第四十二話 『罪と信頼と死と・・・』
慌ただしく戻ってきたアルフリーダが、傷を押さえていたエリアスの手に触れた。最初に出会った時よりももっと冷たいその手に、エリアスはピクリと身じろぎをした。
「何か・・・布を下さい・・・」
エリアスはゆっくりと目を開けてアルフリーダを見た。彼女に抱く、濁りや沈み込む重さを、無理に脇へと追いやってエリアスは先を続けた。
「いつまでも、休んでいるわけにはいきませんし、あのノクスベインの事もあります」
腐った血を煮詰めたような、無感情な双眸を光らせ、異常な速さで立ち上がってくるノクスベイン。この状態で、またアレの相手をするのは荷が勝ちすぎる。何か布地で包帯を作り、傷口を固定し、町に戻ってから傷を焼こう。何なら今着ているマントでもいい。どうせ、さっきの矢の雨で穴だらけだ。父の手記には何と書かれていたか?
エリアスは痛みで浅くなりがちな呼吸を整えながら、脳内で父の手記を捲った。負傷したとき——
”負傷したときは血を止めよ。”
何度も読み返したボロボロの獣皮紙の手触りの記憶が、エリアスにやるべきことを読み上げ始める。
”出血が続けば力が奪われ、心が乱れる。布か革を当て、傷口を強く押さえろ”
エリアスは横たわったまま、血濡れた手で装備を解き始めた。右手の感覚はいくらか戻ってきた。左腕も動く。痛みさえ気にしなければ、動けないと言うことはなさそうだ。それをアルフリーダが止めた。
「私がやります」
エリアスの手に、再び凍えきったような手が重なり、慣れた手つきで手早く装備を外していく。胸当てのベルトを解き、チェーンメイルをたくし上げて。重く血を吸ったギャンベゾンを認めると、腰のポーチから小さなハサミを取り出した。それは、アルフリーダがいつも縫物をするときに使っているものだった。
「動かないでくださいね」
分厚い布の塊が華奢な鋏によって、驚くほど簡単に切り開かれていく。
自分を守る最後の防壁が切られていく音が、やけに耳に大きく聞こえた。馬の毛が足りず、羊毛の粗悪な部分を選り分けて、刻んだ藁を混ぜ込んだ中綿。丈夫な布地など、もう手に入らないかもしれない。何度も縫い直し、補強し、手をかけた。それを未練がましいと言うならそうかもしれない。それでも——
「・・・切る必要は——」
「あります」アルフリーダは手元に集中したまま、一切の迷いもエリアスに対する配慮もなく言い放った。しかし、その緊張を孕んだ余裕のない声が、逆にエリアスを黙らせた。
「紐を解くのは、あなたの負担になります」
傷口が露になった時、一度アルフリーダの手が止まった。細い三日月のような眉がギュッと額の真ん中で寄せられ、皺を作る。薄く開いた唇から漏れる呼吸はひどく浅い。まるで彼女の方が痛みに喘いでいるようだ。
彼女の眼には何が見えているのだろう。どれほど惨たらしい傷を見ているのだろうか。
「そこまで・・・酷くはないはずです」気休めにもならない言葉が口から飛び出した。横たわる自分からは見えない傷の状態を、間近で目にしている彼女に向かって「酷くない」などと。戯言にもならない。
「もう、黙って下さい」
その声は、分厚いギャンベゾンを切り裂いたハサミの切れ味そのままに容赦がなく、同時に痛みを残していた。
アルフリーダのハサミが、ベッドにかけられたリネンのシーツへと向く。丁寧にマットを包んで織り込まれたそれを、引き裂くように切り分けていく。やがて適当な布を掴んで無造作に丸めると、それを傷口に強く押し当ててきた。痛みが身を焼きエリアスは奥歯を噛みしめた。
そのまま傷を圧迫するよう言い残して、アルフリーダはベッド脇にある小さなキャビネットに身を翻した。この部屋の物は、家具と言わず小物と言わず、全てが華奢で繊細で、呆れるほど豪奢だ。宝石と同じ価値があると謳われる色ガラスを使ったキャビネット。その扉を乱暴に開き、アルフリーダが野党さながらの手つきで中身を引っ掻き回している。先ほどのリネンを切る仕草と言い、到底姫君とは思えないほど粗野で、いつもの優雅さなど欠片も見えない。目当ての物を見つけて戻ってきたアルフリーダの手には、見たこともない、硝子でできた瓶が握られていた。
「少し、傷むかもしれませんよ」
低い声でそう言うと、手にした布地に——キャビネットに入っていたものなのか、繊細な刺繍が施されている——瓶の中の液体を染み込ませて傷口に当てがった。それは薬か何かなのか?と問いかけた瞬間。
「——っぐあぁっ!」
強烈な痛みが襲い、胸が弓なりに浮きあがり、意識が飛びそうになる。血を吐いたように痛む喉に、空気と共に濃厚なワインの匂いが流れ込んでくる。酒をかけたのか?何のために?
