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封印の姫と最後の騎士  作者: ラーナ


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第三十六話 『アルフリーダ=レンヴェルグ』

パン!と、小気味よい音が青空に弾けた。リネンの布地をピンと張り、アルフリーダはロープに洗濯したばかりのシーツを広げた。まだポタポタと水が滴っているが、今日のような陽気なら夕方には乾くだろう。顔を撫でる冷たい空気すら心地よく、アルフリーダは空になった大きな洗濯籠を脇に抱え上げた。


「おやまあ。今日は遅いのね?具合でも悪いのかい?」


 お隣のマルタが垣根越しに声をかけてきた。この家に来た時、一番に声をかけて来てくれたおばさん。アルフリーダはニッコリと笑って首を振った。


「いいえ。ちょっとエリアスと話をしていたもので」


 いつもはどことなくキョトンとした表情のマルタが、小さく笑った。


「まあ、新婚さんだねえ。おっと、婚約者だったっけ?あんた達いつ結婚するんだい?」


「そう仰られても、エリアスがお決めになることですから・・・」


 曖昧に笑って返しながら、アルフリーダは勝手口から家の中に入った。エリアスは家畜の解体作業に出ている。解体作業は重労働だ。きっと夕方まで戻らないだろう。


 勝手口の横の棚に籠を戻し、代わりに布巾を取り上げると、隅に小さく区切ってあるだけの台所に向かった。桶の中には、洗濯ついでに井戸で洗ったばかりの木の椀とスプーンが二人分重ねて入っている。アルフリーダは唇を緩めて、木の椀に付いた水滴を布巾で丁寧に拭うと、小さな食器棚に戻した。


 食器の片付けが終わったら、次は掃除だ。エリアスが汲み置きをしてくれている甕の水を、バケツに少しもらい、アルフリーダは布巾を浸した。水の冷たさが肌を鋭く刺すのを、頭のどこかで感じながらアルフリーダはギュッと水気を絞り、テーブルや家具を綺麗に拭いて回った。ささやかな食事を二人で、あるいはカミルも混ぜて三人で囲んだテーブル。少し傾いだ丸い木の椅子。本棚。


 アルフリーダは、ヴァルド家の記録や、兵法、剣術の本に混じってこっそりと隠れるように並んだ詩集を、指先でそっと撫でた。


 家中の鎧戸を開けて周り、二枚しかないシーツのもう一枚を藁の塊の上にかけて、ベッドを整える。床の上に冬の匂いが混じった風が通り抜け、隅の方で丸まっていた埃を掻きだしてくれる。アルフリーダは、布巾を洗ってしまうと、今度は箒を手に、目につく全ての埃や小さなゴミを外に掃きだした。どの仕事をする間も、アルフリーダは小さく歌を口ずさんでいた。誰に聞かせるでもなく、ただ自分の胸の奥を静かに温めるためだけの歌を。


 やがて家事が一段落すると、アルフリーダはエプロンを外して椅子の上に畳んで乗せた。


 窓際へ寄って、髪を整える。襟足にかからない位置で丸く髪を纏め、ここに来た時に髪に差していたアメジストの髪留めでシニヨンを固定する。そして——


 アルフリーダはゆっくりと食糧庫に足を向けた。


 朝食の時自分が吹き消した蝋燭に暖炉から火を移し、アルフリーダは暗い半地下になっている食糧庫のドアを開けた。以前カミルが散らかした食糧庫。粉の袋の棚に燭台を置き、アルフリーダは重たい木箱を、一つずつ引きずるようにしてどかしていく。


 あの時——カミルが来なければ、今頃自分は何をしていただろうか?あの時、片付けの手伝いを申し出なかったら?気を遣ってくれたエリアスの言葉に従い、先にベッドに入っていたら?考えても栓ない事だ。どのみち自分は、これに気が付いてしまったのだから。


 最後の木箱をどかすと、そこに四角くはめ込んである敷石が現れた。その中央に、丸いくぼみがある。祖の窪みの中に、誓いの文言と共に紋章がある。蝋燭の鈍い灯りの中で、浅くともくっきりと影を浮きだたせながら——ヴァルド家の紋章が。


 アルフリーダは、うっすらと浮かんだ汗を拭うと、左手の薬指から指輪を外した。


 ヴァルド。アルフリーダは蝋燭の明かりの元で、指輪をじっと見つめた。


 グレゴリー=ヴァルドにエクリア=ノクスを託したのは、封印されるほんの数週間前のことだった。グレゴリーの一人娘、アリシアの婚姻の祝いにと、当時の当主であるグレゴリーを城に招いた。侍女の協力もあって、どうにか王家の剣——異世界ヴェル=ノクスの力を断ち切れる唯一の武器——を、預けることに成功した時を、昨日のように思いだせる。


