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封印の姫と最後の騎士 【第一部完結】  作者: ラーナ


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第四十三話 『最後の口づけ』

 ”アルフリーダ様。あなたが触れているのは、ただのシーツです。布地です”


 生々しい肉と、むせかえる血の匂いの中で、アルフリーダは懸命に針を動かしていた。修道女の懐かしい声が記憶の縁で、春風が運んでくる花の香りのようにアルフリーダに呼びかける。ただの布だと思ってお縫いなさい。


 その教えが、震えそうになる指先を辛うじて先へと促した。涙で曇りそうになる視界が、鮮明さを取り戻させてくれる。


 かつて自分が使っていたベッドに横たわるエリアス。我が身を呪い、幾度となく涙を流し、途方に暮れながらも戦争を避けるための道を模索し続けていた自分を、静かに受け止めてくれたベッド。


 結局、エルノヴァを守ることは出来なかったけど——


 エリアスの胸が忙しなく上下している。その動きが、彼の肌を刺し貫く感覚の一つ一つが、アルフリーダを内側から、少しずつ切り裂いていく。彼を巻き込むまいと心に決めて家を出たと言うのに、彼を守れなかった。自分で刻んだ誓いが、見えない傷口となり、透明な血がしたたり落ちていく。


『何をしている?』


 その瞬間。声がした。アルフリーダが流した透明な血を、滴る側から舐めとられていくような感覚。


 地の底の底。この世界の一番暗い場所から話しかけてくるような声音が。蔑むようでもあり、どこか愉し気でもある声。


 ——リアムの声!


 その声が今ハッキリとアルフリーダを嘲笑った。


『見てみるが良い』リアムの声が形を持ってアルフリーダの手に添えられているような嫌悪感に襲われ、アルフリーダは思わず身震いした。リアムとの物理的な距離が近いのだろう。肌を這い上り、絡みつき、締め付けるようにはっきりと感じられる。——町にいた時はそれほどではなかったのに、今は隣にいるようだ。


『泥が血を流しているところを、な。・・・お前が掴んだ泥が』


 針を持つ手が震える。動揺してはいけない。動揺はエリアスに痛みを与えるだけだから。リアムがクックっと喉を鳴らすような、くぐもった笑い声をあげた。


『思いだせ、アルフリーダ。お前は誰のものだ?』


「お願いします・・・」


 震える声が怯えきったような音色を奏でる。ああ、変わらない。この城で暮らしたあの頃と。何も変わらない。ディランにはやめろと言えた。ロイクには真っ向から立ち向かえた。でも——


「妹である前に、一人の人間なの!」ミレイユの声が脳裏に響き渡る。あの時——戦乙女のように、波打つ栗色の髪をなびかせて、収穫祭でディランに言い放った、あの力強い言葉。私のこの忌々しい口は、そんな言葉を言えたためしがない。


——彼女は一人の人間です。妹である前に一人の女性。女性である前に、一つの意思を持った存在なのです——


 ミレイユの前に立ちはだかり、ディランに向かって唾を飛ばして叫んだ、あの時の私。言いたいことを言えた。そう思っていた。


 そんなものは単なる借りものだ。エリアスがいたから。彼の強さと勇気を借りて、ミレイユの騎士を演じた浅ましい言葉。形ばかりで中身なんてなかった。その証拠に今、肝心の兄の前では縮み上がっているではないか。言葉と言う剣を構えるどころか、ガタガタとみっともなく震えている。


「お願いします・・・」今だけ——せめて縫合を終えるまでの間だけでいい。黙っていて。


 鍛え抜かれた肉体。エリアスの脇腹には、斜めに一筋。深く裂けた傷が走っていた。出血は幸い止まっている。だが、アルフリーダが針を刺すたびに、びしょ濡れの布切れに指を押し付けたように、新たな血が滲んでくる。アルフリーダは、その血を丁寧に拭きとりながら、開いた傷口を一針ずつ縫い合わせていく。


『いつまで泥を縫っている?そんな薄汚いものなど、さっさと捨ててしまえ』


「お願いします・・・」


 アルフリーダはうわ言のように何度も繰り返していた。祈りなのか、懇願なのか。もはや自分が何を口走っているのか、誰に向けての願いなのかすら分からない。


リアムか。エリアスか。神か。それとも、脆弱な自分自身に対してなのか。


 とにかく何かを口ずさんでいなければ、とても正気を保っていられない。


 神様。聖女アマリア様。如何なる責め苦でも甘んじて受けます。この地と異世界の狭間で、久遠の苦痛を味わうことになっても構いません。


 どうか——


 振るえる指先が急に何かに捕まえられるように包まれた。


「・・・アルフリーダ」


 突然降りかかった声に、アルフリーダはハッとして手を止めた。反射的に上げた目線。そこに真冬の氷に覆われた湖面を思わせる氷青色の瞳があった。血に塗れた手が、微かに震えながらもしっかりとアルフリーダの手を握っている。


