第三十五話 『二つの指輪』
窓の外を騒がしい子供が駆けていく。その騒々しい声ですらどこか遠い世界のように、エリアスとアルフリーダはしばらく黙ったままテーブルを挟んで向き合っていた。
「あなたは、私に相応しくないと言いましたね?自分は無力だから、と」
最初に口を切ったのはアルフリーダだった。
「ええ」
エリアスは、項垂れそうになる顎をクッと持ち上げて頷いた。
「それは私も同じです。姫として——あなたに騎士の称号を与えることも出来ない。無力な主君です。それなのに、あなたは私に尽くしてくださいました」
みすぼらしい燭台を取り上げ、アルフリーダは唇をすぼめて炎を吹き消した。ふうっと部屋の中が暗くなり、影が濃さを増す。
「アルフリーダ?何を——」
言いかけた時、アルフリーダが立ち上がり、重い鎧戸を開けた。刺すような冷たい、初冬の朝の空気と共に、眩しい日の光が食卓を鮮烈なまでに照らす。エリアスは思わず眩しさに目を細め、手で庇を作った。
「ここに来て、あなたの庇護を受けながら暮らした日々が、私にとってどれほどの光だったか——」
逆光の中で、光を纏ったアルフリーダがこちらを向いた。その姿は初めて彼女を見たその瞬間を彷彿とさせた。崩れかけた城。開け放たれた封印の扉を背に、血で汚れたドレスを身に纏い、それでも気高さを失わなかったエルノヴァの姫。
エリアスは言葉を失い、ただ見上げた。何物にも侵すことが出来ない、姫としての絶対的な美しい強さに、沈黙と言う形で深く平伏した。
「もしも、あなたが私との未来を考えて下さるのなら、私はあなたに報いたい」
アルフリーダがゆっくりと歩み寄ってくる。長く伸びた影がエリアスに降ち、彼女はそのままエリアスの前に跪いた。
「図々しく婚姻を望んだりは致しません。私には、あなたの隣に立てるほどの高潔さはありません。ですが」
祈るように手を組み合わせ、アルフリーダはエリアスの顔をまともに見つめてきた。大きな紫色の瞳。紫焔と呼ばれる魔法の炎を秘めたエルノヴァの最後の宝石。
「ですが、もしも許されるのなら・・・約束が欲しいのです。あなたのアルフリーダだと言う約束を」
庇を作っていた手がずり落ち、眩しい冬の朝日が目を直撃する。それでもエリアスは身動きどころか、瞬き一つ出来ないでいた。これは・・・現実なのだろうか。
追いつかない思考をそのままに、手が自然に自分の襟元を弄る。指に絡まる鎖を引き出すと、コロンと銀の指輪が胸元で小さく跳ねた。
震えそうになる手を抑えながら、エリアスは首の後ろに手を回す。常に誓いと共にあった指輪を通している鎖。肌になじみ過ぎて自分の一部となってしまった鎖。
少し頭を俯かせて首から鎖を外す。チャラ、と金属音を立て、銀鎖が掌に収まった。小さな留め金をエリアスはそっと押し広げる。歪んだ金具が外れて、指輪が膝の上に落ちる。眩い朝日が、指輪に彫られた誓いの文言がくっきりを浮かび上がらせた。
”誓いは永遠”——
「その約束を・・・私のような男の手が差し出しても良いのなら——」
エリアスは指輪を膝の上から取り上げ、アルフリーダの左手をそっと取った。あの時と同じ。彼女の手は冷たく凍えている。まだ二月ほどの暮らしだと言うのに、その肌は日に焼け、貝の裏側のような滑らかだった爪には細かな傷がついていた。エリアスは、壊れ物を扱うような手つきで、その指にそっと指輪を嵌めた。
「この指輪を、あなたに預けましょう。ヴァルドの誓いと共に。その誇りはあなたのものです」
ポタ、とエリアスの手に温かな水滴が落ちた。はっとして顔を上げる。目の前で、アルフリーダの顎から涙がいくつも零れ落ちていく。宝石の瞳から、次から次に生まれる透明な雫が、頬を伝い、まっすぐにエリアスの手へと落ちていく。柔らかな春の雨のように。温かな雫が、エリアスの手から心の底へと、静かに染み込んでいく。
