第三十八話 『汚れない睡蓮(はな)』
「エクリア=ノクスを・・・使ったのですね」
「あなたには関係のない事です」
突き放すような容赦のない声が、近づこうとするエリアスの足を止めさせた。
「この剣は王家の剣。つまりは、私の物です」
アルフリーダはすぐ目の前にいる。それなのに、まるで二人の間に見えない壁を隔てているように声がくぐもって感じられた。枯れた雑草だらけの石畳を風が抜けていく度に、ノクスベインの鎧がカタカタと虚ろな音をたてた。喉の奥が詰まる。しかしエリアスはどうにか声を絞り出した。
「エクリア=ノクスで・・・何をするおつもりですか?」
「姫の責務を果たしに参ります」
アルフリーダが急にエリアスに向き直り、膝を折って頭を下げた。
「グレゴリー=ヴァルド卿から始まったこれまでの働き、大儀でありました。礼を言います」
その言葉がエリアスの胸を——いや、心臓そのものを抉り出すほどに、深々と突き刺さった。アルフリーダは気づいていたのだ。エリアスがエクリア=ノクスを保管していた——いや、隠していたことを。そして、最初から渡すつもりなどなかったと言う事も。
「エクリア=ノクスの為に・・・指輪を欲したのですか?」
自分の声が自分の声ではないような錯覚に襲われる。その声は、ひどくしゃがれていて、まるで老人のように張りがなく、今にも死の淵に落とされる寸前の亡者のように弱々しかった。アルフリーダは答えない。ただ表情一つ動かさず、否定も肯定もせず、目の前の絶対的な沈黙のバリアの向こう側からエリアスを見つめていた。その沈黙が、エリアスには何よりも残酷な答えだった。
「ここから先は私一人で参ります」あなたはお下がりなさい。
今までも聞いたことのない冷厳さを帯びた淀みない声。本来のアルフリーダから鋭利な刃物で、感情の鮮やかな部分だけを容赦なく削ぎ落したような——。
慈愛に満ちたあの笑みは?誰かを思いやる時にふと見せる、柔らかさと悲哀が混じった表情は?時には怒りに身を焦がしていた、あのアルフリーダは?どこへ消えてしまったんだ?
ゆっくりとアルフリーダがエリアスに背を向ける。その背中を見た瞬間、エリアスの胸の奥で何かが軋んだ。
エリアスのブーツが無意識のうちに石畳を蹴った。駆け出して——アルフリーダの肩を掴んだ。その勢いのままアルフリーダを自分の方へと向かせる。大きく見開いた目がエリアスを認め、そして激しく瞬いた。
「ノルヴァン王を、討ちに行かれるのですか?」
言葉が自然に声となって飛び出していた。自分でも何を言っているのか、理解するのに数秒を要した。
”王は飛び去った。二つの大国を滅ぼした後、いずこかへ飛び去った。”
何度も頭の中に刻み付けるほど読んだ伝承の一文。
そうだ。王はいない。そうでなければいけないのだ。
だから城のどこを探しても”ノルヴァン王は見つけられない”。それなのに、俺は何を言っているんだ。
アルフリーダの顎がピクリと動き、エリアスの瞳を通り越して頭の中を覗こうとするようにジッと見つめてくる。
「やはり知っていたのですね?」
何を?と言う言葉が出てこない。アルフリーダはふうっとため息をついた。
「この城に”兄”がいると言うことを知っていて、あなたはそれを敢えて秘密にした。そして兄を——ヴェル=アリムを唯一討てる剣、エクリア=ノクスを隠した・・・」アルフリーダの視線が手の中のエクリア=ノクスへと注がれる。
アルフリーダの声は打ち鳴らされる鐘の音の様でもあり、遠くから聞こえてくる雷鳴の様でもあった。その静かな大音響の中で父の書いた文字が浮かび上がってくる。それは、さながら霧の帳の向こう側にぼんやりと浮かび上がる影のように。
父が残した手記。その中に広大な城塞の中身を、すべて網羅した詳細な見取り図が含まれていた。父——アドリアンは人生の全てを城塞内部の地図を作ることに捧げたと言っても過言ではない。そして、そのせいで彼は今のエリアスよりもずっと若くして命を落とした。
父が命を懸けて書き上げた地図には、ありとあらゆる情報が記されていた。城塞の作りは勿論、敵の配置、各場所の立ち回り方、負傷したときや追い詰められたときの切り抜け方まで。そして——姫の封印の居室も。ノルヴァン王が竜と共に眠る寝所さえも。
——ヴァルド家は、もうとっくにアルフリーダにも、ノルヴァン王にもたどり着いていた。ただ、姫を救い出すことも、王を討つことも出来ずに、手を拱いて見ているだけに過ぎなかったのだ。父の手記の結びにはこう記されていた。
