェル=アリムの魔法の力なのだろうか。
「あの下民はどうした?」
嘲笑が頭上から降ってくる。それでもアルフリーダは歩みを止めなかった。まだ遠い。せめて命と引き換えるのなら敵の姿をはっきりと見てやる。そんなつもりだった。
「もう使えなくなったのか?お前がアレを拾った時は、私にも多少の興味を覚えたが」存外にあっけないものだな。
薄い皮膜の中で、影がいたずらに人の形に凝り始める。それが一瞬エリアスの形を取ったように見えて、アルフリーダは目を背けた。
「ヴァルドの血を引いているとは言え、やはり器が違ったか。お前も見たのだろう?ハッ!私の騎士を相手にアレは疲れ果てた。剣筋は乱れ、防御は甘くなり、最後にはただのゴミと化した」
「彼は——」
アルフリーダは声を必死で絞り出した。
「彼は誇り高いエルノヴァの騎士です。そして・・・私の婚約者ですわ。それを”使えなくなった”などと。お兄様は、人であることと引き換えに、王族としての誇りまで捨ててしまったのですか?」
繭、それ自体がぶるりと揺れ動いた。笑っていると言うことがアルフリーダには分かった。竜に身を明け渡したリアムが、竜と共に身を捩らせて笑っている。
「誇りとは、支配する力から生まれ出でる。民を従わせ国を動かす。それが王族の誇りだ。そう言うお前こそどうなのだ?お前は私ではなく、あの下民を選んだ。王家の血を捨てて、代わりに泥を掴むとはな。それがお前の誇りだと言うつもりか?」
繭は愉快そうな笑い声を立てた。笑っているのは一人であるはずなのに、幾重にも声が重なっているせいで、まるで舞踏会か何かの会場で大勢から嘲笑を浴びせられているようだ。
エクリア=ノクスが手の中で滑った。動揺してはいけない。あの声を相手にしては。エクリア=ノクスを使う前に一つだけ尋ねたいことがあるのだから。
「まあ良い。誰にでも過ちはある。あの”騎士崩れ”と閨を共にしたことも許してやろう」
閨——。ヴァルド家に初めて迎え入れられた日、エリアスは頑なに寝室を共にすることを拒んだ。騎士としての不器用な誇り。それをアルフリーダは正論で突っぱねた。婚約をしたのだからと言う意地もあったのかもしれない。けれど一番の理由は——
——途切れては聞こえるリアムの”声”に見せつけるためだった。
「あの”野良犬”の腕に抱かれて、自由を得たつもりだったか?」
体の芯から震えが這い上ってくる。長い間飲まされていた支配と言う毒が、まだ抜けきってはいないのだと。アルフリーダは心底思い知らされた。それでも——私は言う。言わなければ——何のために今まで生き恥を晒してきたのか分からない。
アルフリーダはしっかりと顔を上げて、嘲笑を全身で受け止めた。
「私はもうあなたのアルフリーダではありません。ヴァルド家のアルフリーダです」
ピタリと笑い声が止まった。耳が痛くなるほどの静寂。
その暴力的なまでの静けさのもと、繭の中で光と影が大きく歪んで何か巨大な形を取った。その巨大な何かが、ぐわんと広がり、アルフリーダに覆いかぶさるように広がる。人であるならば、覗き込むように身をかがめるような動作だろうか。
「お前は逃げられぬ。それが世の理だ。その証拠にお前は戻ってきた。アレを捨てて私の元へ。それが事実だ。そうだな。お前に王として命じる。今この場で宣言しろ。『私は、あの男を捨てて参りました。王であるあなたの元へ戻りました』とな」
空気か瘴気か。ねばつくものがアルフリーダの足首に絡みついてくる。アルフリーダは歩みを止めると、巨大な光の繭と対峙した。浅く息を吐きだすたびに、呼気が白くなる。それでも体は熱く、全身汗まみれだ。アルフリーダはゆっくりと唇を開いた。
