第四十一話 『届かぬ思いと、返らぬ問いかけ』
アルフリーダの手にはしっかりとエクリア=ノクスが握られていた。右手で柄を持ち、左手で鞘を水平に構えて。
クロスガードの付け根と鞘との間にほんの僅かな隙間が出来ている。その爪一枚分ほどもない隙間からヴェル=ノクスの波動が奔流のように迸る。桁外れの異世界の源流が恐るべき速さで地面を伝い、壁を這い上り、無音の振動を伴って城全体を震わせていく。
自分が使った時とはまるっきり違う。畏怖の念を抱くまでに暴力的で、そして魅入られるほどに美しい。
アルフリーダの紫焔がエクリア=ノクスの刀身と共鳴し、互いにぶつかり、引き合い、二つの力が研ぎ澄まされていく。光が更に一段、強さを増した。もう目を開けてはいられない。それでも瞼を閉じることも、顔を背けることも出来ない。縫い付けられたように身動き一つ取れない。
——その光、鮮烈にして無慈悲——
エクリア=ノクスの波動が体を突き抜け肌を撫でていく。何の苦痛も感じない。やはりあれは、ヴェル=ノクスの力にのみ作用するのだと、改めて思い知らされる。
エリアスは息をすることも忘れ、ただ茫然とアルフリーダを見つめた。突如現れた神の姿を目の当たりにした、最初の人間のように。
丁寧に結い上げた髪が解けて、髪飾りが滑り落ちる。彼女の瞳と同じ紫色の宝石が、目も眩むような紫焔の閃光を鮮やかに跳ね返す。落ちても尚、主の耀きを飾ることを忘れていない忠実な僕のように。その光の欠片が空中で一際眩く強く輝いたかと思うと、煌めくような反響音を残して、髪飾りが床の上で跳ね返って止まった。
ドサリ。美しい宝石の後を追いかけるには似つかわしくない重い音。その無粋な響きが、エリアスを現実へ引き戻した。
ノクスベインの総身が炎に包まれたようにのたうって仰向けに倒れ、崩れかけた階段の上で本来の姿へと戻って行く。ヘルムの奥の光はもうとっくに消えていた。ひれ伏すまでに圧倒的で、蠱惑的な紫焔の波動が漸く解けていく。
霞がかかったような頭で、エリアスは震えながら剣を鞘へと戻した。その音に重なるようにして小さな金属音が続く。
カチン。呆気ないほど軽い音に反して、閃光が突然消え失せた。劇的な始まりに相応しく、終わるのもまた突然で、一切の容赦がなかった。
急激な光と闇の変化に目が追い付かない。暗闇に投げ出されたような錯覚にエリアスは、思わず左手で壁を探った。その手が下から力強く掬い上げられる。
「エリアス!大丈夫ですか!?」
目を瞬かせる。ゆっくりと部屋の暗さに目が慣れていく霞んだ視界の中にアルフリーダの顔が一杯に入り込んでくる。
「大・・・丈夫で、す」ハッキリと言ったつもりだったが、息が切れて言葉が分断される。
アルフリーダがエリアスの左手に自分の手を重ねて、傷口に強く当てがった。激痛が走り抜け、思わず叫びそうになるのをエリアスはぐっと飲み込んだ。ヌルリと濡れた感触。押さえても、押さえても、とめどなく血が滲みだしてくる。服にしみ込んだ血が、太腿を伝って足元へと流れていく。
「たい、したことは・・・」
「強く押さえて下さい!」
どこにそんな力があると言うのか。アルフリーダがエリアスの右腕を細い肩の上に担ぎ、懸命に階段を引っ張り上げる。
「一人で、あ、歩けます」
それを証明しようと、右側に体重を乗せると脇腹が悲鳴を上げた。情けないことに膝が揺れる。
「これ以上無理をするつもりですか?」
アルフリーダの声は責めるようでもあり、悲哀を含んでいるようでもあり、何よりも恐怖に震えているようでもあった。
無理をしているのは、どっちだ?エリアスは喉元まで出かかった言葉をグッと飲み下した。
いくら紫焔の加護があるとはいえ、エクリア=ノクスを使って平気でいるわけがない。王族の血が流れていようとアルフリーダが人間である限り、異世界ヴェル=ノクスの力は使用者にとっては毒であることには変わりはないはずだ。
反論を諦め、言われるままに傷口を押さえながら、エリアスは二階の廊下を覚束ない足取りで歩いた。思ったよりも深手のようだ。一歩足を動かすたびにブーツの方にまで、生ぬるい体液が伝い落ちていく。
脇腹を守るはずのチェーンメイルは下に着ているギャンベゾンごと、ザックリと切れている。胸当てでカバーしきれない部分とは言え、倹約など考えず、もう少し太い鎖を使っていれば良かったか。思わず乾いた笑い声が口を突いて漏れ出した。
こんな状況で装備の後悔をしている自分が、どうしようもなく愚劣で無様で滑稽で。エリアスは、こみ上げてくる笑いを止められなかった。
「エリア——」
「なぜ——ですか?」
アルフリーダがピタリと足を止める。静まり返った城の中で、自分とアルフリーダの荒い呼吸音だけが重なって響く。それすら可笑しくて、エリアスは声を殺して笑った。笑うたびに傷が疼く。腹の動きに合わせて、傷口に当てた手がぬめぬめと血で滑る。そのくせ喉はひりついて、エリアスの笑い声はひどくしゃがれていた。渇いた喉の奥で、何か熱く不快なものが、じりじりと燻っている。
「それほど・・・私が、頼りなかったのですか?」それほど——騎士として、信用ならなかったのか?
エリアスは重い頭を上げて、アルフリーダを見た。紫焔は消えている。宝石のような美しさはそのままに、驚きと悲しみが入り混じったような目でこちらを見つめ返してくる。
「なぜ・・・エクリア=ノクスを使用したのですか?」
アルフリーダの唇がピクリと震えるように動いた。だが、開かない。声の一片も漏れ出さない。何かを言いかけて躊躇う様子もない。ただ黙ってエリアスの腕を担ぎ直し、ゆっくりと廊下を歩き始めた。
アルフリーダが一つのドアの前で足を止め、片方の手でドアを押し開ける。そのドアには見覚えがあった。城の全てが崩れ腐れ落ちている中で、唯一百年前の姿を保っているドアは一つしかありえない。
姫の——アルフリーダの、居室。
部屋の中は、そっくりそのまま昔の状態のままだ。魔法が消え、主が不在になってからの二か月間で積もった埃が舞っている。
見たこともないような豪奢なベッドに寝かされ、エリアスはぼんやりと天蓋の内張りを見上げた。小さな窓に入れられたガラスから、夕暮れの光が差し込んでくる。
もう笑いは湧いてこない。代わりに、荒野のような空虚感だけがエリアスを支配していた。全ての感情が一気に押し流され、バラバラに引き千切られ、荒れ地と化して——。それをエリアスは、どこか遠くから他人事のように眺めていた。
何故、部屋を出てきた?
何故、エクリア=ノクスを使った?
何故——信じてくれなかった?
いくつもの”何故”が荒れ地の上を彷徨った挙句、全てが疲れ、途方に暮れている。
その中で——
ただ一つだけ、明確な形を持った疑問があった。他の”何故”とは違う。鋭く、冷たく、重い疑問。
その疑問が鋭利な剣のごとく、エリアスの心を一直に貫き、荒れ地の上に縫い留めていた。
——何故、俺の為にここまでしたんだ——!




