表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
封印の姫と最後の騎士  作者: ラーナ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
35/38

第三十四話 『エリアスの懺悔』

 心臓がドクンと胸を強く突き上げた。鼓動の衝撃が体の隅々にまで広がり、急激に体温を奪っていく。指先の感覚が曖昧になるような錯覚に、エリアスは一度置いたスプーンを握りしめた。濁流に足を取られそうになった時、流されまいと必死で掴む木の枝のように。


 まさか、婚約を解消したい。などと言う申し出か?


 耳の奥で心臓が恐怖に竦みあがるのを感じた。エリアスは手の中の硬い木の感触に全神経を集中させる。そうでもしないと、婚約解消の話など、とても落ち着いて聞いていられない。さっきハーブティーを口にしたと言うのに喉の奥がカラカラだ。「何のお願いでしょうか?」の一言が、喉の奥に張り付いて出てこない。


 いや、まだそうとは限らない。もしかしたら夜ごとの悪夢や、表情に差す影の理由と関係がある話なのかもしれない。けれど、もしそうだとするなら「お願い」などと言う言葉は使わない。「相談があるのですが」で通る話だ。アルフリーダが花びらを思わせる唇を開いた。


 「私たち、誓約の儀式を行ってから、もうそろそろ二か月になりますわね」


 誓約——婚約——解消——


 最悪の想像が濁流のように胸の奥で激しく渦を描く。スプーンを握る手に力が入り、木製の柄がかすかな悲鳴をあげた。それでもエリアスはただのスプーンを手離せないでいた。少しでも力を緩めたら、恐怖と不安の渦に、いとも簡単に押し流されてしまいそうだから。


 アルフリーダは、そんなエリアスの悶えるような動揺に気づいているのかいないのか、静かに言葉を続けた。エリアスはごくりと喉を鳴らした。


「婚姻の儀式は——その・・・いつ頃をお考えなのかと・・・思いまして」


 時間が停止した。耳から入ってきた恥じらいを含んだ甘い情報と、自分の思考が嚙み合わず、壊れた水車のようにガラガラと頭の奥が空回りをしている。解消、ではない?何と言った?婚姻?の儀式?


 メキッと音を立てて、手の中でスプーンが力に耐えきれずに真ん中でへし折れた。


「だ、大丈夫ですか?」アルフリーダが驚いて席を立ちあがる。


「手は?怪我はありませんか?」


 アルフリーダが、エリアスの手を検めようと手を伸ばして来る。彼女の指先が触れそうになった途端、喉の奥で引っかかっていた声が急に弾けるように飛び出した。


「い、いえっ・・・!あの、だ、だ、大丈夫です」


 余りにも勢いよく手を引っこめたせいで、簡素な木の丸椅子がギッと大きく軋み、エリアスの体がぐらりと後ろへ傾く。慌てて体重を前に戻し、エリアスはどうにか椅子から転げ落ちずに済んだ


 アルフリーダは一度ポカンと口を開いたが、すぐに「そうですか」と頷いた。


「すみません。気づかなかったとはいえ、こんなに簡単に折れるスプーンを用意してしまって——」もしかして腐っていたのかしら。などと呟きながら、無残に折れ曲がったスプーンの残骸を暖炉の中に放り込み、引き出しから代わりのスプーンを出してエリアスの前に置いた。新しい荒削りのスプーンを前にしてもエリアスの思考は、すぐとは調子を戻せない。


 てっきり別れを切り出す冷たい言葉を投げられるものと思っていた。けれどアルフリーダの唇が紡いだのは、それとは真逆の——自分との未来を考えるような言葉だった。


 蝋燭の芯がジジッと音を立て、炎がふっと身をすくめた。まるで密談の場に運悪く通りかかった者が、気づかれまいと肩をすぼめるように。


「そ、そ、それで・・・」


 アルフリーダがテーブルに着いたのを見届けてから、エリアスはどうにか言葉を絞り出した。声が裏返って頼りなく震えている。もう唇ごと舌を縫い付けた挙句、雪のように溶けてしまえればどれだけ楽な事か。


「こ、婚姻の儀式のお話でしたか?」


 アルフリーダがコクリと頷いた。その表情にまたあの”影”がふわりと落ちてくる。


 もしかして・・・?


 エリアスの胸の奥で何かがひっそりと形を成した。最近、彼女の顔に差す物憂げな影。ふとした瞬間に沈み込む視線。そして、婚姻の儀式についての問いかけ。それらが全部一つの線に繋がったような気がした。


 もしかしてアルフリーダは、いつまでたっても進まない婚約生活に不安を覚えていたのではないか?自分との未来が本当に訪れるのかどうか。その答えをずっと探していたのではないのか?——一人で。


「その・・・」


 へどもどしそうになる声をどうにか押さえつけ、エリアスはゆっくりと続けた。


「あなたを、不安にさせるつもりはありませんでした。ただ、その・・・」


 尻の下でまた椅子がギシリと音を立てる。こんなことなら、釘の一本でも打ち込んでおけば良かったか。それでもエリアスはぐらつく椅子の上で、精一杯姿勢を正した。


「私にとって、あなたは今でも姫君です。ですから・・・私の一存で、婚姻を進めても良いものかどうか、・・・分からなかったのです」


 言い終えた瞬間、アルフリーダの金のまつ毛にまたあの”影”がふわりと落ちる。けれど、さっきまでの暗い色とは少し違う。暗い森の奥に差し込んだ陽の光。その薄光が、なだらかな波となって淡い光の濃淡を作り出すような影。


「なぜですか?婚約を望んだのは、私ですのに」


「それは・・・そうなのですが」


 エリアスは口ごもった。そもそも婚約は、名ばかりのものにするつもりだった。守護を盾にして、彼女を自分に縛り付けるような真似をしたくはなかった。それを「誓約の儀式」と言う形にしたのはアルフリーダ自身だ。その瞬間、耳の奥の遥か深淵から、唸り声にも似たくぐもった嘲笑が聞こえてきた。


『・・・呆れたヤツだ・・・』ザワリと体の芯が揺らいだ。


 自分の声が、自分の中で、他でもない自分自身をあざ笑う。夕闇に染まった収穫祭の広場で、汚れ切った自分を断罪したもう一人の”エリアス”。


『名ばかりの婚約にするつもりだった?ああ、そうだったな。それは真実だ』


 エリアスは息を吸えなかった。吐くことすら出来ない。目に見えない空気ではない何かを、無理矢理に口から喉の奥まで詰め込まれたように。


『自分の一存で婚姻を進めていいか分からなかっただと?笑わせるな。本当は、ただ待っていたのだろう?彼女に責任を負わせた上で、自分が泥を被らずに済む安全圏から、一番容易く彼女を手に入れられる”都合の良い瞬間”を。浅ましく、よだれを垂らしてなぁ?』


 眉間の奥の方がカアッと熱くなる。怒りとか羞恥とか、そんな生易しい感情ではない。まるで急所を矢で射抜かれた後、そのまま引き抜かれたようだ。矢じりの返しが血肉を剝ぎ取るように、エリアス自身が彼の虚飾を容赦なく剥ぎ取って行く。


『名目だけで良いと言ったのに、本当の誓いを望んだのは彼女だ。それで?今は婚姻の儀式の話しか?ハッ!これ以上ないほどの好機と言うわけか』


 どす黒い嘲笑が耳の奥を汚し、喉の奥を塞ぎ、心臓の壁を冷たく凍らせていく。


『礼拝堂に連れて行ってほしいと言われた時を覚えているか?腹を空かせた汚い犬が、彼女の提案と言う肉に飛びついた瞬間だった』


 影の声がグッとエリアスの耳元に声を近づけてきた。


『そして今も——ただ座って、差し出される手を待っているのだろう?』どこまでも薄汚く、浅ましい獣よ。


 エリアスはただ、黙って己を断罪する己の声を聞いていた。もう抵抗する力もなく、矢を引き抜く勇気もない。そうだ。俺は惨めで汚くズルい獣だ。それは動かせない事実だ。けれど——


 エリアスは乱れた前髪を透かしてアルフリーダを見た。どこまでも澄み切った、初夏の早朝に仰ぐ空のような紫色の瞳。


「——正直に言いましょう」


 エリアスはポツリと言葉を口にした。


「私は、自分があなたに相応しくないと思っております」


アルフリーダの顎がピクリと反応した。だが何も言わない。続きを待っているのだ。エリアスは、どうにか息を吸い込む、そしてゆっくりと吐き出した。


「私の妻になると言うことは、この過酷なエルノヴァで泥に塗れて生きろと言う事。私はそのような事をあなたに強要したくはないのです」


 顔を上げた。アルフリーダの向こうに自分の長年暮らした家が見える。使い込まれてヒビが入っている竈。一つしかない鍋。傾いだ家具類。少し斜めになったドア。あちこちから藁が飛び出た土塗りの壁。


「私はあなたに十分な暮らしを与えられません。そのくらい・・・私は無力なのです。ですから——」


 エリアスは真っすぐにアルフリーダの顔を見つめた。薄暗い中でも彼女は眩しく、煤けた空気でも美しさを損なわない。どこまでも清廉で気高い姫。


「あなたに・・・婚姻を言い出せなかった」


 暫くはどちらも声を出せなかった。アルフリーダはただ静かにエリアスを見つめ、笑みとも憂いとも取れないような表情を浮かべている。ハラリとアルフリーダの前髪が一筋額を滑って頬に落ちる。それを細い指先で耳にかけてから、アルフリーダが小さく頷いた。


「あなたのお気持ち・・・しかと受け止めました。その上で今一度あなたにお願いがございます」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