「ええ。私は戻って参りました。あなたの元へ」かつて嫌と言うほど教え込まれた作法通りに、膝を折りアルフリーダはスカートの裾を持ち上げた。
「でもそれは、百年前にやり遂げられなかった事を、成すためです」
繭に向かって言い放ち、アルフリーダはエクリア=ノクスを掲げて見せた。するりと剣を覆っていた布が解けて、優雅な動きで足元へと落ちる。ヴェル=ノクスの住人であるならば、これで怯むはず。けれど返って来たのは侮蔑の一言だった。
「ふん。焔裂の剣、エクリア=ノクスか」
アルフリーダは左手で異界の力を戒める封印の鞘を掴んだ。
「これを抜く前に、あなたに一つだけお聞きしたいことがあります」
この問いの答えを聞くためにここまで来た。封印を解かれた瞬間から、ずっと胸にわだかまっていた疑問の答えを。
「お兄様は——なんの為に異界の竜と取引をしたのですか?」
「国のためですか?それとも民のため?それとも——」
「国のためだと?」
リアムの声がアルフリーダの声を遮った。
「目的は常にお前だ。アルフリーダ」
その言葉が、アルフリーダを打ちのめした。足の付け根が冷たく凍り付き、膝から力が抜けそうになる。
「お前を私だけのものにするため。それが答えだ」
百年前のエルノヴァの民、次いでエリアス、ミレイユ、孤児たちの姿が脳裏を掠めていく。
彷徨う亡者、ノクスベインと化したザイレムとアヴァリーの民。
そんな理由で——そんな身勝手な理由で、彼らは国を失ってしまったなんて——!
「お前が”正しさ”を選び取る限り、王であっても私はお前の隣には立てない。だから私は”正しさ”を捨てた。国を捨て、民を捨て、人であることを捨て、敵国を亡ぼした。それでもお前は私を拒むのか?お前はヴァルドと言う盾と、焔裂の剣を手に入れたつもりかもしれぬが、盾は砕け地に伏した。そしてお前にはその剣を抜くだけの胆力がない」
影の先端がすうっと細くなり、まるでエクリア=ノクスを指し示すようにこちらに向かって伸びる。
「お前の目の前にいるのは、お前の為に全てを捨てた男だ。お前はもう私しか選べない。それこそがお前の誇りだ」
まるで憐れむように。言っても聞けぬ、頑是ない子供を諭すような甘い声に、アルフリーダは心底吐き気を催した。
こんな歪んだ愛の為に、エルノヴァの人々は未来を失ってしまったなんて・・・。
繭の中にいるリアムが、こちらに向かって指を突き付けた。影が、皮膜の向こうでぼんやりと影絵のように浮かび上がる。
「私のため・・・?」
目の奥が熱くなる。紫焔が燃えているのが分かる。怒りとも悲しみとも絶望でもない、何か自分でも抑えきれない感情がアルフリーダの目の奥で静かに燃えているのが分かった。手の中のエクリア=ノクスが紫焔に反応して、鞘の中で小さく振動する。それこそが自分の、持て余すほどの感情であるかのように。
「全部、ご自分の為ではないですか!」
血を吐くように、喉の奥を引き裂きながら、アルフリーダは叫ぶ声を繭に向かって叩きつけた。
「ほう。お前にそれを責められるのか?お前が”野良犬”の手に自らの手を重ねたのも、『自分の為』なのではないのか?」
「え・・・?」
心臓を抉り出されるような衝撃にアルフリーダは思わず一歩足を引いた。
「誰かに守られたかった。誰かに肯定してもらいたかった。誰かに——王族でない自分を見てほしかった。そこに都合よく現れたのが、あの騎士崩れだった」違うか?
リアムの声の一つ一つがアルフリーダの体を裂いて、家畜の解体さながらに中身を暴いていく。
矮小な自分。打算的な自分。臆病な自分。偽物の自分。そして、愛を乞う自分。
「それが——お前の正体だろう?」