「この誇りに・・・この誓いの言葉に恥じぬように・・・」アルフリーダの声は微かに震えていた。涙を拭いもせず、濡れたエリアスの手をギュッと握る。
「私は、あなたの・・・。いつまでも、あなたのアルフリーダでおりましょう」
ゆっくりとアルフリーダが立ち上がる。彼女のスカートの裾が床をさあっと撫でる音までもが、エリアスには愛おしく感じた。
「少しだけ・・・待っていてください」
袖で涙を拭うと、アルフリーダは寝室へと姿を消す。残されたエリアスは一人、空っぽになった銀の鎖を手の中で無意識に弄んだ。 諦念に心を腐らせ、志すら泥に塗れ、誓いを捨てて死を選ぼうとした時でさえも、この指輪を外そうとは思わなかった。こんな日が来るとは・・・。
ガタッと奥の扉が開き、アルフリーダが戻ってきた。そして先ほどと同じように跪き、今度はエリアスの左手をそっと取った。
「これは・・・私の命。私の良心です」
アルフリーダがエリアスの指にそっと何かを嵌めた。柔らかい感触。アルフリーダの手が離れた時、エリアスは息を飲んだ。
「これ・・・は、あなたの髪・・・?」
自分の無骨な指に嵌められたもの。それは、金色に輝く指輪だった。細く、丁寧に編みこまれた髪の指輪が、淡い光を跳ね返しながら輝いている。一体いつ作っていたのだろうか。編み目の一つ一つに彼女の息遣いさえ感じられ、エリアスの呼吸が浅くなった。
「ええ。こんなものしか用意できませんでしたが」
「こんなものだなんて・・・」
不覚にも声が上ずる。目頭が熱くなり、エリアスは慌ててそこら辺にあった布切れで、顔をごしごしと拭いた。
「これは・・・あなたの命。・・・ならば私は、この命を守る者であり続けましょう。あなたのエリアスとして」
エリアスは自分の左手を持ち上げて、そっと金の指輪に口づけを落とした。騎士として。そして一人の男の誓いを込めて。
その瞬間アルフリーダの手が、エリアスの右手に触れてきた。あの顔を拭いた布切れを握りしめている方の手に。
「あの・・・」
アルフリーダの手がするっとエリアスの手の中に滑り込む。ドキンと心臓が大きく飛び跳ねる。
この流れ——
互いの想いの告白、誓いの言葉、指輪の交換、手を重ねる仕草。まるで意識をしていなかったが、婚姻の儀式そのもではないか。まさかアルフリーダは、夫婦としての親密さを自ら示そうとているのでは——などと思った矢先。アルフリーダがエリアスの手から、顔を拭いた布切れを取り上げた。
「ごめんなさい、エリアス。あなたが顔を拭いたこれ・・・、布巾なのです」
は?布巾?何を言われているのか分かるのに、数秒ほどかかった。全てを理解した瞬間、エリアスはがっくりと項垂れた。
「ご、ごめんなさい、止められなくて。あまりにも、あなたの動きが早かったものですから」
「あ、い、いえ。だ、大丈夫です」
クソ——!どこまでも無様だ!真っ赤になって奥歯を噛みしめるエリアスに、アルフリーダがふっと微笑んだ。
「エリアス。あなたの言葉・・・、とても胸に沁みました。この言葉があれば、どんな時でも怖くはありません」
その言葉がエリアスにはどこか引っかかった。
”どんな時でも、怖くない”とは、どういう意味だ?それを問おうかどうしようかと考える間もなく、アルフリーダがすっと立ち上がった。
「さあ、朝食を食べてしまいましょう。今日もやることがたくさんありますもの」
エリアスは頷き、すっかり冷めてしまった粥の椀を引き寄せた。そうだ、冬に備えてやることが山積みだ。今日と言う日を生きなければ。アルフリーダとの明日の為に。