「もう・・・いい」


 心臓に、刺し貫かれたような痛みが走り抜けた。もう、いい。つまりそれは、これ以上お前の医術に身を委ねていたくはない。そういう事なのだろうか。熱くなった心臓が、今度は水底にでも突き落とされたように冷たくなる。お願い、最後まで縫わせて。


「お願いしま——」


「違う」縋るように言い募るアルフリーダに、エリアスは首を横に振った。


「あなたが・・・そんな風に泣いているのを、見ていられない」


 泣いて?エリアスに言われて、初めてアルフリーダは自分が涙を流していることに気が付いた。確かに涙で視界が潤みそうにはなっていた。けれど、泣くつもりはなかった。泣く資格も。


「先ほどは・・・無礼なことを言いました・・・」


 エリアスが恥じ入るように視線を一瞬だけ逸らす。相変わらず浅い呼吸。それでも、エリアスの声には張りがあった。


「あなたは、私を助けて下さった。それなのに、私は・・・つまらない意地で、あなたの言葉を跳ねつけた」


 祈りが——懇願が——聖女に届いたような錯覚が胸を打つ。低く落ち着いた、いつものエリアスの声が、アルフリーダを照らす光となって差し込んでくる感覚。


 エリアスの唇が先を続けようとして、躊躇うように閉じられる。ほんの一瞬言葉を飲み込んだ。その沈黙がアルフリーダには、彼の中の”騎士としての意地”が最後に抵抗をしているように見えた。


「こちらこそ、お願いいたします。あなたを——信じます」


 奇跡でもなく、神の御業でもない。ただ、エリアスが自分の声に応えてくれた。騎士の葛藤を、エリアスがそっと手放した瞬間だった。


 じわっと視界が歪み、アルフリーダは慌てて袖口で涙を拭った。泣いてなどいられない。アルフリーダは、歯を食いしばって、エリアスに微笑みかけた。


「はい。——持てる限りの力を尽くします」


 許されたとは思わない。エリアスが「信じます」と言ったのは、彼の優しさ故だ。だからこそやり遂げる。傷口を縫う事だけが、今の私に許されたただ一つの償いなのだから。


 リアムの声がまだ何事かを囁いてくる。幾重にも重なり、遠い日の残響のように混ざりあう、あの声が。けれども、アルフリーダの耳はもうそれを聞いてはいなかった。指先から震えと迷いが消え、アルフリーダは淡々と傷を縫い続けた。


「・・・終わりました」


 糸を切り、アルフリーダは大きく息を吐いた。全身から緊張がため息と共に溶けだしていく。返事はない。彼の呼吸は安定し、胸元の動きも少しだけ緩やかになっている。


 アルフリーダは眠っているエリアスに話しかけていた。


「私は、ずっと。・・・あなたの背に隠れて虚勢を張っていました」


アルフリーダはシーツを更に切って、長い包帯を作る。手つきはもう先ほどのような、なりふり構わない手つきではない。心は凪いで穏やかで、まるで昼下がりの窓辺で、繕い物でもしているような気にすらなっていた。


「エルノヴァの姫。あなたの主君。騎士の婚約者。それらに恥じることのない、強い自分になりたかった。でも——」


 新しい布を縫合部に当て、包帯でしっかりと固定する。筋肉で覆われたエリアスの体は重く、包帯を背中の下に通すたびに度に手首の骨が軋んだ。


「全部、私には到底なれない憧れでした」


 ギュッと包帯を締め付け、簡単には解けないように、しっかりと結んで留める。緊張と戦闘の疲れと、未知の治療法への恐怖。ありがたいことに、それらが彼を泥のような眠りへと抱き込んでいる。


 アルフリーダは箪笥の中にしまわれていた、かつて自分が使っていた毛布や毛皮を引っ張り出すと、眠るエリアスの体をそれで覆った。出血で体温まで奪われないようにする措置だ。


 窓からは早くも夕日の残光が消えていくところだった。眠りの妨げにならぬよう蝋燭を吹き消そうと前かがみになった時、ふと眠るエリアスの顔が間近に迫った。瞼を彩る銀色のまつ毛。その寝顔は子供の様に無垢であどけなく、アルフリーダの視線を惹きつけた。


「それでも・・・」


 返事はない。だからこそ言える言葉があった。


「あなたの、婚約者で・・・幸せでした」


 そして、眠るエリアスの唇に、アルフリーダはそっと自分の唇を重ね合わせた。彼の呼気が僅かにアルフリーダの瞼を撫でる。触れたか、触れないか分からないほどの、静かで短い口づけ。それは、償いでも懺悔でも、祈りでもない。


ただ一つ——


 混じりっけのない雪のような、純粋で確かな、愛の表現だった。 

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