第三十七話 『紫焔』
見慣れた景色が視界に入る側から、ビュンビュンと後ろに飛んでいく。エリアスは、ほとんど跳ねるように石畳を駆けていた。
百年の間に補修を繰り返したとは言え、まだ往年の耀きと強度を保つ防具が、走るたびに耳障りな音を立てる。まるでエリアスの速度に必死になって追いすがっているかのように。
——アルフリーダ!
行き過ぎる町の人々が、驚いたように目を丸くして振り返る。
「どうした、エリアス。そんな恰好で」「おーい!どこ行くんだ?」彼らの声は、耳元でびゅうびゅうと鳴る風の音にかき消されて、エリアスには届かない。
城へ——アルフリーダの所へ——
昼食は作業場の近くの店で済ませるつもりだった。作業の間、アルフリーダの指輪は、ずっと懐に仕舞い入れていた。彼女の美しい髪を血と脂で汚したくはなかった。冷たい水で生暖かい血を落とした後、ふと指輪を懐から出して眺めた。
嵌めようか、どうしようか。
嵌めたいが、またどうせ午後の作業になれば、また外さねばならない。それでもと、エリアスは艶やかな髪を愛おしむように指先でなぞった。もう少しこの感触に触れていたい。いや、アルフリーダの顔が見たい。そう思った瞬間、昼食はやはり家で摂ろうと、心が勝手にエリアスの体を動かした。仲間に断りを入れて、エリアスは石畳を足早に家へと引き返す。
あの時の足取りは軽く、羽でも生えたかのように浮き立った。家へ向かう道のりに、こんなにも胸を弾ませたことがあっただろうか。
家が見えたその時、突然エリアスの胸に影が差した。説明できない違和感。
鎧戸が開け放してある。いや、それは良い。今日は珍しいほどの快晴だ。家の中に火の光を入れて、きっと窓辺の陽だまりか暖炉の前でアルフリーダは縫物をしているのだろう。それなのに。この胸騒ぎは何だ。
エリアスの中の何かが、これは異常だぞ。何かが違う。と告げている。エリアスは飛びつくようにしてドアを開けた。
窓の形に四角く切り取られた陽の光が暖炉の方に向かって伸びている。そして容赦なく炉床を照らし出していた。火の消えた炉床を。
ドクン、ドクンと耳の奥で心臓が鳴り響いている。この季節、暖炉の火を消すなどまずありえないことだ。エリアスは暖炉に駆け寄って炉床を覗き込んだ。そこには、期待していた”勝手に火が消えた形跡”はなかった。灰がうずたかく積んである。つまり、意図的に灰をかけて火を消したと言うことだ。誰かが。つまり、アルフリーダが。
弾かれたように立ち上がり、エリアスは家中くまなく探し回った。何度も彼女の名前を呼び、勝手口を開けて裏庭も確認してみた。そこには洗ったばかりのシーツと、エリアスのチュニックが干してあるだけだ。金の髪、一筋も見えない。
「アルフリ——」
いよいよ不安が体を支配しつくそうとした瞬間、食糧庫の扉が目に入った。木のドアに微かに隙間が出来ている。
まさか・・・
食糧庫と壁の間に出来た隙間は、どこまでも暗く塗りつぶされている。まさか・・・。エリアスは慌てて頭を振り、浮かびかけた考えを打ち消そうとした。もし食糧庫にアルフリーダがいるとしたら、孤児たちへの炊き出しに使う野菜を選んでいるのだ。そうだ。炊き出し。きっとアルフリーダは炊き出しに出ているのだろう。だから留守なんだ。
エリアスの脳が、頼んでもいないのに都合の良い話を次々と作り始めていく。思考は拒絶しているのに、足はまるでコントロールされることを拒んでいるかのように食糧庫へと近づいていく。隙間に指をかけ、ドアを開く。陽の光がギリギリ届く棚の上に、火の消えた燭台が置かれていた。見たくないのに、視線が勝手に床へ動いていく。エリアスからそう離れてはいない敷石はずらされて、ぽっかりと口を開けていた。奈落の底のような暗闇が、絶望を飲み込もうと——。
町を抜け、丘の道を駆けあがり、初めてアルフリーダと町を臨んだ丘の天辺でエリアスは少しだけ足を緩めた。何か予感めいたものを感じた気がした。遠くに城へ向かって伸びる跳ね橋が見える。城では、おそらくノクスベインが生前と変わらぬ配置で詰めていることだろう。一度ヘルムを外して、エリアスは目に入りそうになっている汗を拭おうとした。その時。城塞の向こうで光が放たれた。一瞬だけ、くっきりとした影が跳ね橋の方に向かって伸びるくらい鮮烈な紫色の光が。
胸の奥が騒ぐ。以前自分がエクリア=ノクスを抜いたとき、どうだったか。胸当ての下に着こんだギャンベゾンの更に下で、戦場の合図の太鼓のように心臓が激しく打ち鳴らされている。エリアスは一度喉を鳴らしてから、再び駆け出した。頭の中に声が響いてくる。何度も読み返した伝承の言葉を、干からびた老人の声で、容赦なく読み上げていく。
”汝 命を薪とし 魂を注ぎてその剣を振るえ”
うるさい!黙れ!
”凡愚の徒がこれに触れたるば たちまち魂を吸い尽くされ灰燼と帰す”
跳ね橋にたどり着いた。もうとっくに光は消えている。けれども、ここを支配している静けさがエリアスの背筋を、冷たく不気味になぞった。
”ただその瞳に”紫焔”を宿す覇者のみが この魔剣に抗えうる
紫焔は剣に伝い エクリア=ノクスは 万物を焼き尽くす紫電の閃光を纏う”
静まりかえった跳ね橋を過ぎ、エリアスは無防備にバービカンに飛び込んだ。幾多の目がこちらを覗く殺人孔の向こうにも何も見えない。どころか足音一つ聞こえない。矢の一本でも飛んでくれば、まだ気が
楽だったかもしれない。伝承の声がエリアスを内側からじりじりと蝕んでいく。
”その光 鮮烈にして無慈悲”
無人のバービカンを走り抜け、エリアスは開けっ放しの格子戸の向こうに躍り出た。
”神をも穿つ異界の残光なり”
キラリ。広場の中ほどに金色に光る髪が見えた。
「アルフリーダ!」
午後の陽光を跳ね返す金色の光に向かって、エリアスはあらん限りの声で名前を叫んだ。
アルフリーダがゆっくりと振り返る。両手に布で包んだエクリア=ノクスを抱き、感情のない目でエリアスを見つめてくる。布は半ば解かれて、硬質な金属の柄が覗いている。
「なぜ・・・来たのですか?」
その声は、冬の湖に張った氷の上に佇む空気のように、静謐で、そして痛いほどに冷たかった。彼女の周囲にはノクスベインが倒れて転がっている。腕や足をあらぬ方向に曲げ、さんざん遊んで飽きられて忘れられた壊れた人形のように。