「もう少しだけ、頑張って下さい」
アルフリーダが新しい布を傷口にあて、強く圧迫してくる。
「消毒です」
「しょ・・・う、どく?」
アルフリーダが傷を押さえながら頷いた。
「はい。傷が悪化するのを、お酒で防ぐのです」
そんな話は初耳だ。傷の治療と言えば、まずは圧迫、そして傷口を焼くのが普通のやり方だ。父の手記にも記されていた。
”傷口は固定しろ。出来るだけ動き回るな。退いてから応急処置をしろ。焼灼をする場合は仲間を頼れ。一人では手元が狂う。”
止血、固定、焼灼。父の手記にはどこにも”酒で傷を洗え”などとは書かれていなかった。困惑するエリアスの顔のすぐ隣に金の髪が音もなく落ちてきて、小さな帳を作った。驚いて目を瞬かせる。
それまで感情を削ぎ落したようだったアルフリーダの表情が、エリアスの顔に覆いかぶさるようにして訴えかけてくる。「お願いします」懇願するような低く震えた声。
紫色の宝石の瞳が潤んで見えるのは気のせいだろうか?もともと抜けるように白い肌のアルフリーダの肌色が蒼白に見えるのは?そのせいなのか?金の帳にこびりついた赤が、残酷なまでに鮮烈な色をとなって対比をなしているのは?
「私を信じて下さい。修道院の古い医術書にも書かれていた治療法です。実際このやり方で、何人もの怪我人達の傷が、腐ることなく回復していく様子を間近で見てきました」
信じろ・・・か。
以前の自分なら迷うことなく彼女を信じただろう。無垢な子供が、母親を無条件で信頼するように。エリアスの口から、最後の笑いの欠片のような声が、苦し紛れのように飛び出した。
「私を・・・信じなかった、あなたを、・・・こん、どは・・・信じろと?」
アルフリーダのまつ毛がピクリと震える。それだけで、彼女は何も弁明しなかった。代わりにゆっくりと顔を上げた。血濡れの帳が上がって行く。「ええ、そうです」アルフリーダの目はもう揺れてはいなかった。感情は拭い去られ、代わりに淡々と冷徹な表情を作り出す。けれども——その仮面の向こうで、アルフリーダが血を流し、痛みに耐え、恐怖に震えているのが見えた気がした。
「生き延びたければ、そうするしかありません」
エリアスは暫く答えられなかった。何を答えて良いのかも分からなかった。彼女は俺を信じなかった。なのに今は自分を信じろと懇願してくる。そして、信じなければ命がないと。それしか生き延びる選択肢がないと彼女の唇は告げてくる。
その沈黙を肯定と取ったのか、それともただ単に待っていられなかったのか、アルフリーダは横たわるエリアスの横で何事かを始めていた。火打石が鳴り、ベッドの脇の小机に置かれた火皿の上で火口が燃えだした。その炎を、埃をかぶった蝋燭に移す。小さな光の輪がアルフリーダの横顔を頼りなく照らす。
布が擦れる音。ハサミの立てる金属音。また酒をぶっかけようとでも言うのか、何かを注ぐ音。そのどれもが、エリアスには恐怖で、恥で、怒りで、自責で、困惑で——それらが傷の痛みと混然一体となってエリアスを蝕んでいく。そうだ。最初から選択肢などあってないようなものだ。
死か、罪か。元はと言えば、そこから始めたことだ。
封印を解くためにエクリア=ノクスを使ったあの日。次世代に使命を持ちこせないと悟り、姫の為に自分の命を懸けたあの瞬間。そして今、手元に突きつけられているのは——
死か、信頼か。彼女を信じるか、死ぬか。
しかし死んでどうする?アルフリーダは、俺が生きようが死のうが関係なく、ノルヴァン王を討ち果たしに行くだろう。そして、おそらく彼女の死をもってそれを完遂することだろう。だったら、自分が死ぬことは誓いの放棄ではないか。”死”を退け、罪を選び、ここで信頼を手放したらどうなる?結局”死”に辿り着くのではないのか?
エリアスは目を閉じた。瞼の裏の暗闇を見ているだけで、少し現実が遠ざかり、痛みが楽になったような気がする。
なんと情けないことだろう。今の自分の姿を祖父が見たら、どんな厳しい言葉を投げるだろうか。祖母が見たら、涙を流すだろうか。カミルが見たら——。いや、あいつなら「ドジ踏みやがって!」と逆に小突いてくるだろう。
情けない——
アルフリーダの浅い呼気が、傷を押さえている腕に触れ、エリアスはいつの間にか閉じていた瞼を開けさせた。
「傷を縫合します」
エリアスは自分の耳を疑った。アルフリーダの指先には縫い針が光っている。縫合?つまり縫うのか?どこを?傷口を?それは治療なのか?一体先ほどからアルフリーダは何をしようとしているんだ。
思わず身を起こそうとして、激痛が脇腹から喉の方まで走り抜ける。手がずれて、ハンカチがベッドにかけてあるシーツの上にポトリと落ちた。アルフリーダがこちらに向き直る。アルフリーダの唇が微かに何事かを呟く。余りにも小さな声で、啜り泣くように、微かに震えながら。ほとんど何も聞き取れなかったが、たった一つだけ、エリアスに聞き取れた言葉があった。
——お願いします——
その言葉は、エリアスの知るアルフリーダの言葉ではなかった。修道院で医術を学んだ者の言葉でも、冷徹で聡明な姫君の言葉でもない。ただ——
無様なほど必死な人間の声だった。