『これは、ヴァルド家の罪と恥の記録だ。我らは王を見つけ、姫を見つけた。それでも救えず、討てず、ただ震えて立ち尽くした。この手記と地図は、我が無力の証であり、誕生間もない息子に託すしかない未完の祈りである。どうか——。聖女アマリアよ、どうかこの罪を終わらせてくれ』と。
「私も参ります」
エリアスは顎を引き上げて、懸命にアルフリーダを見た。
「あなたは必要ありません」アルフリーダの上げた声は、拒絶と言うよりも——幼い子供の啜り泣きのような悲痛な痛みを伴って広場の風に混じり合っている。
「私はあなたの・・・。エルノヴァの最後の騎士。最後のヴァルドです」掴んだ手の中でアルフリーダが身を捩ったが、エリアスは頑なに細い肩を離さなかった。離してしまったら、全てが罪のままで終わってしまう。いや、それならそれでも構わない。罪も恥も汚名も——甘んじて受け入れよう。ただ一つだけ、どうしても受け入れられないものがある。
「離しなさい」「嫌です」の押し問答。その短い拒絶の斬り合いは、決意と痛みが混じり合った、ほとんど祈りと言ってよいほどの、互いが互いを守り合うギリギリの境界線だった。頭の芯が、妙に痺れて感覚が遠い。余りにも強すぎる痛みに、思考が麻痺をしてしまったかのようだった。
エリアスが離すつもりがないと悟ると、急にアルフリーダが抵抗を止めて、向き直った。紫の瞳がギラギラとした底光りを見せながら、焔を宿してエリアスに迫る。
「では、姫として命じます。手をお離しなさい」
その声が響いた瞬間、城塞の広場全体が、氷に覆われたような感覚に襲われた。紫焔が放つ冷気に揉まれながら、それでもエリアスは必死で抗う。離すわけにはいかなかった。離したら、それこそ何もかもが水泡に帰してしまう。エリアスは、もう片方の手で——エクリア=ノクスを抱くアルフリーダの右手を強く掴んだ。
「その命令には従えません」
ぼんやりと霞んでいた頭の芯が、自分の放った言葉で、今度は急激に研ぎ澄まされていく。目の前の景色が鮮やかさを取り戻し、隔てていた目に見えない壁までもが雲散霧消した。
誓いを破った。誇りに泥を塗った。禁を破った。主であるアルフリーダから剣を遠ざけた。それだけではない。姫と添い遂げたいと言う、不遜極まりない夢を見てしまった。指輪の温もり。朝の誓い。未来を願ったあの瞬間に、身の程知らずにも舞い上がり有頂天になった。そして、一瞬でも——
エリアスは心の底から、自分を恥じた。
姫に対して”裏切りだ”と思ってしまった。指輪をだまし取られたと考えてしまった。全部、自分の罪だと言うのに。
それでも——
アルフリーダの目の奥で、まだ燃え残りのように紫焔が燃えている。エリアスはその炎に敢えて身を差し出した。この紫焔に燃やし尽くされたって構わない。罵られようと——脅されようとも——今ここでエクリア=ノクスに命を取られても構わない。
汚れない一つの信念だけは、14歳のあの時のまま、今でも変わらずここにある。汚泥に塗れながら密やかに咲く睡蓮の花のように。皓皓とした白い光を失わない、たった一輪だけ残されたエリアスだけの睡蓮——
「あなたを守ると誓った」
アルフリーダが動きを止めた。「え・・・」と掠れた声が漏れる。エリアスはアルフリーダの肩から手を離して、両手で彼女の手を包み込んだ。
「あなたを一人で行かせるくらいなら・・・誓いを捨てた方がましです」
項垂れた視界に映るのは、日々の農作業と鍛錬で泥のような色になった自分の手。そして、その泥に包まれた睡蓮の蕾ようなアルフリーダの白い手だけだ。エリアスは俯いたまま言葉を続けた。
「あなたが行くなら、共に参ります。あなたが死ぬと言うのなら、私が代わりに死にましょう。それが私の誓いです」
握った手の温度が、ゆっくりと滲んで溶けあっていく。エリアスが顔を上げた時、アルフリーダが急にエリアスの胸に勢いよく——まるで体当たりをするように——踊りかかった。思わずアルフリーダを抱えて、横ざまに倒れ込むのを踏みとどまるエリアス。その二人のすぐ側の空気が、悲鳴を上げて真っ二つに引き裂かれるような音を鳴らした。何かが空を裂いて行き過ぎる直線状の風圧。ガツン!と、石畳に矢が斜めに突き刺さる。
「エリアス!」
アルフリーダの声に振り返ると、ノクスベインがゆらりと立ち上がる姿が視界の端で揺れた。