 アルフリーダは息を吸い込むと、敷石のくぼみに、迷うことなく指輪のシグネット面を押し当てた。重い音を立てて、小さい隙間が床と敷石の間に出来る。アルフリーダは指輪を嵌め直すと、力を込めて敷石を動かした。重い。でも、やらねば。汗だくになり息を切らせながら、どうにか動かした敷石の奥から、階下へと降りる石の階段が出てきた。人一人どうにか降りられそうな階段だ。アルフリーダは息を整えながら、燭台を取り上げて、震える足を階段に踏み出した。階段は長くはなかった。ほんの五段ほどで、ドンつまりに行きあたる。その一番奥の小さな空間に、探さずともそれはあった。


 エクリア=ノクス——


 祭壇のように石の台の上に、広げられたリネンの上に置かれた一振りの直剣。知らない者が見たら、なんだ、ただのロングソードじゃないか。と思うほど、何の装飾もされていない。ただ一つ。鈍色の鞘にうっすらと刻まれた魔法の封印の文字だけが、この剣が普通とは一線を画しているということを沈黙の中で物語っていた。


 アルフリーダはゆっくりと、その冷たい剣を手に取った。その時、ふと目の前の壁に目が引きつけられた。荒削りに土を掘ったところに、石を組んだだけの簡素な壁。そこにもう一振り小さな剣が据え付けられていた。


 何かしら?木で出来ている?短剣と呼ぶにも貧弱な、ナイフとそう変わらない大きさの小さな短剣だ。燭台を近づけて、アルフリーダはハッと息を飲んだ。柄に聖女の手の掘り込みがされている。それだけではない。ブレイドの部分は空洞になっていて、空洞を形作っている面は透かし模様で、聖女の祝福の力を立体的に表現している。これは、ただの工芸品ではないかもしれない。


 誰が何のためにこれをここに置いたのかは、分からない。それでもアルフリーダには、まるでそれが聖女アマリアからの——静かな導きのように思えた。


 アルフリーダはエクリア=ノクスを床に置いて、その場に跪いて首を垂れた。汗ばんだ手を組み合わせ、そっと祈りの言葉を口にする。


「神様——聖女アマリア様——。私は罪深い女です。ですが赦しは乞いません。代わりに——どうかエルノヴァの民を・・・そして——彼を、エリアスをどうかお守りください」


 塞いだ瞼の裏で、ここでの日々が本のページを捲るように流れていく。修道院にいた少女の頃を思い出しながら家事をした事。即興で作った二人の馴れ初め話。ミレイユを救うためにディランを出し抜く計画を立てたこと。そして収穫祭。あのリンゴは、翌朝エリアスが焼きリンゴにして下さったんだったわ。美しい思い出が次々に溢れて、そして暗雲の中に落ちていく。アルフリーダにはもう一つ。この家での忘れることは許されない”思い出”があった。


 ”掃除”と言う名目で、エクリア=ノクスを家探ししたこと。


 笑顔を絶やさず、健気に家事を頑張る婚約者の皮を必死になって取り繕いながら。


 「ヴァルド」と言う名前を聞いたときはもしやと思った。目の前で跪く青年が、エクリア=ノクスを託したグレゴリーに繋がる系譜ではないかと。婚約の提案を本物にしたのは、彼の庇護を何の言い訳もなく受けるため。そして——この家に来て、本棚にあった記録を見て確信した。彼こそが、グレゴリーの血を引く、王家の剣を守り続ける、あのヴァルドなのだと言うことを。


 


 台所に戻ると、もう日は中天に差し掛かかっていた。アルフリーダはさっきの布でエクリア=ノクスを包みこみ、暖炉へ歩み寄る。まだ静かに燃えている熾きに灰をかけると、赤い光が見る見るうちに光を失っていく。その瞬間——またあの声が聞こえた。


 封印から出た直後から、断続的に聞こえてくるあの忌々しい声が。ひび割れた声が幾重にも重なり、その反響の中にリアムの声が確かに混ざっている。それはアルフリーダの中では、もはや聞き慣れたものとなっていた。家事をしていても、食事をしていても、誰かと話をしていても。思いだしたように耳元で囁いてくる、竜と混ざり合った兄の声。


 エリアスは咄嗟に付いた嘘——頭痛だと信じ込んでくれた。それで良かった。ヴェル=アリムの声が聞こえる。などとエリアスの前で言ったら、彼はどんな反応をするだろうか?心配する?不安がる?それとも、気味悪がるだろうか?


 今となってはどちらでも構わない。私は、今からアレを永遠に眠らせるのだから。


「ええ。今、参ります。・・・お兄様」


 低く呟き、戸口に立つ。ドアに手を伸ばしかけた時、アルフリーダは、何かに呼ばれたかのように勢いよく振り返った。開け放たれた窓から差し込んでくる日の光に照らされた家——たった二か月の間だけ暮らした、エリアスの家。


 カミルの笑い声、エリアスの低く静かな言葉。暖炉の中で木が爆ぜる音。鍋の中で粥が煮えるクツクツと言う音。それらすべてがアルフリーダに呼びかけているように思えた。アルフリーダは一瞬だけ、唇を綻ばせてそれらの聞こえない声達に向かって微笑んだ。


 そして、踵を返す。ドアの取っ手を掴み、引く。アルフリーダは——もう振り返らなかった。



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